第28話 ざわめき
フェリクスが別室へ運ばれたあとも、広間には先ほどまでの華やかさが戻らなかった。
楽団の演奏は止まったままで、使用人たちは招待客の間を行き来しながら、今夜の夜会を早めに切り上げることを伝えている。帰り支度を始める者がいる一方、何が起きたのか知りたがってその場に残る者も多く、広間のあちこちで声を潜めた会話が続いていた。
リディアはセシリアのそばにいたが、聞こうとしなくても断片的な言葉が耳に入ってくる。
「フェリクス先生、最近また昔の宮廷記録を調べていたそうよ。もう研究からは退かれたと思っていたけれど」
「それと今夜のことに何の関係があるの? ただのお身体の具合でしょう」
「もちろんわからないわ。でも、あんなに突然倒れたのよ。さっきまで普通に話していらしたのに……」
話している者たちにも確かなことは何もわかっていないらしく、別の客が加わるたびに内容が少しずつ変わっていく。
古い宮廷記録。
その言葉だけは、リディアにも引っかかった。
フェリクスが以前、宮廷史を研究していたことは、今夜挨拶を交わした際にも聞いていた。ただ、すでに研究の第一線を退いていると聞いていたため、今も古い資料を調べ続けているとは思わなかった。
隣に立つセシリアへ目を向けると、彼女も周囲の会話を聞いていたらしい。
「フェリクス先生が最近も研究を続けていたこと、セシリア様はご存じでしたか?」
「いいえ。先生は父と会えば昔の話をよくしていたけれど、最近どんなことを調べていたかまでは聞いたことがないわ。今夜だって、いつもと変わった様子はなかったし……」
セシリアはフェリクスが運ばれていった扉へ視線を向けた。主催者として客の対応を続けてはいるものの、先ほどから時折、無意識に同じ方向を見ている。
「医師の方がついていますし、今はお任せするしかありません。セシリア様も、ずっと動き続けていますから、少し休んでください」
「そうね。でも、みんな帰るまでは落ち着かないと思う」
苦笑したセシリアのもとへ、すぐに使用人が呼びに来た。帰りの馬車が混み合っているらしく、順番をどうするか相談したいという。
「ごめんなさい、また少し行ってくるわ。リディアはここにいて」
「私は大丈夫です。行ってきてください」
セシリアを見送ると、リディアは人の流れを避けて壁際へ移った。
広間の中央では、レイフォードを含む数人の騎士が招待客や使用人から話を聞いていた。誰かを疑っているというより、フェリクスが倒れる前にどこにいたのか、誰と話していたのか、何を口にしていたのかを順番に確かめているようだった。
先ほどまで騒ぎを遠巻きに眺めていた人々も、騎士から声をかけられると表情を引き締め、記憶を辿りながら答えている。
やがて、フェリクスと長く話していたらしい年配の男性がレイフォードの前に呼ばれた。
「先生とは、今夜どんなお話を?」
「昔の宮廷史について少しですよ。最近、古い資料を読み直していると言うものだから、相変わらずだなと笑っていたところです」
少し離れた場所にいたリディアにも、その声は聞こえた。
レイフォードが何かを書き留める。
「具体的に、どの時代の資料かは聞いていますか?」
「そこまでは。ただ、王宮に残っている古い記録をいくつか見せてもらっているとは言っていました。何か気になることがあるようでしたが、研究者というのは一つ引っかかれば放っておけないものですからな。私も深くは聞きませんでした」
男性はそこまで答えると、ほかに思い出せることはないかとしばらく考えたあと、首を横に振った。
レイフォードは礼を告げ、次の人物へ移った。
先ほどまでは招待客の噂にすぎなかった「古い記録」という話を、フェリクス本人から聞いていた人がいる。
リディアは無意識に、髪飾りへ伸びかけた手を止めた。
自分もつい最近まで、記録局で古い資料を調べていた。文末の一画を辿るうち、幼い頃に見た祖母の書斎を思い出し、次に実家へ戻ったら残された書類を見ようとしている。
だからといって、フェリクスが調べていたものと自分の調査に関係があるとは限らない。
ただ、「古い記録」という言葉が、今夜までより少し身近なものに聞こえた。
しばらくして、騎士たちの聞き取りにオーウェンが応じている姿が目に入った。
彼も今夜の招待客の一人だったらしい。フェリクスとは以前から面識があったようで、レイフォードに尋ねられると、何度か仕事上で顔を合わせたことがあると説明していた。
リディアは声をかけようか迷ったが、今は聞き取りの途中だ。わざわざ割って入る理由もなく、そのまま少し離れたところで待つことにした。
オーウェンの話は長くは続かなかった。やがて彼はレイフォードへ何かを告げてから、ロウ伯爵のいるほうへ歩いていった。
その頃には、広間に残っていた客もずいぶん少なくなっていた。
セシリアが戻ってきたのは、使用人たちが大きな扉を一つずつ閉め始めた頃だった。
「待たせてごめんなさい。馬車の手配に少し時間がかかっているみたい。もう少しだけ待ってもらってもいい?」
「もちろんです。急いでいませんから」
「ありがとう。私は玄関の様子を見てくるけれど、リディアは無理についてこなくていいわよ。今夜ずっと付き合わせてしまったもの」
セシリアはそう言って、玄関ホールのほうへ足早に向かっていった。
リディアも人の少なくなった広間を見回した。
騎士たちはまだ何人かの客から話を聞いている。その中にレイフォードの姿を見つけたが、こちらへ声をかける様子はない。
今は邪魔をしないほうがよさそうだった。
リディアは外套を受け取るにはまだ早いと考え、人の集まる玄関とは反対側の扉へ向かった。庭に面した回廊なら、馬車を待つあいだ少し静かに過ごせるだろう。
扉を開けると、広間にこもっていた熱気とは違う、冷たい夜風が頬に触れた。




