第27話 崩れ落ちた老学者
夜会も終盤に差しかかり、広間には最初の頃よりゆるやかな空気が流れていた。
招待客の中にはすでに帰り支度を始める者もいて、楽団が奏でる曲も穏やかなものに変わっている。リディアもセシリアと窓辺で話しながら、そろそろ自分も帰ろうかと考えていた。
そのとき、広間の奥でグラスの割れる音がした。
続いて椅子が大きく倒れ、近くにいた女性の悲鳴が上がる。
「フェリクス先生!」
名前を聞いて、リディアはそちらを振り返った。
つい先ほどまで客と話していたフェリクスが、テーブルの脇に倒れていた。周囲にいた人たちは何が起きたのかわからないまま立ち尽くし、誰かが駆け寄ろうとしたかと思えば、別の者は驚いて後ずさっている。
隣にいたセシリアの顔から、さっと血の気が引いた。
「先生……?」
声をかけながら向かおうとした彼女を追って、リディアも広間の奥へ急いだ。
フェリクスのそばでは、すでに数人の客が膝をついていた。呼びかけても返事はなく、顔色もひどく悪い。倒れた拍子にぶつけたらしい椅子が傍らに転がり、割れたグラスの破片が床に散っていた。
「医師を呼んでください。それから、周りを空けて」
低い声が人垣の向こうから飛んだ。
いつの間にかレイフォードが来ていた。
騒ぎを聞きつけてすぐに動いたらしく、近くにいた使用人へ医師を呼ぶよう告げると、フェリクスの周囲へ集まり始めた客にも距離を取るよう促している。彼の声は普段と変わらず落ち着いており、それにつられるように、混乱していた人々も少しずつ道を空けた。
リディアとセシリアが近づくと、レイフォードがこちらへ目を向けた。
「セシリア嬢、医師が来るまでこのまま人を近づけないほうがいい。使用人にもそう伝えてくれ」
突然のことに青ざめていたセシリアだったが、呼ばれて我に返ったらしい。小さく頷くと、すぐに近くの使用人を呼び止めた。
「お願い。先生の周りを空けて、ほかのお客様は少し離れたところへ案内して。医師が来たらすぐこちらへ」
声にはまだ動揺が残っていたものの、ロウ家の娘としてやるべきことを思い出したようだった。
リディアも何か手伝えることはないかと周囲を見た。だが、医術の心得があるわけでもなく、今フェリクスに触れるのはかえって邪魔になる。
「リディア」
セシリアに呼ばれて振り向くと、彼女は離れた場所に集まり始めた客たちへ視線を向けていた。
「ごめんなさい。あちらの方たちに、医師を呼んでいるから少し待っていただくよう伝えるのを手伝ってもらえる? みんな不安になっているみたいで……」
「もちろんです。セシリア様は先生のほうをお願いします」
リディアはすぐに広間の反対側へ向かった。
事情を聞こうとする人たちには、医師を呼んでいることと、今はまだ何もわかっていないことだけを伝える。それ以上の説明を求められても、リディア自身にも答えようがなかった。
それでも、何人かに同じことを伝えているうちに、広間の混乱は少しずつ収まっていった。
やがて医師が到着すると、フェリクスの周囲からさらに人が下げられた。
リディアはセシリアのそばへ戻り、少し離れた場所から様子を見守った。医師はフェリクスの状態を確かめながら何度か呼びかけていたが、彼が目を開ける様子はない。
「さっきまで、普通にお話ししていたのに……」
セシリアが小さな声で言った。
第26話で挨拶をしたときのフェリクスは、確かに元気だった。宮廷史の話を冗談交じりにして、知人から声をかけられれば笑って応じていた。体調が悪そうな様子など、リディアにもまったく覚えがない。
「急に具合が悪くなることもあるでしょうし、今は先生に診てもらうしかありません」
そう答えながら、リディアは隣に立つセシリアの手が強く握られていることに気づいた。
自分の家で招いた客が突然倒れたのだ。落ち着いて見えるよう努めていても、平気なはずはない。
リディアは少し迷ってから、そっとその手に触れた。
「セシリア様。ほかのお客様のことは、使用人の方たちも対応してくださっています。今はここにいて大丈夫だと思います」
セシリアは驚いたようにリディアを見たあと、張りつめていた肩からわずかに力を抜いた。
「……ありがとう」
ほどなくして、フェリクスを別室へ運ぶ準備が整った。
担架が広間を横切るあいだ、先ほどまで談笑していた招待客たちは静かに道を空けた。楽団の演奏はいつの間にか止まり、聞こえるのは使用人たちの足音と、抑えた話し声ばかりになっている。
レイフォードは医師と言葉を交わしてから、近くにいた騎士へ何かを指示していた。リディアのところから内容までは聞こえなかったが、会場に残る者や運び出されたフェリクスのことを確認しているらしい。
やがて担架が広間を出ていく。
その姿が扉の向こうへ消えると、張りつめていた沈黙がわずかに緩み、あちこちから小さな声が漏れ始めた。
「何があったのかしら。先生、少し前までお元気だったでしょう?」
「何か召し上がったものが悪かったとか……」
「でも、同じ料理を食べた人はほかにもいるはずよ」
誰も答えを知っているわけではない。それでも、一度始まった囁き声は広間のあちこちへ移っていった。
リディアの隣で、セシリアがそれを聞きながら唇を結んでいた。




