第26話 ロウ家の夜会
セシリアから夜会への誘いを受けたのは、数日前のことだった。
記録局を訪ねてきた彼女は、いつものように何気ない調子で話をしていた途中、思い出したように一枚の招待状を取り出した。
「今度、うちで夜会を開くの。大きなものではないし、気心の知れた方が多いから、リディアも来ない?」
そう言われたとき、リディアはすぐには返事ができなかった。
夜会そのものが初めてというわけではない。以前にも王宮の夜会へ出たことはあるが、あのときは記録局から預かった報告書を届けるという仕事があった。用事を済ませれば帰れると思えば、慣れない場所でもまだ気持ちの置きどころがあった。
けれど今回は、何の役目もない。
「私が伺っても大丈夫なんですか?」
「もちろん。だから誘っているのよ」
セシリアはそう言って笑い、断る隙もないまま招待状をリディアの手に預けた。
◆
そして当日、ロウ伯爵邸の玄関で外套を預けたところで、リディアは早くも少し後悔していた。
広間にはすでに多くの招待客が集まっており、楽団の演奏に重なるように、あちこちから笑い声や談笑が聞こえてくる。壁には花や風景を描いた絵画が並び、柱や扉にも細かな彫刻が施されていた。華やかではあるが装飾ばかりが目立つことはなく、屋敷全体が一つの作品のように整えられている。
眺めているだけなら、きっと好きな空間だった。
問題は、自分もその中に立っていなければならないことだった。
知っている顔を探して広間へ視線を巡らせるものの、目に入るのは社交の場に慣れた人ばかりだ。誰もリディアを気にしているわけではないとわかっていても、手持ち無沙汰になると途端に自分の立ち方まで気になってくる。
入口のそばで立ち尽くすのもおかしいと思い、飲み物を受け取って移動しようとしたところで、聞き慣れた声がした。
「リディア、来てくれたのね」
振り返ると、セシリアが数人の客の間を抜けてこちらへ歩いてきた。
深みのある色のドレスには細かな刺繍が施されていたが、本人はそれを意識する様子もなく、リディアの前まで来ると嬉しそうに笑った。
「お招きいただいてありがとうございます。とても素敵なお屋敷ですね。入ってからずっと見てしまいました」
「本当? それならあとで好きなところを案内するわ。父が絵を集めるのが好きだから、客間以外にもいろいろ飾ってあるの」
セシリアはそこまで話してから、リディアが持ったままほとんど口をつけていないグラスに気づいたらしい。
「もしかして、かなり緊張している?」
「……そんなにわかりますか?」
「入口からほとんど動いていなかったもの」
隠せていたつもりだったので、リディアは少し肩を落とした。
「前に夜会へ来たときは仕事がありましたから、やることだけ考えていればよかったんです。でも今日は本当に招待されただけなので、何をしていればいいのかわからなくて」
セシリアは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。
「そんなことで悩んでいたの? だったら今日は、私についてきて。せっかく来てくれたのに、壁の模様だけ覚えて帰られたら困るもの」
「それはさすがにしません」
「どうかしら。リディアなら、本当に装飾を見て一晩過ごせそうよ」
冗談を言いながら、セシリアは自然にリディアを広間の奥へ連れていった。
最初に紹介されたのは、ロウ家と親しい夫人だった。
「こちら、リディア・ヴァンス。魔導省の記録局で働いているの」
「まあ、記録局の。最近はずいぶんお忙しいでしょう?」
「はい。確認する資料が増えているので、少しだけ」
それ以上詳しいことを話すわけにはいかず言葉を選んでいると、セシリアがすぐに別の話題へ移してくれた。王宮の庭で咲き始めた花のことから、新しくできた菓子店の話まで、リディアでも加われそうなところへ自然に会話を運んでいく。
次の相手にも、その次の相手にも同じだった。
セシリアは決してリディアを大げさに持ち上げず、かといって一人で置いていくこともない。「記録局で働いている友人なの」と紹介し、その場の相手と共通しそうな話題を一つ見つけると、あとはリディアが自分で話せるように少しだけ下がる。
何人かと話しているうちに、リディアも最初ほど周囲が気にならなくなっていた。
「セシリア様、こういうことがお上手なんですね」
二人きりになったところで言うと、セシリアは首を傾げた。
「こういうこと?」
「初対面の人同士を話しやすくするというか。私は、相手が何を話したいのか考えているうちに、話題を逃してしまうことが多いので」
「それなら、記録局で私を案内してくれたときのリディアと同じよ」
思いがけない返事に、リディアは彼女を見た。
「私はあのとき、何を見ればいいのかもわからなかったけれど、リディアは私が退屈しないように説明してくれたでしょう? 場所が変わっただけで、やっていることはそんなに違わないと思うわ」
そんなふうに考えたことはなかった。
記録局なら、どこに何があり、どんな説明をすれば相手に伝わるのかを知っている。セシリアにとっては、この広間がそれと同じなのかもしれない。
そう思うと、少しだけ納得できた。
「それなら私も、いつか夜会を案内できるようになりますかね」
「それはどうかしら。まずは入口で固まらないところからね」
「まだ言うんですか?」
笑いながら広間を進んでいると、セシリアが少し離れた場所にいる年配の男性へ目を向けた。
「あ、フェリクス先生もいらしていたのね」
白髪の男性が、数人の客と穏やかに話している。先ほどから何度か目に入っていたが、周囲の人が入れ替わっても話が途切れず、ずいぶん顔の広い人物らしい。
「お知り合いなんですか?」
「昔から家の夜会にはよく来てくださるの。以前は宮廷史を研究していた先生よ。今はもう表立ってお仕事はされていないけれど、父とは話が合うみたい」
ちょうどフェリクスがこちらに気づき、セシリアへ軽く手を上げた。
そのまま通り過ぎるのも不自然なので、二人で挨拶へ向かう。
「先生、こんばんは。今日は来てくださってありがとうございます」
「これはセシリア嬢。相変わらず忙しそうだな。客の相手ばかりしていて、自分が楽しむ暇がないんじゃないか?」
「ちゃんと楽しんでいます。それに今日は、友人を案内しているんです」
セシリアに促され、リディアも挨拶をした。
「リディア・ヴァンスと申します。魔導省の記録局に勤めています」
「記録局か。では、私よりよほど古い紙に囲まれている毎日だろう」
フェリクスが穏やかに笑ったので、リディアもつられて表情を緩めた。
「古いものばかりではありませんけど、最近は昔の資料を見る機会が増えました」
「それは大変だ。古い記録は、読めば読むほど別のものまで気になってくる。私はそれで随分時間を使ったよ」
冗談めかした言い方だったため、セシリアが「先生は今でも同じでしょう」と笑う。フェリクスも否定せず、そのまま近くにいた知人から声をかけられて会話へ戻っていった。
リディアも特に気に留めず、その場を離れた。
広間の反対側には、レイフォードの姿もあった。
国境から戻って間もないことを思えば出席しない可能性もあると思っていたが、今は数人の騎士や貴族に囲まれ、何かを話している。怪我の影響はもうほとんど感じられず、その姿を確認しただけでリディアは視線を戻した。
先日の帰還以来、二人で落ち着いて話す機会はまだなかった。
今夜も、わざわざ人の間を抜けて声をかけるほどの用事はない。
「リディア?」
セシリアに呼ばれ、リディアは隣へ顔を向けた。
「次はあちらを見せたかったの。庭に面した回廊があるんだけど、夜になると雰囲気が変わるのよ」
「行ってみたいです」
答えると、セシリアは満足そうに頷いた。
◆
夜が深くなるにつれ、広間の人の流れも少しずつ落ち着いてきた。
セシリアは主催者側として何度か席を外したものの、そのたびに戻ってきてはリディアへ声をかけた。最初は帰る時刻ばかり気にしていたリディアも、気づけば何人かとは自分から言葉を交わせるようになっていた。
窓際で一息ついたところへ、ようやく用事を終えたらしいセシリアがやってくる。
「ごめんなさい。途中、何度も一人にしてしまったわね」
「大丈夫でした。さっき紹介していただいた方と、しばらくお話ししていたので」
「それならよかった。実は少し心配していたのよ。無理に誘ってしまったかなって」
いつもの明るい調子より少しだけ声が柔らかかった。
リディアは首を振った。
「来てよかったです。最初は、本当にどうしていいかわかりませんでしたけど」
「最初は、ね」
「そこは忘れてください」
「無理よ。あんなに真剣な顔で壁の絵を見ている人、初めて見たもの」
また笑われ、リディアもつられて笑った。
窓の外には、庭に沿って灯された明かりが並んでいる。広間ではまだ音楽が続き、少し離れたところから招待客たちの話し声が聞こえていた。
「また誘ってもいい?」
セシリアが何気なく尋ねた。
「はい。次は、もう少し早く入口から動けると思います」
「そこまで言うなら期待しておくわ」
セシリアは笑いながら、通りかかった使用人の盆から新しい飲み物を二つ取り、一つをリディアへ渡した。




