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氷の騎士様が、なぜか私の残業にだけ付き合ってくれる件  作者: 森凛
第一部「接点」

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第3話 祖母の忘れ形見と、正体不明の贈り主

 昼休み、資料室の隅で書類を整理する手を止め、リディアは小さく息をついた。


 朝から古い契約書を洗い直す作業が続いている。似たような魔導文字を何度も追っているせいか、目の奥が重かった。


 疲れを感じると、リディアの左手は無意識に髪飾りへ伸びる。


 飾り気のない、少し古びた髪飾り。留め具の部分には、古くから祈りや守護に用いられてきた古代文字が、小さく刻まれている。


 指先でそこをなぞりながら、リディアは刻まれた言葉を小さく口にした。


「……心に余裕を持てば、何事も上手くいく」


 亡くなった祖母、アデルの口癖だった。


 物心ついた頃から、祖母はよくリディアの髪を整え、この髪飾りを結んでくれた。


『焦ってしまうと、大事なものを見落とすのよ』


 祖母はいつもそう言って、穏やかに笑っていた。


 アデルがどんな仕事をしていたのか、リディアは詳しく知らない。ただ、若い頃から長く王宮に勤めていたことだけは聞いていた。


 ヴァンス家が今のような静かな暮らしになったのは、祖母が亡くなる少し前のことだ。もう十五年以上も前になる。


(おばあ様なら、あの契約書を見て、何て言っただろう)


 ふと、改ざんされた契約書が脳裏をよぎる。


 リディアは軽く首を振った。


 今は余計なことを考えている場合ではない。


「ヴァンスさん、また髪飾り触ってる」


 隣の机から声が飛んできた。


 ミラだった。


「あ……癖なんです。これ」


「そうみたいね」


 ミラは髪飾りへ視線を向ける。


「でも、いいわね。それ。おばあ様の形見なんでしょう?」


「はい」


「大事にしてるの、伝わってくるわ」


「……ありがとうございます」


 リディアは少し照れたように笑った。


 そのとき、ふと机の端に目が留まった。


「あ……」


 今日も、一杯の紅茶が置かれている。


 まだ湯気が立っていた。


「今日もありました」


「ああ、例の紅茶ね」


 ミラが覗き込む。


「最近、よく置いてあるわよね」


「はい。私が来る頃には、いつもこうして置いてあって……」


 リディアはカップを手に取った。ふわりと広がる香りは、いつもと同じ。自分が好んで飲んでいる茶葉だ。


「誰が置いてくれているんでしょう」


「さあねえ」


 ミラは楽しそうに笑った。


「でも、毎回ちゃんとヴァンスさんの好きな茶葉なんでしょう?」


「はい」


「じゃあ、少なくともあなたのことをよく見てる人なんじゃない?」


「……そうでしょうか」


「そうじゃなかったら、わざわざ好みの茶葉を選ばないでしょ」


 リディアは返事に困って、紅茶へ視線を落とした。


 確かに、不思議だった。


 自分が資料室へ来る頃には、いつも机の上に置かれている。けれど、誰かが置くところを見たことは一度もない。


「記録局の誰かかしら」


「それなら、お礼くらい言いたいんですけど……」


「聞いてみたら?」


「でも、わざわざ聞くのも恥ずかしくて」


「ふふ。じゃあ、誰が置いてくれてるのかは、まだわからないままね」


 リディアは苦笑しながら、紅茶をひと口飲んだ。


 温かい紅茶が、疲れた身体にじんわり染みていく。


 それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。


◆


 昼休みが終わる頃、リディアは確認を終えた資料をまとめ、局長に提出するため資料室を出た。


 廊下を歩いていると、向こうから見慣れた姿が近づいてくる。


「……アシュグレイ隊長」


「……ああ」


 レイフォードだった。


 すれ違いざま、彼の視線がリディアの抱えている書類へ落ちる。


「今日の分か」


「はい。先ほど確認した分を、局長に提出するところです」


「そうか」


 短い会話だった。


 それだけで終わるはずだったのに、レイフォードはその場を動かなかった。


 何か言おうとしているように見える。


 リディアも足を止めた。


「……?」


 レイフォードの視線が、一瞬だけリディアの髪へ向いた。


 古びた髪飾り。


 その目がわずかに細められる。


 けれど、すぐにいつもの無表情へ戻った。


「……いや、何でもない」


「そうですか?」


「ああ。引き止めて悪かった」


「いえ、大丈夫です。それでは、行ってまいります」


 リディアが頭を下げ、歩き出す。


 数歩進んだところで、なぜか気になって振り返った。


 レイフォードはまだそこに立っていた。


 目が合う。


 すると彼は、ほんの一瞬だけ視線を逸らし、何事もなかったように反対方向へ歩き出した。


(……今、何か言おうとしていた?)


 リディアは首を傾げた。


 けれど、わざわざ追いかけて聞き直すほどのことでもない。


 そのまま局長室へ向かった。


◆


 その日の仕事を終え、帰り支度をしていたリディアは、机の上の空になったカップを見つめていた。


 今日も、誰が置いてくれたのかわからない。


 なぜ、自分にだけなのかも。


 考えても答えは出なかった。


 ただ、その温かさに救われている自分がいることだけは、確かだった。


 カップを洗いながら、リディアはふと昼間の出来事を思い出す。


 廊下で立ち止まっていたレイフォード。


 何かを言いかけていたような、あの表情。


(……まさか)


 一瞬、そんな考えが頭をよぎった。


 けれど、すぐに打ち消す。


(ううん。そんなわけない)


 レイフォードが、一文官のためにわざわざ紅茶を届けるなんて。


 そんなこと、あるはずがない。


「……考えすぎね」


 小さく呟いて、リディアはカップを机の上へ戻した。


 それから髪に手をやる。


 指先に触れた髪飾りは、いつものように冷たかった。


 祖母が残してくれた、大切な形見。


 リディアはそれをそっと撫でてから、荷物をまとめた。


 そして、記録局をあとにした。


 誰もいなくなった資料室には、空になったカップだけが残されていた。

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