第23話 一報
国境からの知らせが届いたのは、午後の仕事が始まって間もない頃だった。
記録局の入口で慌ただしい足音が止まり、旅装姿の騎士が室内を見回した。
「国境派遣部隊から緊急の報告です。オーウェン局長はいらっしゃいますか」
その声に、何人かの職員が顔を上げた。
国境から報告が届くこと自体は、もう珍しいことではない。レイフォードが向こうへ発ってから、記録局にも何度か照会や資料が届けられている。それでも「緊急」という言葉に、室内のざわめきがわずかに薄れた。
ちょうど執務室から出てきたオーウェンが騎士を呼び止め、差し出された書面を受け取った。
「現地で何かあったのか」
「密輸に関わる一団を追っていた部隊が、摘発の際に抵抗を受けたそうです。負傷者が複数出ています。詳しい状況については、後ほど改めて報告が届くとのことです」
リディアは手元の資料に目を落としたまま、そのやり取りを聞いていた。
国境で密輸組織を追っている以上、危険がまったくないとは思っていなかった。それでも、これまで届いていたのは押収品や調査状況についての報告ばかりだったため、「負傷者」という言葉だけが妙にはっきりと耳に残った。
オーウェンが書面に目を通しながら、確認するように問いかける。
「負傷者の中に、派遣部隊の指揮官も?」
「はい。アシュグレイ隊長も負傷したとの報告です。ただ、命に関わる状態ではないと聞いています」
その名前が出たところで、リディアの手が止まった。
持っていたペンの先が紙に触れたままになり、書きかけの文字の端にインクが滲んでいく。それに気づいて手を離したものの、今度は何を書こうとしていたのかわからなくなった。
命に関わる状態ではない。
そこまで聞いているのだから、まず安心すればいいはずだった。
けれど頭に浮かんだのは、十日ほど前に届いた報告書だった。あのときは部隊に負傷者はいないと、レイフォード自身の字で書かれていた。愛想のない文面を読んで、いつも通りなのだと思ったばかりだった。
「ヴァンスさん」
すぐ近くからミラに声をかけられ、リディアはようやく顔を上げた。
「インク、垂れてる」
「あ……」
言われて初めて、紙にできた染みに気づいた。慌てて吸い取り紙へ手を伸ばしたものの、指先がうまく動かず、今度は紙の端に引っかけそうになる。
ミラは何も聞かず、代わりに吸い取り紙を取って差し出した。
「これ使って。書類はこっちに避けておくから」
「ありがとうございます。少し、驚いただけです」
「うん」
それ以上追及されなかったことが、かえってありがたかった。
記録局の入口では、オーウェンが伝令から残りの状況を聞いている。負傷者は現地で手当てを受けていること、詳しい経緯はまだ王都にも届いていないこと。断片的な情報が聞こえてくるたび、リディアは意識してそちらを聞かないようにした。
今ここで考えても、わかることは増えない。
そう思って目の前の書類を整え直したが、先ほどまで追っていた数字が、急に意味のない記号のように見えた。
しばらくして伝令が去ると、室内には少しずついつもの音が戻ってきた。紙をめくる音、椅子を引く音、隣の机で交わされる小さな相談。誰もが仕事へ戻っていく中で、リディアも新しい紙を取り出した。
そのとき、オーウェンがこちらへ歩いてきた。
「ヴァンス」
リディアが顔を上げると、彼は先ほどの書面を手にしていた。
「今のところ、こちらに届いているのはこれだけだ。アシュグレイ隊長についても、命に別状はないという報告以上のことはわからない。詳しい知らせが来れば、記録局にも伝える」
「……はい。ありがとうございます」
それだけ答えるのが精一杯だった。
オーウェンは何か言いかけたようだったが、結局そのまま書面を持って執務室へ戻っていった。
リディアは椅子に座ったまま、一度だけ両手を握った。指先にはまだ、先ほどの冷たさが残っている。
命に別状はない。
何度思い返しても、胸の奥に張りついた緊張はすぐにはほどけなかった。
◆
その日の仕事を終える頃になっても、国境から新しい報告は届かなかった。
帰り支度をする職員たちの間で、ミラがさりげなくリディアの机を覗き込んだ。
「今日はもう帰ろう。続きは明日でいいでしょう?」
普段なら、あと少しだけと言っていたかもしれない。けれど今日は、残って仕事をしても集中できる気がしなかった。
「そうします」
一緒に記録局を出ると、外はすでに夕暮れに差しかかっていた。
王宮の門へ向かう途中、騎士団のほうから何人かの騎士が足早に通り過ぎていく。国境から追加の報告でも届いたのかと、リディアは無意識にその姿を目で追った。
けれど、誰も記録局へ向かってはこなかった。
隣を歩いていたミラも、それに気づいていたようだったが、何も言わなかった。
十日前なら、国境から届いた報告書を読めば、そこにレイフォードがいることを想像できた。
今日はただ、次の知らせが届くのを待つしかない。




