第18話 不在の記録局
レイフォードが王都を発ってから、三日が過ぎた。
記録局の仕事は、出立前とほとんど変わっていない。国庫関連の記録を含めた照合作業は続いており、朝になれば新しい書類が運び込まれ、確認を終えたものから元の保管場所へ戻されていく。むしろ調べる範囲が広がったぶん、以前より忙しくなったくらいだった。
その日もリディアは朝から机に向かい、前日に途中まで確認していた記録を開いた。インクと紙の匂いも、窓から差し込む朝の光もいつも通りで、隣ではミラが書類の束を数えている。
何も変わっていないはずなのに、ふとした瞬間に意識が仕事から外れることがあった。
廊下から硬い足音が近づいてくれば、顔を上げる。
けれど通り過ぎていくのは、書類を抱えた別の職員だったり、用事で訪れた官吏だったりする。そのたびに、なぜ自分が顔を上げたのかと考えてから、リディアは手元へ視線を戻した。
「ヴァンスさん、これお願いしてもいい?」
「はい」
ミラから渡された記録を受け取り、確認済みの束と入れ替える。いつもの作業を続けているうちに午前は過ぎ、机の上に積まれていた書類も少しずつ減っていった。
昼前になって、リディアは一冊の記録を閉じた。次を取ろうと手を伸ばしたところで、机の端に何も置かれていないことに目が留まる。
そこは普段から空いている場所だった。
それなのに、しばらく見つめてから、ようやく理由に気づいた。
最近、紅茶を見ていない。
最初は誰が置いているのかもわからず、不思議に思っていた。忙しい日に限って現れることが多く、いつの間にか、見つけても以前ほど驚かなくなっていた。
それが、レイフォードが王都を発ってから一度もない。
リディアはそこまで考えて、首を傾げた。
もちろん、彼が置いていたと決まったわけではない。そもそも誰からなのか、いまだにわかっていないのだ。
「どうしたの?」
向かいから声をかけられ、リディアは顔を上げた。
「何がですか?」
「今、何もないところをずっと見てたから」
「……少し考え事をしていただけです」
答えてから、リディアは新しい記録を開いた。ミラもそれ以上気にした様子はなく、自分の作業へ戻っていく。
紙面に並んだ文字を追いながらも、先ほどのことが少しだけ引っかかった。
赤いお茶が現れなくなった時期と、レイフォードが王都を離れた時期が同じ。
それだけなら、ただの偶然かもしれない。
リディアは魔紋の確認を再開した。
◆
午後になると、オーウェンから呼び出しがあった。
執務室へ入ると、机の上にはこれまで調べてきた改ざん記録の一覧が広げられていた。第15話でリディアが年代と種類ごとに整理し直したものに、新しく確認された資料が書き加えられている。
「昨日までの分をまとめた。見てみなさい」
促されて、リディアは机の前へ立った。
契約書、土地に関する記録、国庫関連の記録。それぞれ発見された場所も内容も違うが、改ざんされた可能性のある年代を並べてみると、いくつかが近い時期に集中している。
「やはり、偏っていますね」
「ああ。偶然と切り捨てるには少し気になる」
オーウェンは一覧の一箇所を指した。
「騎士団側にも同時期の記録が残っているそうだ。アシュグレイ隊長が発つ前に、照合できるよう手配していったらしい」
その名前に、リディアの視線が止まった。
「出立前に?」
「昨夜のうちにな。向こうも慌ただしかったはずだが、話だけは通してあったらしい。明日には一部がこちらへ届くだろう」
「そうですか」
昨夜――正確には、出立する前の夜。
資料室で二人が話したことを、レイフォードはそのままにしなかったらしい。
リディアは一覧へ視線を戻し、これから確認する必要のある年代を頭の中で整理した。
「届いたら、こちらの記録と照合してみます。もし同じ時期に不自然なものがあれば、改ざんされた範囲をもう少し絞れるかもしれません」
「頼む。ただし、量はかなりある。急いで全部を見る必要はない」
「わかっています」
すぐに答えると、オーウェンが眼鏡越しにこちらを見た。
「本当に?」
「……局長までそんなことを言うんですか?」
「まで?」
聞き返され、リディアは口を閉じた。
オーウェンの眉がわずかに上がる。
「いや。誰かにも同じことを言われたのなら、私から付け加える必要はなさそうだ」
何事もなかったように一覧をまとめ始めたオーウェンを見て、リディアは余計なことを言ったと気づいた。
「局長」
「何だ?」
「今のは忘れてください」
「努力しよう」
まったく忘れる気のなさそうな返事だった。
リディアはそれ以上何も言わず、渡された一覧を受け取って執務室を出た。
廊下を歩きながら、明日届くという騎士団の記録について考える。確認する資料が増えるのだから、しばらく忙しい日が続きそうだ。
その途中で、ふと別のことが頭をよぎった。
国境へ向かう直前まで、レイフォードはこの調査の続きを考えていたのだろうか。
資料室で交わした話を覚えていて、必要な手配を済ませ、それから出立した。そのことが意外だったわけではない。彼なら仕事として当然のようにやるだろう。
それでも、自分が伝えたことが彼の側にも残っていたのだと思うと、少し不思議な感じがした。
◆
翌日、騎士団から記録が届いた。
予想していたより量が多く、リディアとミラは午前中いっぱいを使って年代と内容を確認することになった。
「これ、本当に全部見るの?」
ミラが机の横に積まれた束を見上げる。
「全部を一度に確認する必要はありません。まず該当する年代だけ抜き出しましょう。局長からも急ぐなと言われていますし」
「珍しい。ヴァンスさんが自分からそんなことを言うなんて」
「私だって、いつも無茶をしているわけじゃありません」
「そういうことにしておくわ」
笑いながら返され、リディアは最初の一冊を開いた。
騎士団の記録は、記録局で普段扱う書類とは書式が違う。最初こそ読む場所を探すのに手間取ったが、何冊か確認するうちに構成がわかってきた。
年代を確かめ、該当しないものはミラへ渡す。該当するものだけを残し、あとで魔紋まで詳しく見る。
作業が軌道に乗り始めた頃、廊下から足音が聞こえた。
一定の間隔で近づいてくる、硬い靴音。
リディアは記録から顔を上げた。
開いた扉の前を、騎士が一人通り過ぎていく。見覚えはあるが、名前までは知らない人物だった。
その背中が見えなくなってから、リディアは再び記録へ目を落とした。
「……ヴァンスさん?」
「何ですか?」
「ううん。何でもない」
ミラはそう言って、手元の書類へ戻った。
リディアも続きを読み始めた。
けれど次に廊下から足音が聞こえたときも、文字を追っていた目が、ほんの一瞬だけ扉のほうへ動いた。




