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氷の騎士様が、なぜか私の残業にだけ付き合ってくれる件  作者: 森凛
第二部「すれ違いと社交界」

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第17話 旅立つ背中と、新しい呼び方

 翌朝の記録局は、いつもより落ち着かなかった。


 昨夜遅くに鳴った緊急招集の鐘について、正式な説明はまだない。それでも朝から人が廊下を行き交い、国境で何かあったらしい、騎士団が動くらしいと、断片的な話だけが先に広まっていた。


 リディアも昨夜のことが気になっていたが、確かな情報がないうちは考えても仕方がない。そう思って机に向かい、昨日から続けている財務記録の確認を始めたところへ、外から戻ってきたミラが足早に近づいてきた。


「ヴァンスさん、昨日の鐘のこと、聞いた?」


「まだ何も。何かわかったんですか?」


「国境付近で、魔導兵器が不正に運ばれている疑いが出たそうよ。詳しいことまではわからないけれど、現地を調べるために騎士団から部隊が出るって。しかも今日のお昼には出立するらしいわ」


 思っていた以上に大きな話だった。リディアは手を止め、昨夜、資料室へ駆け込んできた騎士の言葉を思い出した。


「では、アシュグレイ隊長も?」


「ええ。隊長の部隊が向かうそうよ。急に決まったみたいで、騎士団のほうは朝から出立の準備で大変だって」


「……そうなんですね」


 答えてから、リディアは手元へ視線を戻した。ペン先が紙に触れ、書くつもりのなかった小さな点を残している。


 昨夜まで、レイフォードはここにいた。国庫の記録について話し、そのあと、仕事とは関係のないことを少しだけ聞こうとした。結局、その続きを口にする前に鐘が鳴ったのだが、それからまだ半日も経っていないうちに、今度は国境へ向かうという。


 しばらく王宮を離れることになるのだろう。


 リディアはペンを持ち直し、財務記録の続きを読み始めた。今は仕事中で、確認しなければならない書類も残っている。そう自分に言い聞かせる必要もないはずなのに、その日は気づけば同じ行を何度か読み直していた。


 ◆


 昼を少し過ぎた頃、追加の資料を届けに来た職員が、騎士団はまもなく出立するらしいと話していた。


 リディアは受け取った資料を所定の場所へ収めると、壁の時計へ目を向けた。昼休みはまだ少し残っている。正門まで行って戻っても、午後の仕事には間に合うだろう。


 そこまで考えてから、自分が正門へ行こうとしていることに気づいた。


 任務の詳細を聞けるわけでもなければ、何か渡すものがあるわけでもない。昨夜も顔を合わせたばかりなのだから、わざわざ見送りに行く必要があるかと聞かれれば、うまく答えられそうになかった。


 それでもリディアは資料室を出た。


 正門へ近づくにつれて、人の動きが慌ただしくなっていく。荷を運ぶ者の間を従騎士が走り、広場では騎士たちが馬具や装備を確かめている。いつもなら人の出入りを管理するだけの場所が、今日は出立を待つ人馬で埋まっていた。


 その中にレイフォードを見つけるのは難しくなかった。


 馬のそばに立ち、数人の騎士へ指示を出している。普段と同じ騎士服の上には外套をまとい、腰の剣だけでなく、旅に必要な装備も整えられていた。その姿を見た途端、朝から聞いていた話が急に現実味を帯びた。


 本当に行くのだ。


 声をかけるべきか迷っているうちに、レイフォードのほうが先にこちらへ気づいた。部下との話を終えると、そのままリディアのところまで歩いてくる。


「ヴァンス文官。どうした」


「もうすぐ出立すると聞いたので……昼休みのうちに、少しだけ」


 言いながら、自分でも曖昧な説明だと思った。けれどレイフォードは理由を聞き返さず、いつものように頷いただけだった。


「昨夜の報告は、国境の件だったんですね」


「ああ。現地で確認する必要が出た」


「どれくらいで戻る予定なんですか?」


「まだわからない。調査だけで済むかどうかも、向こうへ行かなければ判断できないからな」


 リディアは広場へ目を向けた。すでに準備を終えた騎士たちが馬に乗り始めている。数日で戻るのか、それとももっと長くなるのか、それさえ今はわからないらしい。


「記録局では、昨日話していた年代の確認を続けます。局長にも報告したので、騎士団側の記録と照合できるものがあれば、そちらも調べてもらうことになりました」


「そうか。こちらでも、残る者には話を通してある。何かわかったらオーウェン局長を通して共有してくれ」


「わかりました。隊長のほうでも何か見つかったら――と言いたいところですけど、国境からでは難しいですよね」


「戻ったときにまだ必要なら話す」


「では、忘れないでくださいね」


「お前こそ、調べることが増えたからといって、また夜中まで残るな」


 思いがけないところへ話が戻り、リディアは少し眉を上げた。


「昨夜はちゃんと帰りました」


「鐘が鳴ったからだろう」


「それでも帰ったことには変わりません。それに、昨日はたまたま遅くなっただけです」


 レイフォードは何も言わずにリディアを見た。


「……何ですか、その顔は」


「別に」


「信用していませんね?」


「している」


 間を置かずに答えたくせに、その表情にはまるで説得力がない。リディアが不満そうに見返していると、レイフォードはわずかに視線を逸らした。


「だから、無茶をするなと言っている」


 今度は言い返す言葉がすぐには出なかった。


 そのとき、広場の向こうから出立準備が整ったことを告げる声が飛んできた。レイフォードがそちらを振り返り、リディアもつられて視線を向ける。


 どうやら、もう時間らしい。


「では、行ってくる」


 そう告げる声は、いつもと変わらなかった。明日も記録局へ顔を出すとでも言うような調子で、レイフォードは踵を返した。


 数歩離れていく背中を見た瞬間、リディアは反射的に口を開いた。


「アシュグレイ――」


 そこまで呼んで、なぜか言葉が続かなかった。


 アシュグレイ隊長。


 いつもそう呼んでいる。今まで一度も不自然に感じたことなどなかったのに、これから国境へ向かおうとしている彼の背中へ投げかけるには、妙によそよそしく感じられた。


「……隊長」


 レイフォードが足を止めた。


 振り返った彼と目が合ってから、リディアは自分がいつもと違う呼び方をしたことに気づいた。たった家名を省いただけなのに、口にしたあとで妙に落ち着かない。


 けれど、今さら言い直すのもおかしい。


「お気をつけて。どうか、ご無事で」


 レイフォードはすぐには答えなかった。


 ほんのわずかに目を見開き、それから、何かを確かめるようにリディアを見る。その視線の理由がわからずにいると、やがて彼は小さく頷いた。


「ああ。お前も気をつけろ」


「私は王宮にいるだけですよ」


「それでもだ」


 それ以上の説明はなかった。


 けれど今度は、リディアも聞き返さなかった。


 再びレイフォードを呼ぶ声がして、彼は部隊のもとへ戻っていった。ほどなく出立の号令が響き、正門が大きく開かれる。先頭から順に騎士たちが馬を進め、レイフォードも馬上から周囲を確認すると、その列に続いて門の向こうへ消えていった。


 リディアは広場の端に立ったまま、遠ざかる一団を見送った。


 最後の騎士が門を抜ける頃には、昼休みも残り少なくなっていた。記録局へ戻らなければならないと思いながら踵を返すと、つい先ほど自分が口にした言葉が、不意に耳の奥へ蘇った。


 ――隊長。


 いつもの呼び方から家名を一つ取っただけだ。それなのに、なぜあのときそう呼んだのかと考えると、うまく理由が見つからない。


 リディアは一度だけ正門を振り返った。


 すでにレイフォードの姿は見えず、開け放たれていた門も、ゆっくりと閉じ始めていた。


 午後の始業を知らせる鐘が鳴る前に、リディアは記録局へ戻った。


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