第16話 深夜の資料室と、途切れた鐘の音
国庫関連の記録から改ざんが見つかって以来、記録局では過去の財務記録の洗い直しが続いていた。
昼間だけでは確認が追いつかず、その夜もリディアは資料室に残っていた。
机の上には、今日中に確認しておきたい記録があと数冊。窓の外はすっかり暗くなり、昼間は絶えなかった人の出入りも、今はほとんどない。
リディアは魔紋を追っていた指を止め、目元を押さえた。
同じような文字を長時間見続けているせいか、少し目が霞む。
いったん視線を外そうと窓へ顔を向けると、王宮の向こうに点々と灯りが残っていた。国庫の記録が見つかった夜ほどではないが、財務を扱う部署にはまだ人がいるらしい。
記録局だけが忙しいわけではない。
そう思いながら次の頁を開いたところで、廊下から足音が近づいてきた。
「まだやっているのか」
聞き慣れた声に顔を上げると、開いた扉の向こうにレイフォードが立っていた。
「隊長」
この時間に彼が記録局の前を通ることにも、もう驚かなくなっていた。
レイフォードは室内へ入り、机に広げられた記録へ目を向けた。
「国庫の件か」
「はい。今日追加された分です。今のところ、新しく改ざんが見つかったものはありません。ただ、少し気になることがあって」
リディアは手元の記録を閉じ、別にまとめていた紙を取り出した。
「最初の契約書と、土地関係の記録、それから国庫の記録。書類の種類は違いますが、改ざんされた時期を並べると、ある程度まとまっているんです」
レイフォードが机のそばまで来た。
リディアは紙を彼のほうへ向け、書き出した年代を指で追った。
「もちろん、まだ確認できていない記録も多いので、これだけで何かを判断することはできません。ただ、完全にばらばらに手を加えられたわけではないのかもしれません」
「同じ時期に、複数の記録が書き換えられた可能性がある?」
「はい。少なくとも、そう考えて調べる価値はあると思います」
レイフォードはしばらく紙を見ていた。
「騎士団でも、同じ年代の記録を確認している」
「騎士団の記録も?」
「ああ。記録局で改ざんが見つかった以上、こちらに残っている書類と食い違いがないか調べるよう指示が出た。まだ結果は出ていないが」
「では、もし同じ時期に不自然な記録が見つかれば――」
「判断材料は増える」
リディアは頷いた。
記録局だけでは確かめられないことでも、別の部署に残された記録と照らし合わせれば見えてくるものがある。
「何かわかったら、教えていただけますか?」
「話せる範囲ならな」
「十分です」
リディアは紙を手元へ戻し、気になっていた箇所に一つ印を加えた。
「隊長に聞いておいてよかったです。明日、局長にも騎士団側の記録と照合できないか相談してみます」
「そうしろ。ただし、今夜これ以上調べる必要はない」
ペン先が止まった。
「……話がそこに戻るんですか?」
「最初からその話だ」
「今、かなり大事な情報交換をしていたと思うんですけど」
「それと、お前がこんな時間まで残っていることは別だ」
リディアは机の上に残った記録を見た。
「あと二冊なんです」
「さっき廊下から見たときも、同じことを言いそうな顔をしていた」
「顔でそこまでわかりますか?」
「最近はな」
何気なく返された言葉に、リディアは顔を上げた。
レイフォードは特に気にした様子もなく、机の上の資料を見ている。
「……最近は、わかるんですか?」
「何がだ」
「私が何を言いそうなのか」
尋ねると、レイフォードはようやくこちらを見た。
一瞬だけ、妙な間が空いた。
「仕事の話なら、ある程度は」
「そういうものですか」
「お前はわかりやすい」
「それ、褒めていませんよね?」
「褒めたつもりはない」
あっさり返され、リディアは小さく息を吐いた。
「隊長は相変わらずわかりにくいのに、不公平ですね」
「俺が?」
「はい。先日、セシリア様にも聞きました。昔は今よりもう少し表情がわかりやすかったそうですね」
レイフォードの眉がわずかに動いた。
「セシリアが来たのか」
「記録局へ。仕事に興味があるそうで、見せられる範囲だけご案内しました」
「……そうか」
「隊長とは子どもの頃からのお知り合いだと聞きました。昔は、嫌なのか楽しいのかくらいなら顔を見ればわかったって」
「余計なことを」
低く呟いて、レイフォードは窓のほうへ目を逸らした。
リディアは思わず笑った。
「今のは、少しわかりました」
「何がだ」
「嫌そうです」
「……仕事をしろ」
「もう帰れと言ったのは隊長ですよ」
返す言葉がなかったのか、レイフォードは黙った。
ほんの少しだけ眉間に皺が寄っている。
それを見ていると、先ほどまで目の奥に溜まっていた疲れが少し軽くなった気がした。
リディアは開いていた記録を閉じた。
「わかりました。今日はここまでにします」
「そうしろ」
「でも、隊長もまだ仕事なんですよね?」
「ああ。もう一度、西棟を回る」
リディアは確認済みの記録を重ねながら、ふと思った。
考えてみれば、レイフォードが記録局へ来るときは、いつも仕事中だ。
調査の確認か、資料の受け取り。あるいは、今のような巡回の途中。
これだけ顔を合わせるようになったのに、それ以外の彼についてはほとんど知らない。
「隊長は――」
「何だ」
「いえ、その……」
口に出してから、何を聞こうとしたのか自分でも少し迷った。
仕事がない日は何をしているのか。
そんなことを聞いてどうするのだろう。
けれど、レイフォードは急かさずに待っている。
「隊長は、お休みの日は――」
鐘が鳴った。
低く鋭い音が、静まり返っていた王宮を震わせた。
リディアは反射的に窓のほうを見た。
二度目。
今度は、先ほどよりはっきりと聞こえた。
向かいにいたレイフォードは、すでに扉へ顔を向けている。
三度目の鐘が響いた。
「隊長、この鐘は……?」
「緊急招集だ」
声が変わっていた。
先ほどまで机を挟んで話していたときの気配は消え、レイフォードは腰の剣を確かめながら立ち上がった。
四度目。
廊下の向こうで、扉の開く音がした。
続いて、複数の足音が走り始める。
五度目の鐘が鳴り、その余韻が消えないうちに、一人の騎士が資料室へ駆け込んできた。
「アシュグレイ隊長!」
「何があった」
「国境から緊急報告です。至急、参集するよう命令が出ています。詳細は移動しながらご報告します。」
レイフォードの表情が険しくなった。
「わかった。行く」
騎士とともに出ていこうとして、レイフォードは一度だけ足を止めた。
「ヴァンス文官」
「はい」
「今日はもう帰れ。寄り道せず、まっすぐに帰るんだ」
普段より強い口調だった。
リディアは何が起きたのか尋ねかけたが、今ここで聞いても答えられないだろう。
「……わかりました」
それを聞くと、レイフォードは騎士とともに廊下へ出た。
足音が遠ざかっていく。
リディアは開いたままの扉の向こうを見ていた。
やがて、鐘の余韻も消えた。
もう一度鳴るのだろうと思って待ったが、次の音は聞こえてこない。
代わりに、王宮のあちこちから人の動く気配が伝わってきた。
廊下を駆ける足音。遠くで交わされる短い声。消えていたはずの窓に、一つ、また一つと灯りが戻っていく。
国境からの緊急報告。
リディアは机へ戻り、帰るために広げていた資料をまとめた。
その途中、閉じた記録の横に置かれた一枚の紙が目に入る。
契約書、土地関係、国庫。
先ほどレイフォードと見ていた、改ざんの年代を書き出した紙だった。
リディアはそれをほかの資料と一緒に揃え、机の引き出しへしまった。




