最終章 姉の代わりではなく、あなたの妻になります
私は、姉の離婚届を受理した。
結婚して三日目の朝だった。
「本当にいいんですね」
王立身分登録院の窓口で、マリアが三度目の確認をした。
「いい」
「でも」
「マリア」
「だって三日前に結婚したばかりじゃない」
「知ってる」
「私、その婚姻届も受理したのよ」
「それも知ってる」
「じゃあ、どうして」
説明すると長い。
死んだ姉が十年前に残した離婚届が、私の結婚と同時に発効した。
姉は事故では死んでいなかった。
別の女性が姉の代わりに亡くなり、姉自身はその十一日後に死亡した。
その短い時間の中で、自分を法律上の死者にし、未来の私に選択肢を残した。
そんな話を朝の窓口でする気にはならなかった。
「一度、終わらせたいの」
それだけ言った。
マリアは私の顔を見た。
「嫌いになったの?」
私は少し考えた。
「逆かもしれない」
「はい?」
「だから終わらせる」
「全然分からない」
「私も三日前なら分からなかった」
私は申請書を見る。
エレノア・フィーネス。
アルベルト・レイン。
形式上は、存在しなかった婚姻を解消する奇妙な書類。
でも、その本当の効力は別にあった。
姉の婚姻権が未処理だったことを理由に、私とアルベルトの婚姻成立を一度停止させる。
つまり。
この書類を受理すれば、
私たちの結婚は、
なかったことにできる。
「処理して」
マリアがまだ迷っている。
「リディア」
「お願い」
「……後悔しない?」
私は姉の言葉を思い出した。
《そのあとで選んでください。》
嫌なら逃げて。
好きなら、もう一度結婚して。
「後悔するかどうかも」
私は言った。
「自分で決めたい」
マリアはそれ以上何も言わなかった。
印章を持ち上げる。
紙の上に下ろす。
乾いた音がした。
《受理》
たった二文字。
それだけで。
三日前に始まった私の結婚は終わった。
◇
登録院を出ると、アルベルトがいた。
待っていなくていいと言ったのに。
正面階段の下。
いつもの黒い外套。
いつもの無愛想な顔。
「終わったか」
「はい」
「そうか」
それだけ。
「もっと何かないんですか」
「何を言えばいい」
「例えば悲しいとか」
「悲しい」
「見えません」
「顔に出にくい」
「知っています」
三日だけ夫婦だったからではない。
もっと前から。
少しずつ。
分かるようになってきた。
アルベルトは感情がないのではない。
表に出すのが下手なのだ。
「今日から」
私は言った。
「私たちは他人です」
「そうだな」
「元夫婦」
「三日間の」
「短かったですね」
「俺はもう少し長い予定だった」
笑ってしまった。
「私もです」
笑ったあと。
少しだけ寂しくなった。
でも、不思議と苦しくはなかった。
「屋敷の荷物は今日中に実家へ戻します」
「その必要はない」
「もう妻ではありません」
「客室が余っている」
「泊まりません」
「そうか」
「引き止めないんですね」
「引き止めてほしいのか」
「そういうところです」
「何が」
「もういいです」
歩き出す。
背後から足音。
アルベルトがついてくる。
「どこへ行くんです」
「送る」
「一人で帰れます」
「知っている」
「なら」
「俺が送りたい」
私は黙った。
こういう言い方を。
この人は以前ならしなかった。
「アルベルト様」
「何だ」
「一つ約束してください」
「何を」
「今日だけは、何も言わないでください」
「何も?」
「求婚とか」
彼の足が止まった。
私は振り返らない。
「まだ駄目です」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「今夜も駄目です」
「ああ」
「明日の朝も」
「いつまでだ」
思わず振り返った。
「少しくらい我慢してください」
「十年待った」
「それ、本当に私を待っていたみたいに言うのやめてください」
「半分はそうだ」
心臓に悪い。
「そういうことを言うのも禁止です」
「条件が増えたな」
「あなたのせいです」
アルベルトは少し笑った。
私も。
今度は我慢しなかった。
◇
それから一週間。
私は姉の記録を直した。
エレノア・フィーネス。
死亡年月日。
それまで記録されていた三月十四日を削除。
三月二十四日。
聖アルナ修道院での死亡確認記録と照合。
死因。
《事故による腹部損傷の悪化》
死亡場所。
《聖アルナ修道院》
備考。
《旧死亡登録を訂正》
一文字ずつ確認した。
「これでいいんですか」
セシルが隣で聞いた。
「はい」
「個人消除記録については?」
「解除します」
「本名を戻す?」
「戻します」
姉は自分から名前を消した。
でも。
それは生きて逃げるためだった。
もう逃げなくていい。
「エレノア・フィーネスとして死んだことにする」
「そうです」
セシルは私の申請書へ署名した。
「墓も直すんですか」
「ええ」
今まで姉の墓だと思っていた場所には、ミーナが眠っている。
だから墓石も変える。
ミーナ・ロゼット。
姉を守るために命を失った女性。
名前すら残らなかった人。
彼女の名を、そこに刻む。
そして姉には。
新しい墓を作る。
遺骨はない。
それでもいいと思った。
「名前だけでも帰してあげたいので」
セシルが頷いた。
「テオ・アーレントは?」
「まだ見つからないんですよね」
「はい」
姉の恋人。
事故後、姉とともに修道院へ行き。
姉が死んだあと消息を絶った。
「生きていたら、四十歳前後です」
「いつか見つかるでしょうか」
「さあ」
セシルは肩をすくめた。
「でも、死んだという記録もありません」
以前なら。
私はそれを不安に思ったかもしれない。
今は違う。
記録がないということは。
まだ、どこかで生きている可能性がある。
それでいい。
「それから」
セシルが一枚の書類を出した。
「北部七領の件です」
「どうなりました?」
「レイン公爵から王家への管理権返還申請が受理されました」
やっぱり。
アルベルトは本当に返した。
「止めなかったんですか」
「私が?」
「登録院として」
「正当な申請です」
「七領ですよ」
「七領ですね」
「莫大な収益です」
「そうですね」
「もったいない」
「公爵本人に言ってください」
私は書類を見る。
アルベルト・レイン。
署名。
管理権返還理由。
《旧婚姻協定の解消に伴う返還》
簡潔。
いかにも彼らしい。
これで。
姉から私へ続いていた婚姻協定は、完全に終わる。
誰かがレイン家へ嫁がなければならない理由もない。
私がアルベルトと結婚する理由も。
なくなった。
胸が少しだけ軽くなった。
同時に。
少しだけ怖くなった。
「リディア」
「はい」
「最近、毎日これを見ていますね」
セシルが私の机を指す。
そこには婚姻届の新しい用紙が一枚置いてある。
「仕事です」
「未記入なのに?」
「用紙確認です」
「一週間も?」
「紙質が気になるんです」
「登録院の職員でも、もう少しましな嘘をつきますよ」
「うるさいです」
セシルが笑った。
「そろそろ決めたらどうです」
「何を」
「二回目」
「まだ求婚されてません」
「禁止してるんでしょう」
そうだった。
「解除すれば?」
「……考えます」
「いつまで?」
「私の人生なので」
セシルが両手を上げた。
「それを言われると何も言えません」
「姉から教わりました」
◇
姉の新しい墓ができたのは、その三日後だった。
春にはまだ早い。
丘を吹く風は冷たかった。
白い墓石。
そこには、
《エレノア・フィーネス》
とある。
十七歳。
本当の死亡日。
それだけ。
婚約者だったことも。
誰かの娘だったことも。
私の姉だったことも。
書かなかった。
その名前だけで十分だと思った。
「やっと帰ってきたね」
墓石に向かって言った。
返事はない。
隣の墓には。
《ミーナ・ロゼット》
初めて彼女の名前が刻まれている。
母は泣いた。
父はずっと黙っていた。
姉の婚約解消を認めなかったこと。
事故後の不自然さに気づきながら、それ以上調べなかったこと。
父には父なりの事情があった。
家。
領地。
地位。
それを守るため。
私はまだ、完全には許せていない。
たぶん。
簡単に許さなくてもいい。
父が帰り際に言った。
「すまなかった」
私は、
「はい」
とだけ答えた。
許しますとも。
許しませんとも言わなかった。
それも私が決める。
母と父が帰ったあと。
私は墓前に一人残った。
「お姉ちゃん」
十年ぶりにそう呼ぶ。
「私、離婚したよ」
風が吹く。
「あなたのせいだからね」
少し笑った。
「でも」
鞄から一枚の紙を出す。
新しい婚姻届。
「たぶん、また結婚する」
墓石は何も言わない。
「笑ってるでしょう」
姉なら絶対に笑う。
『でしょうね』
くらい言いそうだ。
「腹立つ」
私は墓石に触れた。
冷たい。
「私ね」
姉にだけ言う。
「アルベルト様が好きみたい」
言葉にした。
初めて。
思っていたより恥ずかしくなかった。
「ずっとではないと思う」
少なくとも私は。
「いつからか分からない」
彼が姉を愛していないと聞いたとき。
少し安心した。
彼が私を昔から見ていたと知ったとき。
嬉しかった。
離婚したとき。
悲しかった。
全部。
もう答えだったのだと思う。
「でも、今は好き」
墓石へ言う。
「これでいい?」
もちろん。
姉の許可はいらない。
「違うね」
私は自分で答えた。
「あなたに聞くことじゃなかった」
立ち上がる。
「私が決める」
墓地を出た。
坂の下に。
アルベルトがいた。
「……何してるんですか」
「待っていた」
「いつから」
「一時間ほど」
「寒いでしょう」
「ああ」
「馬鹿なんですか」
「そうかもしれない」
私は坂を下りる。
「どうして上まで来なかったんです」
「姉妹で話していたんだろう」
この人は。
時々。
こういうことを言う。
「聞こえてました?」
「何が」
「ならいいです」
横を通り過ぎる。
アルベルトがついてくる。
「リディア」
「はい」
「そろそろ、禁止を解除してもらえないか」
「何の?」
「求婚」
私は立ち止まった。
心臓が一気に速くなる。
「まだ覚えてたんですか」
「毎日覚えていた」
「忘れてもよかったのに」
「無理だ」
「どうして」
「好きだからだ」
この人。
最近、簡単に言うようになった。
「慣れましたね」
「何が」
「好きって言うの」
「練習した」
「誰と?」
「鏡」
吹き出した。
「嘘でしょう」
「半分は」
「残り半分は?」
「セシル」
「……何してるんですか、二人で」
「笑われた」
「当然です」
アルベルトも少し笑う。
そして。
今度は真面目な顔になった。
「リディア・フィーネス」
私の名前。
結婚しても。
離婚しても。
姉が死んでも。
ずっと私の名前。
「俺と結婚してほしい」
まっすぐだった。
「レイン家のためではない」
「はい」
「領地のためでもない」
「はい」
「エレノアとの約束でもない」
「はい」
「君が、君だからだ」
胸が熱くなる。
「今度は」
アルベルトが言った。
「俺を選んでくれないか」
私は少し黙った。
姉なら。
すぐ返事をするかもしれない。
でも私は。
姉ではない。
だから。
少しくらい困らせてもいい。
「条件があります」
「何だ」
「三つ」
「多いな」
「嫌なら断ってください」
「聞く」
「一つ目」
指を立てる。
「隠し事をしない」
「努力する」
「努力じゃなくて約束」
「分かった」
「二つ目」
「何だ」
「姉と比べない」
「最初から比べていない」
「なら大丈夫」
「三つ目は」
私は少し迷った。
「私が仕事を続けても文句を言わない」
「登録院を?」
「はい」
「当然だ」
「公爵夫人なのに?」
「君がやりたいなら」
全部。
即答だった。
「では」
アルベルトが一歩近づく。
「返事は」
私はわざと考えるふりをした。
「そうですね」
「リディア」
「急かさないで」
「十年待った」
「だからそれを言うと――」
「本当に待っていた」
声が変わった。
私は彼を見る。
「君が大人になるのを、という意味ではない」
「当たり前です」
「ただ」
彼は少し言葉を探した。
「いつか君が、自分で何かを選べるところまで来たら」
続ける。
「その選択肢の一つに、俺がいればいいと思っていた」
泣きそうになる。
嫌だ。
この人は。
こういうところだけ上手い。
「ずるいです」
「何が」
「今の」
「本当のことだ」
「もっとずるい」
私は鞄から紙を出した。
新しい婚姻届。
アルベルトの目が止まる。
「……持っていたのか」
「登録院職員なので」
「そういう問題か」
「念のためです」
「何の念だ」
「分かりません」
本当は。
分かっている。
姉の墓へ行く前から。
ほとんど答えは決まっていた。
でも。
最後に自分で確認したかった。
これは姉が望んだからではない。
父が望むからでもない。
公爵家の利益にもならない。
むしろ七領まで失った。
それでも。
私は。
この人と生きたい。
「アルベルト様」
「何だ」
「もう一度だけ言ってください」
「何を」
「求婚」
彼は私を見る。
そして。
今度は少し笑った。
「リディア・フィーネス」
「はい」
「俺の妻になってほしい」
私は答えた。
「はい」
それだけでよかった。
「姉の代わりではなく」
私は続ける。
「リディア・フィーネスとして」
「ああ」
「あなたの妻になります」
◇
二度目の結婚式はしなかった。
必要ないと思った。
私たちは王立身分登録院へ行った。
いつもの窓口。
いつもの机。
マリアが私たちを見る。
「……何しに来たの?」
「婚姻届を」
「誰の?」
「私たちの」
マリアは目を閉じた。
「私、何か悪いことした?」
「してないと思う」
「三日前に離婚処理したわよね」
「十日前です」
「大差ない!」
セシルが奥から顔を出した。
「おめでとうございます」
「あなた、知ってたでしょう!」
マリアが怒鳴る。
「職務上の秘密です」
「まだ提出してない!」
「では予測です」
私は笑った。
アルベルトが署名する。
私も。
今度は。
誰かが用意した婚姻ではない。
両家の契約書もない。
北部七領も関係ない。
姉の未来発効文書もない。
ただ二人の名前だけ。
《アルベルト・レイン》
《リディア・フィーネス》
並んでいる。
「本当に受理するのね?」
マリアが最後に聞いた。
「ええ」
「離婚届は?」
「ありません」
「絶対?」
「たぶん」
「たぶん?」
横を見る。
「ありませんよね」
「今のところは」
「アルベルト様!」
マリアが頭を抱える。
私は笑いながら言った。
「受理してください」
印章が押される。
乾いた音。
十日前と同じ。
でも。
今度は全然違って聞こえた。
《受理》
私たちは。
もう一度、夫婦になった。
◇
その日の夕方。
仕事を終える前に。
私は姉の記録を最後に確認した。
エレノア・フィーネス。
出生。
婚約。
事故。
個人消除。
死亡。
訂正。
全部。
もう空白はない。
画面を閉じようとして。
備考欄に、小さな追記があることに気づいた。
「何これ」
私が書いたものではない。
古い記録。
個人消除申請時に、本人だけが残せる非公開注記。
姉の字だった。
十年前から。
ずっとそこにあった。
私は読む。
《もしリディアがここまで調べたなら。》
「……本当に何でも残してるんだから」
続き。
《怒っているでしょう。》
「怒ってる」
《ごめんなさい。》
「遅い」
《でも、これだけは覚えておいて。》
私は息を止めた。
最後の一行。
《あなたは、誰の代わりにもならなくていい。》
しばらく。
動けなかった。
泣かなかった。
今日は。
笑った。
「知ってる」
画面の中の姉に答える。
「もう知ってるよ」
記録を閉じる。
席を立つ。
登録院の出口には。
アルベルトが待っていた。
「帰るか」
「はい」
私は隣へ並ぶ。
今度は。
姉のあとを歩くのではない。
誰かに決められた道でもない。
私が選んだ人の隣を。
私の名前で歩く。
外へ出る。
夕暮れの王都に、鐘が鳴っていた。
私はアルベルトの手を取った。
「どうした」
「別に」
「そうか」
「はい」
少し歩いてから。
私は言った。
「アルベルト様」
「何だ」
「私も好きです」
彼が立ち止まった。
「今さら?」
「言ってなかったので」
「もう一度」
「嫌です」
「リディア」
「一回で十分です」
「俺は何度も言った」
「それはあなたの勝手です」
歩き出す。
すぐに追いついてくる。
私は笑った。
姉が死んで十年。
ずっと私は、
姉がいなくなった場所を歩いていると思っていた。
でも違った。
姉が残したのは、
自分の代わりになる場所ではない。
そこから先へ進むための道だった。
だから私はもう、
姉の続きを生きない。
これは、
私の人生だ。




