第7章 姉が最後に消したのは、自分の名前だった
姉が最後に消したのは、自分の名前だった。
王立身分登録院に残された《個人消除申請》には、そういう意味がある。
犯罪者の名前を消す制度ではない。
罪を逃れるための制度でもない。
国家が、
その人物を「存在しないことにしなければ守れない」と判断した場合にだけ使われる。
「証人保護」
セシルが言った。
翌朝。
私たちは第三特殊書庫よりさらに下にある、封印記録室へ来ていた。
「正確には、王国重要証人身分保護制度です」
「姉さんは何の証人だったんです」
「それを調べます」
個人消除申請の表紙には、
《国家保全令第十二条適用》
とある。
私は登録院で五年働いているが、この条文を実際に見たのは初めてだった。
「開けられますか」
「通常なら無理です」
セシルは横に立つアルベルトを見る。
「でも、ここに公爵様がいらっしゃいます」
「俺の権限で?」
「正確には、あなたが申請関連当事者だからです」
「便利ですね、公爵って」
私が言うと、アルベルトがこちらを見た。
「嫌味か」
「半分くらい」
「残り半分は」
「羨ましいだけです」
以前、セシルが言った言葉を返した。
セシルが小さく笑う。
「夫婦らしくなりましたね」
「どこがです」
「そこです」
無視した。
笑える状態ではなかった。
目の前にある箱には、十年間知らなかった姉の人生が入っている。
セシルが封印を解除した。
青白い光が消える。
箱を開ける。
中には、四つの封筒があった。
一つ目。
《個人消除申請理由》
二つ目。
《事故関係証言》
三つ目。
《保護対象者同行記録》
そして最後。
《リディア・フィーネスへの開示文書》
私の名前だった。
「私に?」
手を伸ばしかける。
「待ってください」
セシルが止めた。
「開示条件を確認します」
封筒の裏を見る。
《エレノア・フィーネスの条件付き婚姻関係解消申請が発効した場合に限り、リディア・フィーネス本人への開示を許可する》
私は息を吐いた。
「全部つながっている」
姉の離婚届。
それが発効しなければ。
この箱も開かなかった。
「つまり」
私は言った。
「私がアルベルト様と結婚するまで、姉さんはこれを私に読ませるつもりがなかった」
「そういうことになります」
セシルが答える。
「なぜそこまで」
アルベルトの問いに、私は答えられなかった。
「先に事故記録から見ましょう」
セシルが二つ目の封筒を開いた。
そこには。
事故当日の詳しい証言書が入っていた。
証言者。
《エレノア・フィーネス》
自分自身の事故について、
姉本人が証言している。
私は読み始めた。
◇
《三月十三日午後七時頃、王都を出発》
《同乗者は御者ローレン、護衛ディーク、侍女ミーナ》
ここまでは知っている。
次。
《北西街道二十三区画において、後方より二騎の騎馬が接近》
事故ではなかった。
《護衛ディークが追跡を確認》
《御者に速度を上げるよう指示》
《その後、前方道路上に木材が横断して置かれているのを確認》
「仕組まれていた」
私は呟いた。
「馬車は避けて崖へ?」
「そうでしょうね」
セシルが答える。
読み進める。
《転落直前、侍女ミーナが申請者に外套を交換するよう提案》
私は手を止めた。
「ミーナが?」
《ミーナは以前より、申請者が何者かに尾行されていることを認識していた》
《追跡者がフィーネス家の令嬢を狙っていると判断し、自ら申請者の外套および指輪を着用》
「待って」
胸が苦しくなる。
「ではミーナは」
姉と服を交換した。
そして。
馬車は崖へ落ちた。
《転落時、ミーナ・ロゼット死亡》
やはり。
死んだ若い女性は姉ではない。
ミーナだった。
《御者ローレン死亡》
《護衛ディーク重傷》
《申請者は左肩骨折、腹部裂傷》
姉も重傷だった。
《ディークの助力により事故現場を離脱》
「護衛は姉さんを逃がした」
「ああ」
アルベルトが低く言う。
《追跡者が現場へ到着したため、申請者は死亡者ミーナを自らの遺体と誤認させることを決定》
私は紙から目を離した。
「決定って」
「その場で考えたのでしょう」
「ミーナが死んでいるのに」
「だからこそかもしれない」
アルベルトの声には苦さがあった。
続きを読む。
《ディークには事故生存者として治療院へ向かわせた》
《申請者は別経路で王都へ帰還》
《翌十四日、協力者と接触》
協力者。
名前を見る。
胸が跳ねた。
《テオ・アーレント》
「誰?」
セシルが別の書類を出す。
「十年前の特殊文書担当官です」
私は顔を上げた。
「行方不明になった?」
「はい」
姉の未来発効文書を受理した職員。
事故翌日に姿を消した人物。
名前のない恋人。
写真の顔を切り取られた人物。
全部。
同じ人だった。
「テオが」
私は姉の日記を思い出す。
《私には、選びたい人がいる》
《この人を選ぶ》
「姉さんの好きだった人」
「おそらく」
セシルがもう一通、古い職員記録を置いた。
テオ・アーレント。
二十一歳。
王立身分登録院特殊文書課補佐官。
父親は靴職人。
母親は仕立屋。
貴族ではない。
「だから反対されると思っていた」
私は呟く。
身分違い。
伯爵令嬢と平民。
しかも姉には公爵家との婚約がある。
「結婚したかったのね」
ようやく。
姉の恋に名前がついた。
テオ。
私は不思議な気持ちだった。
嫉妬でもない。
悲しみでもない。
ただ。
姉が少しだけ、人間になった気がした。
完璧な姉ではなく。
恋をして。
逃げようとして。
怖がって。
それでも誰かを選んだ十七歳の女の子。
「続きを」
アルベルトが言った。
私は頷いた。
《テオ・アーレントの助力により、申請者は両家婚姻協定に追加された非公開条項の存在を確認》
「非公開条項?」
私は知らない。
セシルも眉をひそめた。
別紙が添付されていた。
古い婚姻協定。
私たちが見つけたものとほぼ同じ。
ただし。
最後に一項だけ多い。
《レイン家嫡流男子とフィーネス家適格女子の婚姻は、王国北部七領に対する共同継承権の維持条件とする》
「領地?」
アルベルトの顔が険しくなる。
「北部七領は、現在レイン家が管理している」
「所有では?」
「違う。王家から管理を委任されている」
「婚姻が条件だった?」
「聞いたことがない」
さらに続きがある。
《婚姻不成立の場合、管理権は王家へ返還》
《ただし適格女子が存在する限り、次順位者への婚姻指定を優先する》
私は理解した。
姉でなければ私。
私でなければ。
また次の誰か。
「これが」
私は言った。
「お父様たちが婚姻を維持したかった理由?」
「少なくとも先代レイン公爵にとっては」
セシルが言う。
「七領の管理権は莫大な収入になります」
アルベルトの父。
先代公爵。
すでに五年前に亡くなっている。
「姉さんが婚約を解消すれば」
「レイン家は七領を失う可能性があった」
「だから許さなかった」
私は証言書へ戻る。
《申請者は婚約解消の意思を父フィーネス伯爵、およびレイン前公爵へ伝達》
父は知っていた。
姉の恋も。
婚約解消の意思も。
次。
《その翌日より尾行を確認》
胸が冷える。
《三月十二日、テオ・アーレントの住居が捜索された形跡を確認》
《三月十三日、事故発生》
私は紙を握る。
「誰が事故を起こしたんです」
次の行を読む。
《追跡者の身元は未確認》
「分からなかった?」
「当時は」
セシルが別紙を見る。
「ただし、姉上は疑っていたようです」
追記。
《レイン前公爵家の私兵が使用する馬蹄印と一致する可能性あり》
アルベルトの顔が凍った。
「父か」
誰も答えない。
確定ではない。
でも。
可能性は高い。
先代レイン公爵は。
姉が婚約を破棄するのを止めようとした。
そのために。
馬車を襲わせた。
「あなたは」
私はアルベルトを見る。
「知らなかった?」
「知らない」
声が低い。
「本当に何も」
「ああ」
初めて。
アルベルトが明確に怒っているのが分かった。
拳が握られている。
「もし父がやったなら」
彼は言う。
「俺は知らなければならない」
自分の父が。
婚約者を殺そうとしたかもしれない。
その重さを私は想像できなかった。
「でも」
セシルが言った。
「エレノア様は告発していません」
「なぜ」
「それが一つ目の封筒です」
申請理由。
私は開いた。
姉の字だった。
《事故について正式告発を行えば、次順位適格者であるリディア・フィーネスが新たな婚姻対象として注目される可能性がある》
心臓が縮む。
《私が生存していると判明すれば、婚約解消問題は継続する》
《私が死亡したと確定すれば、リディアが次順位者になる》
《したがって、そのどちらでもない状態を作る必要がある》
「どちらでもない?」
私は読み進める。
《法的には死亡》
《しかし婚姻協定上の継承手続きには異議申立てを残す》
《そのため、自身を死亡者として登録し、同時に将来発効文書を提出する》
姉は。
自分自身を、
法律の隙間へ押し込んだ。
死者。
でも完全には終わっていない。
「離婚届は」
私は理解した。
「異議申立てだったんだ」
姉の離婚届。
存在しなかった婚姻を解消する、奇妙な書類。
それ自体が。
姉の婚姻権が未処理であることを示す。
「私とアルベルト様が結婚した瞬間」
私は言った。
「姉さんの離婚届が出る」
「そうなりますね」
セシルが頷く。
「つまり、姉さんの婚姻関係がまだ法的に整理されていないと主張する」
「結果として」
アルベルトが続ける。
「君との結婚に異議を差し込める」
「そして一度止める」
「ああ」
「私に選ばせるために」
ようやく。
すべてが見えた。
姉は私とアルベルトを別れさせたかったわけではない。
レイン家を恨んでいたからでもない。
自分の代わりとして。
家と家の契約として。
領地のための妻として。
私がそのまま結婚させられることを防ぎたかった。
そのために。
十年前から。
私の結婚式の翌朝へ向けて、
離婚届を送った。
「お姉ちゃん」
気づいたら。
昔の呼び方が出ていた。
十二歳まで私は姉をそう呼んでいた。
「馬鹿」
涙が落ちた。
「こんな面倒なことしなくても」
返事はない。
「生きて帰ってくればよかったでしょう」
誰も何も言わなかった。
そこで。
私は気づく。
事故から三日後に姉は登録院へ来た。
身分を消した。
そのあと。
「姉さんはどこへ行ったんです」
セシルが三つ目の封筒を見る。
《保護対象者同行記録》
開封する。
「同行者はテオ・アーレント」
やはり。
「行き先は?」
「王都南部、聖アルナ修道院」
「修道院?」
「治療目的でしょう」
姉は重傷だった。
事故の三日後。
肩を折り。
腹部に傷を負った状態で登録院へ来ていた。
私は嫌な予感がした。
「その後の記録は」
セシルは黙った。
「見せて」
「リディア」
「見せてください」
私は紙を受け取った。
修道院入院者記録。
名前。
《エリー》
姓はない。
年齢十七。
重傷。
入院。
三月十六日。
その下。
退院欄。
空白。
さらに。
最後の記録。
三月二十四日。
《死亡》
私は読めなかった。
文字は見えている。
意味だけが入ってこない。
「違う」
誰に言ったのか分からない。
「これは姉さんだと決まってない」
「ええ」
セシルが静かに言う。
「名前だけでは」
「エリーなんて、いくらでもいる」
「そうです」
「年齢も」
「ええ」
「なら」
紙の裏を見る。
備考。
《左肩骨折》
《腹部裂傷》
事故記録と一致。
そして。
《付き添いテオ・アーレント》
息が止まった。
姉だった。
事故では死ななかった。
でも。
その十一日後。
姉は死んだ。
私は椅子に座った。
立っていられなかった。
「結局」
声が出ない。
もう一度。
「結局、死んでたんだ」
十年間。
私は姉が事故で死んだと思っていた。
昨日から。
姉は生きているかもしれないと思った。
そして今。
本当の死亡日を知った。
三月二十四日。
事故から十一日後。
死亡診断書に書かれた日でもない。
埋葬記録の日でもない。
教会記録の日でもない。
「姉さん」
私は泣いた。
今度は止めなかった。
「十一日も」
姉は生きていた。
十一日。
その間に。
離婚届を作った。
私への手紙を書いた。
自分の名前を消した。
そして死んだ。
私を守るために。
「馬鹿」
何度言っても足りない。
「私なんか放っておけばよかったのに」
「それは違う」
アルベルトの声。
「何が」
「エレノアは、君を放っておけなかった」
「だからって」
「君も同じことをしたはずだ」
「しません」
「する」
「しない」
「する」
「分かったようなこと言わないで!」
顔を上げる。
涙でアルベルトの顔が滲んだ。
「みんなそう!」
私は叫んだ。
「姉さんも、あなたも! 私のためだって勝手に決める!」
アルベルトは黙って受け止めた。
「私は守ってほしいなんて頼んでない!」
「ああ」
「私は姉さんに生きていてほしかった!」
「ああ」
「帰ってきてほしかった!」
「ああ」
「私のために死んでほしくなんかなかった!」
「分かっている」
「分かるわけない!」
「分かる」
今度は。
アルベルトの声も強かった。
「俺だって、生きていてほしかった」
私は黙った。
「友人だった」
彼は言う。
「腹が立つほど頑固で、人の話を聞かなくて、全部一人で決める女だった」
少しだけ。
姉の姿が浮かんだ。
「死んでほしかったわけがない」
アルベルトは目を伏せる。
「だから十年間、俺も腹が立っていた」
姉を愛してはいなかった。
でも。
大切ではあった。
私はようやく、その違いが分かった。
◇
最後の封筒。
《リディア・フィーネスへの開示文書》
開けるまで、少し時間がかかった。
泣き終わってから。
私は封を切った。
姉の字。
《リディアへ》
《これを読んでいるあなたが何歳なのか、私は知りません。》
《でも、アルベルトと結婚したのなら、たぶんもう子どもではないでしょう。》
私は鼻をすすった。
「当たり前でしょう」
十年も経っている。
《最初に謝ります。》
《私はあなたに嘘をつきました。》
《死にました。》
《正確には、死んだことにしました。》
《そして多分、この手紙をあなたが読む頃には、本当に死んでいます。》
姉は。
自分が長くないことを知っていた。
《お医者様には、傷が深いと言われました。》
《テオは信じていません。》
《私も信じたくありません。》
《でも、時間がないから書きます。》
涙がまた出る。
《リディア。》
《私があなたを守った、なんて思わないでください。》
私は目を止めた。
《私は失敗しました。》
《ミーナを死なせました。》
《ディークを危険に巻き込みました。》
《テオから人生を奪いました。》
《あなたには、姉が死んだと思わせました。》
《守るという言葉を使えば、全部きれいに聞こえてしまいます。》
《だから私は、その言葉を使いたくありません。》
姉らしかった。
ずるいのに。
最後だけ正直だ。
《私がしたかったのは一つです。》
《あなたの人生を、私の続きにしないこと。》
文字が滲む。
《私はアルベルトと結婚できませんでした。》
《だからあなたが代わりに嫁ぐ。》
《そんなのは嫌でした。》
《あなたは私ではありません。》
《私より優しくて、私より怒りっぽくて、私より泣き虫で、私よりずっと頑固です。》
「最後の二つ、矛盾してる」
私は泣きながら言った。
《だから、もしあなたがアルベルトと結婚する日が来たら、一度だけ止めます。》
《そのあとで選んでください。》
《嫌なら逃げて。》
《好きなら、もう一度結婚して。》
私は隣にいるアルベルトを見られなかった。
《今度は私の代わりではなく。》
《お父様のためでもなく。》
《レイン家のためでもなく。》
《あなた自身として。》
最後。
数行だけ。
《それからアルベルトへ。》
「あなたにもあります」
私は言った。
「読むか」
「私宛ての手紙です」
「なら好きにしろ」
読む。
《あなたはきっと怒っていますね。》
「怒っている」
アルベルトが即答した。
少しだけ笑った。
《リディアのことをお願いします、とは書きません。》
《あの子をあなたに預けるつもりはないから。》
《リディアは物ではありません。》
「姉さんらしい」
《でも一つだけ。》
《自分の気持ちには、いつか気づいてください。》
私は読むのを止めた。
アルベルトの顔を見る。
「何ですか、これ」
「俺に聞くな」
「あなたのことです」
「分かっている」
次の一行。
《あなたは昔から、私よりリディアを見ています。》
心臓が止まりそうになった。
もう一度読む。
変わらない。
「……どういう意味です」
アルベルトが目を逸らした。
「ちょっと」
「先を読め」
「今のところを説明してください」
「先だ」
「逃げないで」
「逃げていない」
「顔を見て言って」
アルベルトが私を見る。
耳が少し赤い。
初めて見た。
「まさか」
私は言った。
「あなた」
「何だ」
「姉さんと婚約していた頃から?」
「……」
「私を?」
「最後まで読め」
「それ答えですよね」
セシルが背後で咳払いした。
「私は席を外しましょうか」
「最初から外していてください!」
「ここは職場なんですが」
忘れていた。
私は手紙へ戻った。
《ただ、リディアは気づいていません。》
《たぶん今も気づいていないでしょう。》
「姉さん」
死んだ人間にこんなに腹を立てる日が来るとは思わなかった。
《なので、頑張ってください。》
「何を応援してるの」
最後に。
《二人とも、自分で選んで。》
そこで手紙は終わっていた。
私は折り畳む。
しばらく誰も喋らなかった。
耐えられなくなって。
私から言った。
「アルベルト様」
「何だ」
「続きを聞きます」
「何の」
「この前、途中で邪魔された話」
彼は分かっている。
目を逸らさない。
「どうして私に求婚したんですか」
沈黙。
もう逃がさない。
「家のためじゃない」
「ああ」
「姉さんとの約束でもない」
「ああ」
「なら」
アルベルトが静かに息を吐いた。
「君が良かったからだ」
頭の中が真っ白になった。
「……はい?」
「聞こえただろう」
「もう少し説明してください」
「君が良かった」
「同じです」
「他にどう言えと」
「例えば理由とか」
「理由が必要か」
「必要です!」
初めて。
アルベルトが困った顔をした。
「昔から」
彼は言った。
「君はエレノアの後ろにいた」
私は黙る。
「いつも姉と比べられていた」
「ああ」
「でも君は、エレノアとは全然違った」
「それは褒めています?」
「褒めている」
「続けて」
「転べば大声で泣く」
「七歳です」
「嫌なものは嫌だと言う」
「普通です」
「本を読むと途中で眠る」
「関係あります?」
「エレノアは眠らなかった」
「比較しないでください」
「ほら」
「何が」
「そういうところだ」
分からない。
「エレノアの妹じゃない」
アルベルトの声が変わった。
「俺は昔から、君を君として見ていた」
胸の奥が熱くなった。
「だから結婚したかった」
「……でも」
「何だ」
「姉さんの代わりを求めるつもりはない、と言いました」
「ああ」
「私はあれを」
恥ずかしい。
でも言う。
「私を愛するつもりはない、という意味だと思いました」
アルベルトが目を見開いた。
「なぜそうなる」
「だって!」
「逆だ」
「逆?」
「あれは」
アルベルトが眉間を押さえた。
「君が一番嫌がることをしないと伝えたつもりだった」
「分かりませんよ、そんなの」
「今分かった」
「遅いです」
「悪かった」
初めて。
彼が素直に謝った。
私はどうしていいか分からなくなる。
「では」
小さな声で聞いた。
「私のことを」
好きなのですか。
その言葉だけ出ない。
アルベルトが待っている。
「……何です」
「最後まで言え」
「嫌です」
「君は何でも最後まで聞くんじゃなかったのか」
「人に言わせないでください」
「なら俺から言う」
逃げる暇もなかった。
「好きだ」
あっさり。
言われた。
姉の死を告げるときより。
離婚届の秘密を話すときより。
ずっと簡単に。
「ずっと前から」
私は何も言えなかった。
アルベルトが続ける。
「だから」
机の上にある姉の離婚届を見る。
「君がこれを受理しても、俺は止めない」
胸が痛む。
「姉さんとの約束だから?」
「違う」
彼は首を振った。
「君の選択だからだ」
姉と同じ言葉。
選ぶ。
「離婚したければ、する」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「公爵家のことは?」
「どうでもいい」
「北部七領は?」
「王家へ返す」
「そんな簡単に」
「領地と妻なら、比較する意味がない」
私は俯いた。
泣きそうになる。
今度の涙は。
さっきまでとは少し違った。
「考えさせてください」
「ああ」
「すぐには決められません」
「分かっている」
「姉さんが決めたからでも」
「ああ」
「あなたが好きだと言ったからでもなく」
「ああ」
「私が決めます」
「それでいい」
私は姉の手紙を胸に抱いた。
十年前。
姉は自分の名前を消した。
エレノア・フィーネスという存在を。
未来の私が、
誰かの名前の続きとして生きなくて済むように。
そして今。
私の前には一枚の離婚届がある。
受理すれば。
昨日始まった結婚は終わる。
でも。
終わることと、
失うことは。
同じではないのかもしれない。
姉は十年前。
それを私に教えようとしていた。
人生を選び直すためには。
一度、
他人に決められた名前から離れなければならないことがある。
私は離婚届を手に取った。
明日。
答えを出す。
姉の代わりではなく。
誰かに守られる妹でもなく。
私自身として。




