第6章 死んだのは姉ではなかった
死んだのは、姉ではなかった。
その可能性にたどり着いたのは、姉の事故記録を三度目に読み返したときだった。
「人数が合わない」
私は呟いた。
王立身分登録院、第二照合室。
机の上には、十年前の事故に関する書類を可能な限り集めてある。
街道警備隊の事故報告書。
治療院の搬送記録。
フィーネス家の馬車台帳。
教会の埋葬記録。
姉の死亡診断書。
そして、行方不明になった護衛の報告書。
最初に事故記録を読んだとき、私は内容しか見ていなかった。
《乗員三名》
御者。
護衛。
令嬢。
御者死亡。
護衛重傷。
令嬢死亡。
だから、合っていると思った。
でも。
「馬車台帳には四人です」
向かいにいたセシルが身を乗り出した。
「見せてください」
私は台帳を回した。
事故当日の乗車予定者。
《御者 ローレン・バス》
《護衛 ディーク・ハイム》
《エレノア・フィーネス》
そして、その下。
《同行侍女 ミーナ》
「四人」
「ええ」
セシルの表情から、いつもの軽さが消えた。
「事故報告書には三人しかいません」
「侍女が乗らなかった可能性は?」
隣にいたアルベルトが言った。
「私もそう思いました」
私は別の紙を示す。
「でも、出発時の門衛記録があります」
フィーネス邸の門を出た者。
御者。
護衛。
エレノア。
侍女ミーナ。
四人。
「途中で降りた?」
「その記録はありません」
「なら」
セシルが事故報告書を手に取る。
「事故現場から一人消えている」
「そうなります」
私は事故の簡略図を見る。
馬車は崖下へ転落。
前部が岩に衝突。
馬二頭も死亡。
火災は起きていない。
遺体が焼失したわけでもない。
「おかしいでしょう」
「かなり」
「なのに十年間、誰も気づかなかった」
「最初から三人だったと思い込まされていたなら」
アルベルトの言葉に、私は顔を上げた。
「思い込まされていた?」
「あの事故でエレノアが死んだ。それが先にあれば、人は記録をその前提で読む」
私もそうだった。
姉が死んだ。
だから、
《令嬢一名死亡》
を見れば姉だと思う。
誰も、
その令嬢が本当にエレノアなのか
とは考えない。
「侍女のミーナという女性について調べました」
セシルが一枚の調査票を出した。
「フィーネス家に三年勤務。当時十八歳」
「家族は?」
「王都の南に母親がいたようですが、九年前に亡くなっています」
「事故後の記録は?」
「ありません」
私は黙った。
「つまり」
セシルが言う。
「エレノア様だけでなく、侍女も事故当日を最後に消えている」
「死亡届は?」
「出ていません」
「行方不明届」
「それもなし」
「どうして」
セシルが肩をすくめる。
「使用人一人です。伯爵家が届け出なければ、それまでです」
胸が重くなった。
人は、書類に載らなければ消える。
私は五年間、登録院で働いてきた。
出生届がなければ、生まれていない。
死亡届がなければ、死んでいない。
そう考えてきた。
でも本当は逆だ。
人間は書類より先に生きている。
書類が間違っても、人間の事実まで変わるわけではない。
「遺体は」
私は事故報告書を指さした。
「若い女性だった」
「そう書いてあります」
「顔は?」
「損傷が激しく、判別不能」
「服装」
「フィーネス伯爵家の令嬢用外套」
私は目を閉じた。
姉の外套を、侍女が着ていたら。
「装飾品は?」
アルベルトが聞く。
セシルが紙をめくる。
「指輪が一つ」
「何の」
「フィーネス家の紋章入り」
「姉の?」
「所有者について記載はありません」
「家紋入りなら、家族も使用人も持てる物です」
私は言った。
私も持っていた。
家の正式な印章ではない。
所属を示す簡単な指輪。
「では遺体をエレノアだと特定した根拠は?」
アルベルトが聞く。
セシルが黙る。
紙を一枚ずつ見る。
そして。
「ありませんね」
背中が寒くなった。
「そんなはずない」
私は書類を奪うように確認した。
衣服。
年齢。
体格。
髪色。
どれも姉と一致する。
でも。
決定的な本人確認がない。
「遺体を確認したのは誰です」
「現場の警備兵」
「姉を知っていた?」
「記録上は初対面」
「医師は?」
「遺体だけを診ています」
「父は?」
「確認していません」
「母も?」
「していません」
「アルベルト様も」
「ああ」
誰も見ていない。
姉を知る人間は。
誰一人。
「では」
私はようやく言葉にした。
「死んだのはミーナだった?」
答える者はいなかった。
でも。
それなら一つ説明できる。
姉の遺体がない。
死亡記録がおかしい。
棺が閉じられていた。
そして事故後に姉から手紙が届いた。
姉は。
事故で死んでいなかった。
◇
私たちは、その日の午後にフィーネス伯爵邸へ向かった。
父に聞くしかなかった。
もう遠回りはできない。
「十年前、姉さんの遺体を確認した?」
父の書斎へ入って最初に聞いた。
挨拶もしなかった。
父は机の向こうで私を見た。
「何を突然」
「答えて」
「リディア」
「見たの?」
父は黙った。
その沈黙だけで分かった。
「見ていないのね」
「事故が酷かった」
「それは何度も聞いた」
「お前に話すことでは――」
「私は二十二歳です」
思わず声を荒らげた。
「もう十二歳じゃない」
父の顔が固くなる。
母も部屋にいた。
隣で俯いている。
「事故の馬車には四人乗っていた」
父が私を見る。
「御者。護衛。姉さん。侍女のミーナ」
何も言わない。
「現場で確認されたのは三人」
沈黙。
「ミーナはどこへ行ったの」
「知らない」
「嘘」
「本当に知らん」
「なら、姉さんの遺体が姉さんだと、どうして分かったの」
「服装と所持品で――」
「本人確認にならない」
私は机に事故記録を置いた。
「顔は確認できない。家族は誰も遺体を見ていない。血縁照合もしていない」
父の目が紙へ落ちる。
「それなのに、どうして姉さんだと決めたの」
「当時は、それで十分だった」
「誰にとって?」
「何?」
「誰にとって十分だったの」
父の唇が閉じる。
「私たち家族?」
返事はない。
「登録院?」
ない。
「それとも」
声を低くした。
「姉さんを死んだことにしたかった誰かにとって?」
「リディア!」
父が立ち上がる。
机が揺れた。
母が小さく息を呑んだ。
「言葉を慎め」
「どうして?」
「根拠のない推測で――」
「根拠ならあります」
私は姉の離婚届を置く。
父の顔から色が消えた。
見逃さなかった。
「知っているの?」
「……何だ、それは」
「今、知っている顔をした」
「していない」
「私、登録院で五年働いているの」
自分でも冷たい声だった。
「書類の嘘を見つけるのが仕事なの」
「私は書類ではない」
「人の嘘も似たようなものよ」
父と睨み合う。
母が弱々しく言った。
「やめなさい、二人とも」
「お母様」
私は母を見る。
「ミーナを覚えている?」
母の肩が動く。
「ええ」
「事故の日、姉さんと一緒だった」
「……そうね」
「そのあと会った?」
母は首を振った。
「死亡したと聞いた?」
「いいえ」
「行方不明だと?」
「いいえ」
「では何て聞いたの」
母が父を見る。
それだけで答えだった。
「お父様から何か聞いたのね」
「リディア」
「お母様」
私は近づいた。
「お願い。今度は私に決めさせて」
「何を」
「真実を知るかどうか」
母の目に涙が溜まった。
「もう子どもじゃない」
「分かっているわ」
「なら教えて」
長い沈黙。
母が口を開いた。
「事故の翌朝」
父が険しい顔になる。
「やめろ」
「あなた」
「話す必要はない」
「あるわ」
母は初めて父に強く言った。
「十年前にはなくても、今はある」
そして私を見る。
「事故の翌朝、エレノアの部屋が荒らされていたの」
「荒らされた?」
「机の中も、本棚も。誰かが何かを探したように」
姉の日記。
破られたページ。
「警察には?」
「言わなかった」
「なぜ」
母は答えにくそうに目を伏せる。
「あなたのお父様が止めたから」
父を見る。
「どうして」
「事故と関係があるか分からなかった」
「関係がないと思ったなら、なぜ隠したの」
答えない。
その瞬間。
初めて私は父を疑った。
姉を殺したのではないか、ではない。
もっと別の意味で。
父は。
姉の死について、
何か知っている。
「お父様」
「何だ」
「姉さんは生きていたの?」
父の顔が動いた。
ほんの一瞬。
「事故のあと」
私は逃がさない。
「姉さんが生きていたことを知っていた?」
「知らない」
「本当に?」
「知らん」
父の声は強かった。
でも。
質問への反応が速すぎた。
まるで何度も自分にそう言い聞かせてきた人みたいだった。
「ではミーナは?」
「知らない」
「事故で死んだのは誰?」
「エレノアだ」
「どうして断言できるの」
「そう記録されている!」
父が机を叩いた。
私は動かなかった。
「記録が間違っている可能性を調べているんです」
「死者を掘り起こして何になる」
「生きているかもしれない」
「十年だぞ!」
父の声が部屋に響く。
「十年、何の連絡もない。帰ってもこない。そんな人間を、生きていると言うのか!」
私は。
その言葉に引っかかった。
「帰ってこない?」
父が黙る。
「お父様」
私はゆっくり聞いた。
「姉さんが帰ってくる可能性を、考えたことがあるの?」
「言葉の綾だ」
「死んだと思っている人には、『帰ってこない』とは言わない」
「リディア」
「『戻ってこない』とも」
「やめなさい」
「何を知っているの」
父は目を逸らした。
それ以上は何も言わなかった。
◇
屋敷を出たあと、私はまっすぐ歩けなかった。
庭園の石段で立ち止まる。
「リディア」
アルベルトが後ろから来る。
「一人にして」
「できない」
「妻だから?」
「違う」
「では何」
「君だからだ」
振り返った。
アルベルトはそれ以上言わなかった。
今なら。
昨日聞けなかった答えを聞けるかもしれない。
でも。
今は姉のことで頭がいっぱいだった。
「死んだのはミーナだと思いますか」
「可能性は高い」
「なら姉さんは」
「事故を生き延びた」
「どうして帰ってこなかったの」
「分からない」
「十年間も?」
「……」
「私を守ると言っていたのに」
声が震えた。
「私を置いていった」
姉が生きていたかもしれない。
本来なら喜ぶべきなのかもしれない。
でも。
胸の中にあるのは喜びではなかった。
怒りだった。
「生きていたなら」
私は言う。
「どうして一度も会いに来なかったの」
「理由があったんだろう」
「何でも理由で済ませないで」
思わずアルベルトを睨んだ。
「みんなそう。私を守るため。子どもだったから。危険だったから」
姉。
父。
アルベルト。
みんな私に何も知らせない。
「守られる側は」
涙が出た。
今度は止められなかった。
「何も選べない」
アルベルトが手を伸ばしかける。
私は一歩下がった。
「触らないで」
彼の手が止まる。
「ごめんなさい」
そう言ったのは私だった。
「今は無理です」
「ああ」
彼は手を下ろした。
それ以上近づかなかった。
それが少しだけありがたかった。
◇
その夜。
私は自分の幼少期の記録を調べた。
理由は分からない。
たぶん。
怖い考えが頭に浮かんだからだ。
姉の遺体はない。
事故で死んだのは別人。
姉は生きていた。
私の幼少期の記憶は、一部曖昧だった。
姉が死ぬ前後。
数か月分。
ほとんど覚えていない。
十二歳だったのに。
母は昔、
『あなたは事故のあと熱を出して、しばらく寝込んだの』
と言っていた。
私はずっと、それを信じていた。
でも。
もし。
もしも。
私は出生記録を開いた。
リディア・フィーネス。
生年月日。
父。
母。
出生証明。
問題ない。
次に姉。
エレノア・フィーネス。
五歳年上。
こちらも問題ない。
なのに。
手が震える。
「何を調べているんです」
声に驚いて振り返る。
セシルだった。
「人の後ろに立たないでください」
「三回呼びました」
「聞こえませんでした」
彼が画面を見る。
「自分の出生記録?」
「……ええ」
「なぜ」
「馬鹿なことを考えました」
「どんな?」
私は言いたくなかった。
でも口にしないと、頭から消えない気がした。
「私が」
声を落とす。
「本当はエレノアなのではないかって」
セシルが珍しく黙った。
「姉さんが事故を生き延びて」
「はい」
「何かの理由で、私と入れ替わった」
「つまり」
「事故のときに死んだのがリディアで」
言葉にした瞬間。
ぞっとした。
「生き残ったエレノアが、リディアとして生きている」
私。
今ここにいる私が。
姉だったら。
「だから記憶が曖昧で」
「リディア」
「だから姉さんの日記にも私のことばかり――」
「リディア」
セシルの声が強くなった。
私は黙る。
「違います」
「どうして分かるんです」
「五歳差をどう説明します?」
「十二歳と十七歳なら、体格差は――」
「あります」
「事故で怪我をしていたら」
「それでも無理です」
「でも記録なら書き換えられる」
「記録だけなら」
セシルは私の手首を見る。
「あなた、左腕に傷がありますよね」
子どもの頃からある、小さな傷。
「七歳のときに木から落ちた傷」
「なぜ知ってるんです」
「職員健康記録にあります」
セシルは自分の端末を操作した。
「九歳の診療記録にも同じ傷の記載があります」
事故より三年前。
「つまり」
「あなたは事故前からリディア・フィーネスです」
力が抜けた。
椅子の背にもたれる。
安心したのか。
がっかりしたのか。
自分でも分からなかった。
「馬鹿ですね」
「いいえ」
「本気で考えました」
「今ある情報なら、考えても不思議ではない」
「でも違った」
「ええ」
私は私だった。
姉ではない。
その当たり前のことに、こんなに安心するなんて思わなかった。
「では」
私は呟く。
「姉さんはどこへ行ったの」
「それを探しましょう」
セシルが一枚の紙を差し出した。
「ちょうど、面白いものが見つかりました」
「今度は何です」
「十年前の入館記録です」
「どこの?」
「ここ」
「登録院?」
「はい」
私は紙を受け取る。
職員以外の来訪者記録。
日付。
事故から三日後。
三月十六日。
姉の死亡が正式に公表された日。
「名前は」
視線を下げる。
そこにあった。
《エレノア・フィーネス》
息が止まった。
「誰かが姉さんの名前を使った?」
「可能性はあります」
「本人確認は?」
「当時、高位貴族は家紋印章だけで入館できました」
「では証拠にはならない」
「ところが」
セシルが裏を示す。
「退出時に、書庫閲覧者だけ署名する規則だった」
署名。
エレノア・フィーネス。
私は姉の離婚届を何度も見ている。
手紙も。
日記も。
分かる。
「姉さんの字です」
「筆跡鑑定でも高確率で一致しました」
事故の三日後。
姉は。
生きていた。
しかも。
「何を閲覧したんです」
「そこが問題です」
セシルの表情が硬くなる。
「閲覧したのは死亡記録ではありません」
「では?」
彼が次の紙を置く。
《特殊身分記録・個人消除申請》
「個人消除?」
聞いたことがある。
滅多に使われない制度。
国家機密に関わる者。
証人保護。
王命による身分変更。
その人物が、
公的には存在しなかったことにする手続き。
「姉さんがこれを見た?」
「閲覧しただけではありません」
セシルが最後の記録を出す。
申請者。
署名。
受付日。
三月十六日。
全部、姉。
「申請している?」
「はい」
「何を」
もう答えは分かっていた。
でも聞かずにはいられなかった。
セシルが言う。
「自分自身です」
十年前。
事故の三日後。
死亡したと発表されたその日に。
姉エレノアは王立身分登録院へ来た。
そして。
自分の名前を、この国から消そうとしていた。
私は書類を見つめる。
姉は事故で死んでいなかった。
誰かに殺されたわけでもない。
少なくともその日までは。
生きていた。
自分の足でここへ来た。
自分の手で署名した。
そして、自分を死者にした。
なら。
本当の謎はもう、
姉が生きているかどうかではない。
私は震える指で署名をなぞった。
「姉さん」
問いかけても返事はない。
十年前の紙だけが残っている。
「あなたは」
私は小さく呟いた。
「何から逃げていたの?」
そしてもう一つ。
もっと怖い疑問が生まれた。
姉は、
誰から私を逃がそうとしていたのだろう。




