第5章 あなたは姉と一緒に、私を騙していた
「事故の一週間前、エレノアは俺を呼び出した」
アルベルトはそう言った。
王立身分登録院の地下。
十年前の秘密が眠る特殊書庫。
私の目の前には、姉の離婚届。
その下には、アルベルトの署名。
何度見ても変わらない。
彼は知らなかったのではない。
姉と一緒に、この書類を作っていた。
「どこで会ったんです」
「王都西区の古い礼拝堂だ」
「二人きりで?」
「ああ」
「何のために」
「最初は分からなかった」
私は黙って続きを待った。
「エレノアは書類を持ってきた」
「これを?」
「ああ」
「そして、あなたに保証人になってほしいと頼んだ」
「そうだ」
「理由も聞かずに?」
「聞いた」
「何と答えたんです」
アルベルトは机の上の書類を見る。
「自分がいなくなれば、リディアが次に選ばれるから、と」
私は息を止めた。
姉の日記と同じ言葉。
選ばれる。
「それが、私とあなたの結婚だと?」
「当時はそう思った」
「当時は?」
また引っかかった。
「今は違うんですか」
「まだ分からない」
「またそれですか」
「嘘は言えない」
「でも真実も全部言わない」
「……そうだな」
認められると、余計に腹が立つ。
「姉さんは何を頼んだんです」
「もしエレノアが死んだあと、君と俺が婚姻することになったら、その瞬間にこの文書を発効させる」
「それだけ?」
「それだけだ」
「離婚届だと分かっていた?」
「ああ」
「なのに署名した」
「した」
「なぜ」
「エレノアが頼んだから」
「それで納得できると思いますか」
声が強くなる。
アルベルトは何も言わない。
「あなたは私と結婚した」
「ああ」
「しかも、自分が結婚すれば姉さんの離婚届が発効すると知っていた」
「そうだ」
「それなのに、私には何も言わなかった」
「……ああ」
「結婚式のときも?」
「ああ」
「誓約書に署名したときも?」
「ああ」
「昨夜も?」
少し間があった。
「そうだ」
何かが切れた。
「最低ですね」
言葉が先に出た。
アルベルトは反論しなかった。
「私は昨日、何も知らずにあなたと結婚した」
「分かっている」
「あなたは知っていた」
「全部ではない」
「十分です」
「リディア」
「呼ばないで」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「あなたは姉さんと一緒に、私を騙していた」
地下の書庫に私の声が響いた。
紙の束。
黒い保管箱。
十年分の秘密。
全部が私を見ている気がした。
「私は」
喉が詰まった。
「姉さんが死んでから、ずっと姉さんの代わりだった」
母は私を見て言った。
『あなたもエレノアみたいにすればいいのに』
父は言った。
『姉のように振る舞いなさい』
親戚は言った。
『顔立ちが似てきたね』
社交界では。
『亡き姉の代わりに公爵家へ』
私は何度も聞いた。
「それでも、結婚だけは」
声が震えた。
「私が選んだと思っていました」
アルベルトの目が揺れる。
「家同士の事情があるのは分かっていた。でも最後に承諾したのは私だった。だから、これは私の人生だって」
「そうだ」
「違う!」
思わず机を叩いた。
「姉さんが十年前から仕掛けて、あなたが保証人になっていた」
「それは――」
「私の結婚なのに」
涙が出そうになった。
嫌だった。
泣きたくなかった。
姉のことで泣くのは、十二歳で終わったはずだった。
「私だけが知らなかった」
アルベルトは立ったまま動かなかった。
「説明させてくれ」
「何を」
「エレノアは、君に結婚をやめさせようとしたわけじゃない」
「離婚届なのに?」
「そうだ」
「意味が分かりません」
「俺にも当時は分からなかった」
「では何が分かったんです」
アルベルトが一つ息を吐く。
「文書を出したあと、俺はエレノアに聞いた」
『なぜ離婚届なんだ』
十年前のことを話す彼の声が低くなる。
『婚約を無効にしたいなら、家同士の契約を破棄すればいい』
姉は答えた。
『それでは駄目なの』
『なぜ』
『家が決めた結婚を壊すだけでは、リディアは自由にならないから』
私は瞬きを忘れた。
「……自由?」
「そう言った」
「どういう意味です」
「俺も聞いた」
姉の答えは。
『あの子自身に選ばせたいの』
胸の奥が痛んだ。
「姉さんが?」
「ああ」
「私に?」
「そうだ」
アルベルトは続ける。
『家に決められたから結婚する。姉が死んだから結婚する。私の代わりだから結婚する。そんな形でリディアをあなたの妻にしたくない』
私は手元の書類を見る。
離婚届。
ずっと呪いのように見えていた。
『だから一度終わらせる』
アルベルトの声が、姉の言葉を運んでくる。
『もしあの子が将来あなたと結婚したら、その結婚を一度白紙に戻す』
『そのあと、リディアがあなたを選ぶなら』
『今度は、リディア自身の結婚になるでしょう』
何も言えなかった。
姉の離婚届は。
私たちを別れさせるためではなかった。
私に、
もう一度選ばせるためだった。
「でも」
私は首を振った。
「それなら、なぜ姉さんの名前で離婚届を」
「俺もそれを聞いた」
「答えは?」
「エレノアは笑った」
「姉さんが?」
「ああ」
アルベルトの顔に、一瞬だけ昔を見るような表情が浮かぶ。
『リディアは優しいから』
姉はそう言ったという。
『自分の名前で逃げ道を残したら、きっと使わない』
『家族のために我慢する』
『あなたのためにも我慢する』
『だから私のわがままだと思わせたほうがいい』
私は目を閉じた。
ずるい。
姉はずるい。
十年前に死んだくせに。
今さら私のことを分かっていたような顔をする。
でも。
当たっていた。
もし婚姻届と同時に、
《希望すれば婚姻を無効にできます》
という書類を渡されていたら。
私は使わなかっただろう。
父の顔。
母の顔。
レイン家。
世間。
アルベルト。
全部を考えて。
『別に、このままでいいです』
そう言ったはずだ。
「だから姉さんは、自分が離婚する形にした」
「そうらしい」
「自分はあなたと結婚していないのに」
「ああ」
「無茶苦茶です」
「エレノアらしい」
その言い方に、胸がざわついた。
「よく知っているんですね」
「何が」
「姉さんのこと」
「十年以上の付き合いだった」
「愛していなかったのに」
言った瞬間。
アルベルトが黙った。
私はまた嫌な言い方をしたと思った。
でも撤回しなかった。
「愛していなかった」
彼は静かに言った。
「だが友人ではあった」
「友人」
「ああ」
「姉さんはそう思っていたんでしょうか」
「たぶんな」
私は羨ましいと思った。
姉には、私の知らない顔があった。
婚約者ではないアルベルトと話す顔。
秘密の恋をする顔。
私を守ろうと一人で仕掛けを作る顔。
私が知っていた姉は、ほんの一部だった。
「それでも」
私は言った。
「あなたが黙っていたことは許せません」
「ああ」
「姉さんとの約束だったから?」
「それもある」
「それも?」
「エレノアは条件をつけた」
「どんな」
「この文書の存在を、発効するまで君に話さないこと」
「どうして」
「知れば君は、結婚そのものを避けるかもしれないから」
「当然です」
「それでは選択にならない、と」
「意味が分かりません」
「俺もそう言った」
『騙して結婚させるのと同じじゃないか』
『違う』
『何が』
『リディアがあなたを選ぶ可能性まで奪いたくない』
私は言葉を失った。
姉は。
私がアルベルトを選ぶ可能性まで考えていた。
十年前の私が十二歳だった頃から。
「姉さんは」
声がかすれる。
「私があなたを好きになると思っていたんですか」
アルベルトは少しだけ目を伏せた。
「そこまでは聞いていない」
「では、なぜ」
「可能性の話だろう」
「そうですね」
胸の奥に、小さな失望が落ちた。
何を期待したのか、自分でも分からない。
「もう一つ聞きます」
「何だ」
「あなたは」
ずっと聞きたくなかった質問。
「どうして私と結婚したんですか」
アルベルトの表情が止まった。
「家同士の契約?」
「違う」
「姉さんとの約束?」
「違う」
「では」
彼は答えない。
「また黙るんですか」
「……今言うと、君は信じない」
「それを決めるのも私です」
「そうだな」
長い沈黙。
私は待った。
今度は逃がさない。
アルベルトはやがて口を開いた。
「俺が君に求婚したのは」
そのとき。
特殊書庫の扉が開いた。
「失礼」
セシルだった。
私は思わず睨む。
「今、ものすごく大事なところだったんですけど」
「それは申し訳ない」
「顔が全然申し訳なさそうじゃありません」
「職務中なので」
彼の表情はいつもの軽薄なものではなかった。
「何かあったんですか」
「ええ」
セシルは一枚の書類を持っていた。
「先ほど、十年前の特殊文書登録記録を照合しました」
「それで?」
「妙なことが一つ」
最近、この言葉を聞くたび嫌な予感がする。
「姉さんの書類?」
「そうです」
セシルが私たちの前に置く。
「登録日は、事故の二日前」
「知っています」
「保証人はレイン公爵」
「それも」
「では、申請者の本人確認記録は?」
私は書類を見る。
血縁魔力照合。
署名照合。
本人確認。
すべて正常。
「問題ないでしょう」
「問題は時刻です」
「時刻?」
セシルが指す。
《受付時刻 午後十一時十二分》
「それが?」
「同じ日の夜、エレノア様はどこにいました」
私はアルベルトを見る。
「知っていますか」
「その日は……」
彼の顔色が変わった。
「何です」
「フィーネス家の夜会だ」
「姉さんは?」
「出席していた」
「何時まで」
「少なくとも深夜零時近くまで」
私は書類を見る。
フィーネス伯爵邸から登録院まで。
馬車で四十分。
どう急いでも間に合わない。
「なら本人提出は不可能です」
セシルが言った。
「でも本人確認は通っている」
「はい」
「姉さんの代わりに誰かが来た?」
「血縁魔力照合があります」
「偽造?」
「その可能性も調べます。でも」
セシルは別の紙を出した。
「もっと面白いものがあります」
「今度は何です」
「受付記録を書いた職員」
名前。
見覚えがあった。
「この人」
私は記憶を探す。
「十年前の特殊文書担当官」
「そうです」
「話を聞けますか」
「難しいですね」
「亡くなっている?」
「いいえ」
セシルは首を振った。
「行方不明です」
背中が冷える。
「いつから」
「エレノア様の事故の翌日」
また。
姉に関わった人間が消えている。
事故で生き残った護衛。
特殊文書を受け付けた担当官。
「偶然だと思いますか」
「私は偶然が嫌いです」
セシルが言った。
「特に二回続く偶然は」
私はアルベルトを見る。
「このことは?」
「知らない」
「本当に?」
「ああ」
今度は信じた。
少なくとも彼の驚きは演技には見えなかった。
「姉さんは、自分で登録院へ来ていない」
私は呟く。
「なのに本人確認が通っている」
「誰かがエレノア様として登録した」
セシルが言う。
「あるいは」
「あるいは?」
「本人確認記録そのものが後から書き換えられた」
私は離婚届を見る。
姉が私を守るために用意したもの。
そう思った。
でも。
もし途中に別の人間の意志が入っていたら?
「姉さんの計画を」
私は言う。
「誰かが利用した?」
「可能性はあります」
セシルが答える。
「では、誰が」
返事はない。
私はもう一度アルベルトを見る。
彼は姉の共犯者だった。
でも。
どうやら共犯者は彼一人ではない。
◇
その夜。
私は一人で寝室にいた。
アルベルトは別室へ行ってもらった。
顔を見たくなかった。
嫌いになったわけではない。
それが困る。
嫌いになれたら簡単なのに。
姉と一緒に私を騙していた。
私の結婚の日に離婚届が出ると知っていた。
それでも私に求婚した。
なのに。
『俺が君に求婚したのは――』
答えを聞けなかった。
聞きたいと思っている自分がいる。
私は腹立たしかった。
机に姉の日記を置く。
ページをめくる。
事故の一か月前。
《アルベルトに話した。》
次。
《怒られた。》
思わず少し笑った。
姉でも怒られるのか。
《人の人生を勝手に決めるな、と言われた。》
指が止まった。
アルベルトは。
最初から反対していた?
次。
《正しいと思う。》
《私はリディアを守りたいと言いながら、結局あの子の人生を勝手に考えている。》
次のページ。
《だから最後だけは、リディアに選ばせる。》
離婚届。
あれが最後の選択。
《アルベルトには申し訳ないことを頼んだ。》
《でも、あの人なら最後にリディアを騙さないと思う。》
私は眉を寄せる。
「騙してるじゃない」
思わず声に出した。
次の行。
《少なくとも、私よりは。》
「……ずるい」
姉に言う。
十年遅い文句。
そして、その下。
今まで気づかなかった短い一文があった。
《それに、あの人は自分では気づいていない。》
何を?
次のページ。
破られている。
「また?」
私は光に透かした。
破られた跡。
わずかにインクが残っている。
文字の一部。
読める。
《リディアを――》
そこから先がない。
心臓が速くなる。
姉は何を書いた?
アルベルトが。
私を。
何だというの。
愛している?
そんな都合のいい言葉を考えた自分に、すぐ腹が立った。
「馬鹿みたい」
日記を閉じる。
そのとき。
紙の間から、小さなものが落ちた。
写真。
前に見つけたものとは違う。
幼い私が写っている。
十二歳よりもっと前。
七歳くらい。
庭で転んで泣いている。
その隣に少年がしゃがんでいた。
若いアルベルト。
彼が私の膝に布を巻いている。
私は覚えていなかった。
写真の裏。
姉の字。
《リディアは覚えていない。》
次の行。
《でもアルベルトは、たぶん忘れない。》
それだけ。
私は写真を握ったまま、しばらく動けなかった。
アルベルトは言った。
『君にはなくても、俺にはある』
昔の記憶。
私は知らない。
姉は知っていた。
そして。
アルベルトも知っている。
私は立ち上がった。
今度こそ。
聞かなければならない。
姉のことではなく。
十年前の計画でもなく。
私自身のことを。
私が彼にとって何なのか。
廊下へ出る。
アルベルトの部屋の前まで行く。
手を上げる。
扉を叩こうとして。
止めた。
怖かった。
もし答えが、
姉の代わりだったら。
これまでよりずっと傷つく。
私は結局、扉を叩けなかった。
その夜初めて気づいた。
姉の離婚届を調べ始めてから、
私はずっと姉が何を考えていたのかを知ろうとしていた。
でも本当に怖いのは。
姉の秘密ではない。
私がアルベルトをどう思っているのかを、自分で知ってしまうことだった。




