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死んだ姉の婚約者に嫁いだら、姉から離婚届が届きました  作者: swingout777


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3/8

第3章 夫は姉を愛していなかった

「あなたは姉を愛していたんですか」


 その質問を口にした瞬間、自分でも驚いた。


 もっと先に聞くことがあったはずだ。


 十年前、姉から届いた手紙。


 事故の翌日に書かれたのか。


 誰が届けたのか。


 なぜアルベルトは今まで黙っていたのか。


 けれど、私の口から出たのは、それではなかった。


 アルベルトは返事をしなかった。


 王立身分登録院を出たあと、私たちはレイン公爵邸へ戻っていた。


 夕食はほとんど手をつけていない。


 今は屋敷の書斎。


 大きな窓の向こうには、夜の王都が広がっている。


「もう一度聞きます」


 私は言った。


「姉を愛していたんですか」


 アルベルトが私を見る。


「なぜ今それを聞く」


「関係があるからです」


「何に」


「全部に」


 私は自分でも乱暴だと思うくらい、机の上に書類を置いた。


 姉の離婚届。


 昨日から、何度見たか分からない。


 エレノア・フィーネス。


 アルベルト・レイン。


 その二つの名前が並んでいる。


「そもそも変なんです」


「何が」


「姉はあなたと結婚していない」


「それは昨日も聞いた」


「なら、なぜ離婚届なんです」


 アルベルトは黙る。


「婚約解消届なら分かります。でもこれは婚姻関係解消申請書です。姉が制度を知らなかったとは思えません」


「確かにな」


「それに」


 私はアルベルトを見る。


「姉は、あなたが将来誰かと結婚することを想定していたように見える」


「どういう意味だ」


「《妹を、私の代わりにしないでください》」


 離婚届の追記事項。


 私は何度も頭の中で読み返してきた。


「この言葉は、私とあなたが結婚することを前提にしています」


「そう見えるな」


「十年前に」


「ああ」


「そんなこと、あり得ると思いますか」


「普通ならな」


「普通なら?」


 アルベルトは答えなかった。


 まただ。


 彼は何かを言うたび、最後に一つだけ残す。


 私はそれに気づき始めていた。


「姉はあなたを愛していたんですか」


「知らない」


「婚約者なのに?」


「婚約者だからといって、愛しているとは限らない」


 その言い方が妙に冷たかった。


「では、あなたは?」


 私はもう一度聞いた。


「姉を愛していたんですか」


 アルベルトは視線を逸らさなかった。


「いや」


 あまりにも簡単だった。


「……え?」


「愛していなかった」


 私はしばらく意味を理解できなかった。


「でも」


 言葉がうまく出てこない。


「あなたたちは婚約していた」


「ああ」


「六年も」


「そうだ」


「姉が死んだあとも、あなたは結婚しなかった」


「それも事実だ」


「姉の墓にも行っていた」


「ああ」


「なのに?」


「それと愛情は別だ」


 私は椅子から立ち上がった。


「では、何だったんですか」


「政略だ」


「それだけ?」


「それだけだ」


 腹が立った。


 自分でも理由が分からなかった。


「姉は、あなたとの結婚を楽しみにしていました」


「そう言っていたのか」


「少なくとも私はそう思っていました」


「本人から聞いた?」


 言葉が止まる。


 聞いていない。


 私は十二歳だった。


 姉の結婚は、まだ少し先の話だった。


 家ではいつも、


『エレノアはレイン公爵家へ嫁ぐのよ』


 と母が話していた。


 姉も否定しなかった。


 だから私は当然だと思った。


「姉は、婚約を嫌がっていた」


 アルベルトが言った。


「……嘘」


「嘘ではない」


「なら、どうして」


「家同士の決定だったからだ」


 フィーネス伯爵家。


 レイン公爵家。


 二つの家は昔から政治的な結びつきが強い。


 姉とアルベルトの婚約は、その象徴だった。


「エレノアは十六のとき、俺に婚約を解消したいと言った」


「そんな」


「一度ではない」


「何度も?」


「ああ」


「なぜ」


「理由は話さなかった」


 私は反射的に笑いそうになった。


「あなた、姉のことを何も知らないじゃないですか」


 言ってから後悔した。


 けれどアルベルトは怒らなかった。


「そうだな」


 静かに認めた。


 その返事のほうが苦しかった。


「愛していなかったなら」


 私は声を落とした。


「なぜ、あんなに長く独身だったんです」


「結婚したい相手がいなかった」


「姉を忘れられなかったからではなく?」


「違う」


「世間ではそう言われています」


「世間は好きに言う」


「私もそう思っていました」


「それは俺の責任かもしれない」


「なぜ」


 アルベルトは少し黙った。


「訂正しなかったからだ」


「どうして訂正しなかったんです」


「面倒だった」


「……それだけですか」


「半分は」


「残り半分は?」


 また沈黙。


 私はため息をついた。


「あなたと話していると、戸籍簿の欠落を調べている気分になります」


「どういう意味だ」


「必ず一行足りない」


 アルベルトが少しだけ笑った。


 今度は見間違いではなかった。


「笑うところですか」


「いや」


「笑いました」


「君は昔からそうだった」


「昔?」


「何でも最後まで聞かないと気が済まない」


「知ったようなことを言わないでください」


 私は苛立って言った。


「あなたとまともに話した記憶なんて、ほとんどありません」


「君にはなくても、俺にはある」


 胸の奥が小さく揺れた。


「いつです」


「今は関係ない」


「また一行抜けた」


「そのうち話す」


「信用できません」


「そうだろうな」


 あっさり認められると、責めづらい。


 私は視線を姉の離婚届へ戻した。


「姉があなたを嫌がっていたなら」


 私は考えながら言う。


「昨日の離婚届は、あなたとの関係を終わらせるためだった可能性もありますね」


「十年後に?」


「それが分からないんです」


「俺もだ」


「姉には、好きな人がいたと思いますか」


 アルベルトの表情がわずかに変わった。


「いる」


「え?」


「いたはずだ」


 私は身を乗り出した。


「誰です」


「知らない」


「また?」


「本当に知らない」


「なぜ、いると思うんです」


「エレノアが言った」


「姉が?」


「ああ」


 アルベルトは昔を思い出すように目を細めた。


「婚約を解消したいと言われたときだ」


「何と?」


「『あなたと結婚したくないからではない』」


 私は黙った。


「それから」


 アルベルトが続ける。


「『私には、選びたい人がいる』」


 胸の奥に、見知らぬ姉が立ち上がった。


 私の知らない恋をしていた姉。


「その人の名前は?」


「聞いた」


「答えは?」


「教えてくれなかった」


「男ですか」


「それすら分からない」


「会ったことは?」


「ない」


「手紙は?」


「見たことがある」


「どんな?」


「差出人の名前はなかった」


「内容は?」


「読んでいない」


 私は机を軽く叩いた。


「どうして何も分からないんですか」


「俺に怒るな」


「だって」


「十年前の俺に言え」


「今、目の前にいるでしょう」


「理不尽だな」


 そう言いながら、アルベルトは本気で腹を立ててはいなかった。


 むしろどこか面白がっているようにも見える。


「その手紙はどこにあります」


「エレノアが持っていた」


「家に?」


「おそらく」


 私は立ち上がった。


「行きます」


「どこへ」


「実家です」


「今から?」


「まだ夜の八時です」


「新婚二日目だぞ」


「新婚二日目だから何です」


「普通は夫婦で過ごす」


「普通の新婚夫婦には、死んだ姉から離婚届は届きません」


「それもそうだ」


 アルベルトも立ち上がった。


「俺も行く」


「来なくていいです」


「俺にも関係がある」


「姉を愛していなかったのに?」


 言葉にしてから、自分の声に棘があると気づいた。


 アルベルトも気づいたらしい。


 少しだけ目を細めた。


「それが気になるのか」


「何がです」


「俺がエレノアを愛していなかったこと」


「気になりません」


「そうか」


「ええ」


「ならいい」


 腹が立つ。


 ものすごく腹が立つ。


          ◇


 フィーネス伯爵邸へ行くのは、結婚式以来だった。


 まだ一日しか経っていない。


 なのに、ずいぶん久しぶりに感じる。


「まあ、リディア」


 母は突然帰ってきた娘を見て驚いた。


 その直後、アルベルトを見てさらに驚く。


「何かあったの?」


「姉さんの部屋を見せて」


 母の顔が固まった。


「エレノアの?」


「ええ」


「どうして急に」


「調べたいことがあるの」


「何を?」


「昔の手紙」


 母の指先がわずかに動いた。


 私はそれを見逃さなかった。


「お母様」


「何?」


「姉さんに、好きな人がいたことを知っていた?」


 母は答えなかった。


 それだけで十分だった。


「知っていたのね」


「誰から聞いたの」


「それは今関係ない」


 思わずアルベルトを真似たような言い方になった。


「相手は誰?」


「知らないわ」


「本当に?」


「ええ」


「姉さんから聞いた?」


 母はゆっくり椅子に座った。


「……少しだけ」


「どうして私には何も」


「あなたは十二歳だったのよ」


 また十二歳。


 何も知らなくていい年齢。


 何も教えてもらえない年齢。


「姉さんは何と言っていたの」


「好きな人がいるとは言わなかった」


「では?」


「結婚したい人がいる、と」


 私はアルベルトを見る。


 彼も初耳らしい。


「誰なの」


「教えてくれなかった」


「どうして」


「私たちが反対すると分かっていたからでしょう」


「身分の低い人?」


「そうかもしれない」


「もしかして既婚者?」


「それはないと思う」


「外国人?」


「分からないわ」


「何も聞かなかったの?」


「聞いたわよ」


 母の声が少し強くなる。


「でもあの子は、昔から秘密を決めたら絶対に話さなかった」


 知っている。


 姉は穏やかだった。


 優しかった。


 けれど頑固でもあった。


 何か一つ決めたとき、父ですら姉を変えることはできなかった。


「姉さんの部屋を見せて」


 母はしばらく迷ったあと、頷いた。


          ◇


 姉の部屋は十年前のまま残されていた。


 白い机。


 青いカーテン。


 本棚。


 窓辺の小さな椅子。


 私は何度もここに入っている。


 でも今日だけは、知らない人の部屋に見えた。


「手紙を探す」


 私は机の引き出しを開けた。


 何もない。


 当然だ。


 これまでにも家族が遺品を整理している。


「本の間は?」


 アルベルトが言った。


「姉は本に手紙を挟んでいたんですか」


「何度か見た」


 私は本棚を見る。


 詩集。


 歴史書。


 植物図鑑。


 法学書。


「こんなものまで読んでいたのね」


 身分登録法の古い解説書がある。


「エレノアは法律を勉強していた」


「知りませんでした」


「俺も後から知った」


 私はページをめくった。


 紙が一枚落ちた。


 二人同時に動く。


 私のほうが早かった。


「手紙……?」


 古い封筒だった。


 宛名はない。


 封蝋も剥がされている。


 中には一枚の便箋。


 姉の字だった。


《あなたへ》


 それだけで始まっている。


 私は読み進めた。


《今日も名前を書けませんでした。》


《名前を書けば、あなたを失う気がするからです。》


《私たちのことを誰かに知られれば、あなたはすべてを失うでしょう。》


《だから、もう会わないほうがいいのだと思います。》


《でも私は、あなたと一緒に生きたい。》


 そこで文章が途切れていた。


 下半分が破られている。


「続きがない」


 私は紙を裏返した。


 何もない。


「下が破られている」


「誰が?」


「分からない」


 私は封筒を見る。


 何か入っている。


 小さな紙片。


 破られた手紙の一部かと思った。


 違った。


 古い写真だった。


 姉が写っている。


 十六歳くらい。


 知らない庭園。


 そして隣に、もう一人いる。


 顔の部分だけが切り取られていた。


「……これ」


 私の背中が冷える。


 姉はその人物の腕に手を添えている。


 親しい。


 少なくとも、ただの知人には見えない。


 写真の裏には、姉の字。


《この人を選ぶ。》


「アルベルト様」


「ああ」


「これが姉の好きだった人?」


「たぶんな」


「誰です」


「分からない」


「服装から分かりませんか」


 残っているのは肩から下だけ。


 濃い色の上着。


 装飾は少ない。


 身分は判断できない。


 ただ。


「この指輪」


 私は写真へ顔を近づけた。


 右手。


 人差し指に指輪がある。


 小さな印章付き。


「見覚えがありますか」


「ない」


「私は……」


 どこかで見たことがある。


 最近ではない。


 もっと昔。


 子どもの頃。


 でも思い出せない。


 私は写真を机に置いた。


「姉さんはこの人と結婚したかった」


「そうだろうな」


「だからあなたとの婚約を解消したかった」


「ああ」


「では」


 私は姉の離婚届を見る。


「なぜ十年後に、あなたと離婚する必要があるの」


 答えは出ない。


 私は部屋を見回した。


 まだ何かある。


 そう思った。


 姉は秘密を残している。


 私たちに見つからないように。


 でも、いつか誰かに見つけてもらうために。


 本棚をもう一度調べる。


 一冊だけ、背表紙の色が違うノートがあった。


 取り出す。


 日記。


 姉の日記だった。


 最初のページ。


 十五歳。


 学校のこと。


 母のこと。


 私のこと。


《リディアがまた私の髪飾りを勝手に使った。》


 思わず口元が緩む。


 覚えている。


 怒られた。


 次のページ。


 次。


 次。


 十六歳。


 そこから文章が変わっていく。


《今日、あの人に会った。》


《名前は書かない。》


《書いてはいけない。》


 次のページ。


《会わないと決めたのに、また会った。》


 次。


《アルベルトに婚約解消を頼んだ。》


 次。


《お父様にはまだ言えない。》


 次。


 私は手を止めた。


「どうした」


「ここ」


 日記の日付。


 事故の一か月前。


《あの人と逃げることにした。》


 さらに次のページ。


《でも、リディアを置いてはいけない。》


 心臓が強く鳴った。


「私?」


 その次。


《私がいなくなれば、次はリディアが選ばれる。》


 私は息を止める。


 文字を指でなぞる。


 間違いない。


 姉の字。


 事故の三週間前。


《だから、私だけ逃げるわけにはいかない。》


 次のページ。


 破られている。


 さらに次も。


 何枚も。


「誰かが破った」


 アルベルトが言った。


「姉さん本人かもしれません」


 ページをめくる。


 再び文章が現れた。


 事故の五日前。


《方法を見つけた。》


 それだけ。


 次。


《もし成功すれば、リディアは選ばれない。》


 次のページ。


 事故の前日。


 一行だけだった。


《私が死ねば、次はリディアが選ばれる。》


 部屋の空気が止まった気がした。


 私はその文章を何度も読む。


「選ばれるって」


 声が震える。


「何に?」


 アルベルトは答えない。


「あなたとの結婚?」


「そう読める」


「でも姉さんが死んだのは十年前です」


「ああ」


「私は十二歳」


「そうだ」


「十年後に私があなたと結婚すると、姉は知っていた?」


 そんなはずはない。


 未来が見えるわけではない。


 姉に予知能力があったという話など聞いたこともない。


 なら。


 未来を知っていたのではなく、


 未来がそうなる仕組みを知っていた。


 私は日記を閉じた。


「アルベルト様」


「何だ」


「私たちの結婚は、本当に十年前には決まっていなかったんですよね」


 アルベルトの顔から表情が消えた。


 私はその変化を見た。


「答えてください」


「決まっていない」


「では、なぜ姉は」


「分からない」


「本当に?」


「ああ」


 私はしばらく彼を見つめた。


 嘘を見抜けるほど、まだこの人を知らない。


 昨日結婚したばかりなのだから当然だ。


 そのとき。


 日記の表紙裏に何か書かれているのに気づいた。


 小さな文字。


 薄くて、今まで見落としていた。


《リディアへ。》


 私の名前。


 その下に、もう一行。


《もしあなたがアルベルトと結婚する日が来たら、私の机の底を見て。》


 私は反射的に机へ向かった。


 引き出しを全部抜く。


 底板に指をかける。


「待て」


 アルベルトが言った。


「なぜ」


「何があるか分からない」


「だから見るんです」


 板を持ち上げる。


 隠し箱があった。


 中には一枚の封筒。


 十年間、誰にも見つからずに残っていた。


 表には、


《リディアへ》


 と書かれている。


 私は封を切った。


 中には短い手紙。


《あなたがこれを読んでいるなら、私は失敗した。》


 指が震えた。


《そしてあなたは、私の代わりにアルベルトと結婚した。》


 息ができない。


 最後の一文。


《お願い。私が死んだ理由ではなく、私が何からあなたを逃がそうとしたのかを調べて。》


 私は手紙を持ったまま、アルベルトを見る。


 姉は十年前から知っていた。


 自分がいなくなれば、


 私が選ばれることを。


 アルベルトの妻として。


 いや。


 もしかすると。


 選ばれるという言葉は、


 結婚そのものを指していないのかもしれない。


 私は初めて思った。


 姉の事故も。


 姉の婚約も。


 私たちの結婚も。


 全部、同じ一つの何かにつながっているのではないか。


 そして姉は。


 死ぬ前から、


 その仕組みを壊そうとしていたのではないか。


 私を守るために。

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