第2章 姉は、十年前に死んでいない
姉の死亡診断書には、三月十四日と書かれていた。
埋葬記録には、三月十五日。
教会の死亡記録には、三月十六日。
「……三日ある」
私は三枚の書類を机の上に並べた。
王立身分登録院、地下第三記録室。
古い紙と乾いたインクの匂いが充満する部屋で、私は十年前の記録を一つずつ照合していた。
アルベルトは向かいに座っている。
本来なら、公爵であろうと立ち入り禁止だ。
けれど今日は例外だった。
正確には、私が例外にした。
姉エレノアの離婚届に彼の名前がある以上、無関係とは言えない。
「死亡した日と埋葬した日が違うのは普通じゃないのか」
「一日程度なら」
私は死亡診断書を持ち上げた。
「でも教会の死亡記録が、さらに一日遅い」
「記入ミスでは?」
「一枚だけなら、そう考えます」
私は別の紙を取り出した。
「でも、これも違います」
事故報告書。
王都北西の街道で、フィーネス伯爵家の馬車が崖から転落。
乗員三名。
御者一名死亡。
護衛一名重傷。
そして。
《令嬢一名、現場にて死亡確認》
日時。
三月十三日、午後八時十五分。
私は指で順番を追った。
「事故報告は十三日。死亡診断書は十四日。埋葬記録は十五日。教会記録は十六日」
「一日ずつずれている」
「ええ」
「理由は?」
「分かりません」
だから気持ちが悪い。
記録というものは、間違う。
人が書くからだ。
けれど間違いにも癖がある。
名前の綴りを一字間違える。
日付を一日ずらす。
年号を前年のまま書く。
そうした単純な誤記なら、私は毎日のように見ている。
しかしこれは違う。
四枚の書類が、
きれいに一日ずつずれている。
まるで誰かが、意図的に姉の死を少しずつ先へ送っているみたいだった。
「事故の現場で死んだのなら」
私は言う。
「死亡診断書も十三日になるはずです」
「医師が翌日に確認した可能性は」
「あります。でもそうなら、事故報告書には『死亡推定』と書くのが普通です。『死亡確認』とは書きません」
「埋葬は?」
「十五日でも不自然ではありません。でも教会の死亡記録が十六日なのは変です。教会は埋葬の前に死亡を確認します」
アルベルトは黙った。
私は三枚を重ねた。
「つまり誰かが、どこかで嘘をついています」
「誰が」
「それを調べます」
私は立ち上がった。
「どこへ行く」
「墓地です」
◇
フィーネス家の墓地は、王都から馬車で一時間ほどの丘にある。
子どもの頃、私はここが嫌いだった。
墓石が怖かったわけではない。
姉の墓だけが、あまりにもきれいだったからだ。
白い石。
銀色の文字。
春になると、墓の周りだけに青い花が咲く。
母は毎年、姉の命日にここへ来た。
そして必ず言った。
『エレノアは十七歳のままなのね』
私はその言葉が嫌いだった。
私は歳を取る。
姉だけが取らない。
十七歳だった姉を、私は十八で追い越した。
二十で二度と追いつけなくなった。
二十二になった今、姉はもう私より五歳も年下だ。
「昔と変わらないな」
アルベルトが言った。
「来たことがあるんですか」
「葬儀以来は、二度ほど」
知らなかった。
「母に呼ばれて?」
「いや」
「では、なぜ」
「墓参りだ」
当たり前のように言われて、胸の奥が少し冷えた。
やはり彼は姉を愛していたのだろうか。
そう思った瞬間、昨日の夜の言葉が戻ってくる。
『君にエレノアの代わりを求めるつもりはない』
あれは優しさだったのか。
それとも線引きだったのか。
私にはまだ分からない。
墓地の管理をしている修道士は、七十を越えた小柄な男だった。
「エレノア・フィーネス様ですか」
彼は目を細める。
「覚えておりますよ。お若い方でしたから」
「埋葬に立ち会いましたか」
「ええ」
「棺の中も?」
修道士が首を傾げた。
「中?」
「遺体を確認しましたか」
「……いいえ」
私は息を止めた。
「なぜです」
「棺は閉じられておりました」
「最初から?」
「はい」
「誰かが中を確認したのを見ましたか」
「さて……」
修道士は記憶を探るように、遠くを見る。
「事故で、お顔がひどく傷ついていたと伺いました。ですからご遺族の意向で、棺は開けないことになったと」
「遺族の意向」
「フィーネス伯爵様が、そう仰ったはずです」
父だ。
「母ではなく?」
「お父上だったと思います」
「棺を運んできたのは?」
「伯爵家の方々です」
「教会で遺体の確認は?」
「ありませんでした」
「埋葬許可証は?」
「ありました」
「誰が持ってきたんです」
「それは……」
修道士が首を振る。
「十年前ですから」
当然だ。
私はそれ以上責める気にはなれなかった。
ただ、一つだけ確かになった。
「つまり」
私は墓石を見つめた。
「この墓の中に姉がいることを確認した人はいない」
「少なくとも、私は存じません」
風が吹いた。
青い花が一斉に揺れた。
私は初めて、目の前の墓が空洞に見えた。
「掘り返すか」
後ろでアルベルトが言った。
振り向く。
「簡単に言わないでください」
「簡単には言っていない」
「公爵だからといって、墓を勝手に開けられません」
「なら許可を取る」
「そんなことをしたら、両家に知れます」
「いずれ知れる」
「まだ何も分かっていません」
「だから調べるんだろう」
正論だった。
腹が立つほどに。
「今はまだ早いです」
「分かった」
アルベルトは反論しなかった。
その態度が、かえって気になった。
「あなたは」
私は尋ねた。
「姉が生きていると思いますか」
「分からない」
「もし生きていたら?」
彼は私を見る。
「どうするんです」
少しの沈黙。
「会って話す」
それだけだった。
胸が痛んだ。
自分でも理由が分からない。
昨日結婚したばかりの夫が、十年前の婚約者に会いたいと言った。
それだけのことなのに。
私は姉の墓石へ視線を戻した。
「帰りましょう」
◇
王都へ戻る途中、私は馬車を止めさせた。
「ここで降ります」
「屋敷ではないぞ」
「分かっています」
目の前にあるのは、古い教会だった。
姉の葬儀を行った場所。
十年前に来たきりだった。
「まだ調べるのか」
「今日中に」
「休め」
「無理です」
「昨日結婚したばかりなんだぞ」
「その昨日、死んだ姉から離婚届が届いたんです」
「……そうだったな」
アルベルトも馬車を降りた。
教会の司祭は代替わりしていた。
現在の司祭は姉のことを知らなかったが、古い記録庫へ案内してくれた。
そこで私は、もう一つおかしなものを見つけた。
「これ」
教会の死亡者台帳。
エレノア・フィーネス。
三月十六日死亡。
先ほど確認した通りだ。
しかし余白に、小さな記号がある。
二重線で囲まれた丸。
「この印は何ですか」
司祭の顔色が変わった。
「どちらに?」
「ここです」
「ああ……」
彼は眼鏡を直した。
「古い記号ですね」
「意味は?」
「記録保留です」
「保留?」
「死亡が確定していない場合に使われます」
私はページを見つめた。
「でも死亡者台帳に載っています」
「後に確定したのでしょう」
「確定した記録はどこに?」
司祭が別の帳簿を探す。
一冊。
二冊。
三冊。
やがて困ったように首を傾げた。
「ありませんね」
「ありません?」
「通常なら、保留解除の記録が残るはずです」
「それがない」
「はい」
まただ。
原本がない。
確定記録がない。
なのに、姉は死んだことになっている。
「他に保留記号のついた記録は?」
「ございます」
司祭が別の例を示す。
行方不明者。
戦場で遺体が見つからなかった兵士。
川に流され、遺体の確認ができなかった者。
どれも共通している。
遺体が確認できない死。
私はもう一度、姉の記録を見た。
「事故で遺体はあったはずです」
「そう記録されていますね」
「なのに保留?」
「当時の司祭が何か疑問を持ったのかもしれません」
「当時の司祭は?」
「亡くなっております」
十年は長い。
知っている人間が少しずついなくなるには十分な時間だ。
私は帳簿を閉じた。
すると一枚の紙が床に落ちた。
「何でしょう」
拾う。
古い祈祷票だった。
故人のために祈りを捧げた記録。
名前。
エレノア・フィーネス。
日付。
三月十八日。
死亡記録より二日後。
そこまではおかしくない。
しかし祈祷者の欄を見て、私は手を止めた。
「アルベルト様」
「どうした」
「これ」
彼に渡す。
祈祷を依頼した者の名前。
アルベルト・レイン。
「あなた、ここへ来ていますね」
「葬儀のあとだ」
「覚えているんですか」
「もちろんだ」
「では聞きます」
私は彼を見る。
「あなたはなぜ、姉の遺体を確認しなかったんです」
アルベルトの表情が変わった。
ほんのわずか。
「昨日も聞きました」
「答えただろう。見ていない」
「理由を聞いています」
沈黙。
「婚約者だったんですよね」
「ああ」
「死んだと聞かされて、棺が閉じられていて、それでも確認しようと思わなかった?」
「思った」
「ではなぜ」
「止められた」
「誰に」
アルベルトは答えなかった。
その沈黙で、分かった。
「父ですね」
「……そうだ」
「父が、あなたにも見せなかった」
「ああ」
「なぜです」
「遺体の損傷が激しいからと」
「あなたは納得したんですか」
「していない」
「それなのに?」
「俺は十八だった」
アルベルトの声が低くなる。
「婚約者とはいえ、まだ正式な家族ではない。フィーネス伯爵に拒否されれば、棺を開ける権利はなかった」
私は言葉を失った。
今のアルベルトしか知らない私には、想像しづらかった。
公爵として命令する彼ではなく。
十八歳の少年だった彼。
姉が死んだと言われ、閉じられた棺の前に立っていた。
「でも」
アルベルトが続けた。
「一つだけ妙なことがあった」
「何です」
「エレノアが死んだと聞いたのは、事故から三日後だった」
私は息を呑んだ。
「三日?」
「ああ」
「事故は十三日です」
「俺に知らせが届いたのは十六日」
教会の死亡記録と同じ日。
「どうして三日も」
「分からない」
「婚約者なのに?」
「当時も不自然だと思った」
「なぜ調べなかったんです」
「調べた」
アルベルトは即答した。
私は彼を見る。
「何が分かったんです」
「何も」
「そんなはず――」
「事故現場に行った。御者の家族にも会った。護衛にも会おうとした」
「護衛は生きていた?」
「ああ」
「何と言っていました」
「会えなかった」
「なぜ」
アルベルトの目が鋭くなる。
「事故から四日後、行方不明になった」
部屋の空気が変わった。
「重傷だったんですよね」
「そう聞いている」
「病院から消えた?」
「そうだ」
「その後は?」
「見つかっていない」
私は思わず机へ手をついた。
御者は死亡。
護衛は失踪。
姉の遺体は未確認。
死亡届の原本は消失。
教会の記録は保留のまま。
そして十年後。
本人署名の離婚届。
偶然で片づけるには、多すぎる。
「アルベルト様」
「何だ」
「昨日、私が姉は生きているかもしれないと言ったら、あなたは否定しませんでしたね」
「ああ」
「もしかして」
私は彼の顔を見る。
「あなたは昔から疑っていたんですか」
長い沈黙が落ちた。
外では夕刻の鐘が鳴り始めている。
一つ。
二つ。
三つ。
アルベルトは窓の外を見たまま答えた。
「十年前から、完全には信じていなかった」
「姉の死を?」
「ああ」
「なのに、どうして私に言わなかったんです」
「言って何になる」
「何になるって――」
「証拠がなかった」
「でも私は家族です」
「だからだ」
私は意味が分からなかった。
アルベルトが私を見る。
「十二歳の君に、姉が死んでいないかもしれない、と言えたと思うか」
言葉が止まった。
十二歳の私。
毎晩泣いていた。
姉の部屋へ入り、枕を抱えて眠った。
母に、
『エレノアは天国にいるのよ』
と言われ、それを信じようとしていた。
「……今は十二歳じゃありません」
「分かっている」
「なら、もう隠さないでください」
「隠してはいない」
「本当に?」
アルベルトの眉がわずかに動いた。
私はその反応を見逃さなかった。
「何か知っていますね」
「知らない」
「今、一瞬迷いました」
「癖だ」
「嘘をつくときの?」
「君は夫を疑いすぎだ」
「結婚翌朝に死んだ姉から離婚届が届けば、誰でも疑います」
アルベルトは小さく息を吐いた。
そして言った。
「一つだけ、話していないことがある」
私は黙って続きを待つ。
「葬儀の三日前」
「事故の日ですか」
「いや」
アルベルトは首を振った。
「事故の翌日だ」
死亡診断書の日。
「エレノアから手紙が届いた」
心臓が跳ねた。
「姉から?」
「ああ」
「事故の翌日に?」
「そうだ」
「いつ書かれたものです」
「日付はなかった」
「内容は?」
アルベルトは少し迷ってから言った。
「一行だけだった」
「何と?」
彼は私を見る。
「――私が死んだと聞いても、信じないで」
鐘の音が止まった。
私は何も言えなかった。
事故の翌日。
姉はアルベルトに手紙を送った。
私が死んだと聞いても、信じないで。
その二日後。
姉の死亡が公にされた。
そして十年間。
誰も姉を見ていない。
私は机の上の死亡記録を見る。
三月十三日。
三月十四日。
三月十五日。
三月十六日。
姉は一日に一度ずつ、記録の中で死んでいった。
まるで、本当に死ぬまでの時間を稼ぐように。
あるいは。
死んだことにする準備を整えるように。
「アルベルト様」
「何だ」
「私は今日まで」
自分の声が震えているのが分かった。
「姉が死んだ理由を調べようと思ったことがありませんでした」
馬車事故。
そう言われたから。
悲しいけれど、仕方のない事故だったのだと思っていた。
「でも、もう違います」
私は死亡者台帳を閉じた。
「姉が死んだ理由ではなく」
顔を上げる。
「姉が本当に死んだのかを調べます」
アルベルトは何も言わなかった。
その沈黙を、私は同意だと受け取った。
この時の私はまだ知らなかった。
姉の死を疑うことが、
姉が生きている可能性を探すことではなく。
私が知っていた姉という人間そのものを、少しずつ壊していくことになるとは。




