第5話 服務路には、よく本音が落ちています
礼法講堂の翌朝、リネットは寝台の脇に挟まっていた薄茶の札を見つけた。
硬い紙に、黒い術墨で短く書いてある。
共同服務。
六層西服務路補助。
嫌な予感しかしない札だった。
「共同服務って、何ですか」
窓際で白手袋を整えていたアリスルールが、やわらかく尋ねる。
「たぶん」
リネットは札を裏返した。
裏にも逃げ道はなかった。
「巨塔を動かしている人たちの邪魔をしない方法を、体で覚える授業です」
「よいですね」
なぜそんなに嬉しそうなのか。
「よくないです。こういうの、だいたい重いか汚いか怒られるかのどれかですから」
「全部かもしれません」
「もっとよくないです」
だが、逃げられないものは逃げられない。
朝食を急いで済ませ、二人は学生証と服務札を持って六層へ降りた。講義環へ向かう階段ではなく、荷籠優先と朱で書かれた狭い補助回廊を通る。そこへ入った瞬間、風の匂いが変わった。
上の環は石と紙と人の匂いがする。
下の服務路は、もっと多かった。
焼けたパン。
湿った麻袋。
石鹸。
油。
乾いた薬草。
ぬるい湯気。
磨き粉。
そして、人が朝から働いている匂い。
六層西服務路は、講義環や礼法講堂とは別の塔だった。
天井は低い。
廊下は広いのに、ずっと何かが通っているせいで狭く感じる。荷車、浮遊棚、洗濯籠、食料箱、炭桶、巻かれた布束、磨かれた銀器の箱。行き交うのは学生だけではない。灰色の作業着を着た常勤係、補佐生、外地寄宿舎の上級生らしい者、言葉の違う作業員たち。誰も立ち止まらない。立ち止まる場所ではないのだ。
それでも流れは不思議なくらい整っていた。
中央を重荷が通り、左右の細い線を補助人員が歩く。扉は半拍早く開き、荷札の色で進路が変わり、鐘の色ひとつで十人の足が揃う。
リネットは思わず見入った。
橋の町で育ったから、こういうものには弱い。
美しい魔術陣より、人と物が詰まらず動く導線のほうに胸が鳴る。
「すごい……」
漏らした声は、半分は感嘆だった。
半分は圧倒だった。
アリスルールも目を細めている。
「ほんとうに血の流れみたいです」
「言い方はちょっと怖いですけど、わかります」
服務受付は、回廊の分岐が五つ重なった場所にあった。
壁一面の荷札棚。巨大な時刻板。担当班を書いた札群。机の奥に立つ補佐生たちは、書類を見ているのか流れを見ているのかわからない速さで手を動かしている。
その中央にいたのは、セシルだった。
昨日と同じ紺の補佐服だが、今日はそれがよく似合っている。講義環にいた時より顔色が少しましで、代わりに目だけは忙しそうだった。眠そうなのに、最初から十個くらいの仕事を同時に見ている顔だ。
「あ、来ましたね」
こちらを見るなり、セシルは一枚の札を引き抜いた。
「共同服務初年班、臨時三名補充。リネット、アリスルール」
そこでもう一人の名を呼ぶ。
「サフィヤ」
棚の向こうから、すぐに返事があった。
「はい」
声は低く、落ち着いていた。
出てきた少女を見て、リネットは一瞬だけ姿勢を直した。
年は自分と同じか、少し上くらいだろう。講服は同じ初年用なのに、どこか着方が違う。袖口と裾の傷みを丁寧に直していて、学生らしい新しさより、使うための整い方が勝っていた。黒に近い濃茶の髪をひとつにまとめ、褐色の頬には睡眠不足みたいな影がある。目は静かだ。静かすぎて、最初は何も考えていないようにさえ見える。
だが近づくと違う。
考えていないのではない。考えすぎて、外へこぼさない顔だった。
「サフィヤ・ナハルです」
彼女は必要なぶんだけ綺麗に礼をした。
「本日、ご一緒いたします。よろしくお願いいたします」
発音にわずかな外地訛りがある。
それがかえって耳に残った。
「リネット・ガーランドです」
「アリスルール・マクラクランです。よろしくお願いいたします」
アリスルールはいつも通り、まっすぐに返した。
その名乗りへ、サフィヤの睫毛がほんの少しだけ止まった気がした。
気のせいかもしれない程度だったが、リネットはなぜかそれを見逃せなかった。
セシルが札を三人へ配る。
「六層西服務路、午前は食料と触媒の振り分け補助。午後は返送札と破損札の整理です」
自分で言っておいて、彼女は無表情だった。
そして、サフィヤへ向く。
「導線はあなたが先導してください」
「承知しました」
「この二人、片方は綻びが見えすぎて勝手に触り、片方は放っておくと真面目に全部背負います。うまく扱ってください」
「なんですかその雑な紹介」
リネットが抗議すると、セシルはもう次の札へ目を落としている。
「正確ですよ」
だが服務路では、自意識より流れが優先らしい。セシルの机に次の荷札が積まれ、三人はそのまま西服務路へ押し出された。
サフィヤは案内の仕方まで無駄がなかった。
「中央は空けてください。黄札は左。青札は右。赤印は補佐か常勤以外、触らないこと」
歩きながら説明する。
早口ではないのに、迷う余地がない。
「服務路は下を向いて歩くと危険です。落とし物は多いですが、拾う前に踏まれない場所へ寄せてください」
「落とし物、多いんですね」
「よく落ちます」
サフィヤは前を見たまま答える。
「食札、荷札、覚書」
アリスルールが嬉しそうにそちらを見る。
「よいですね」
「よくはありません」
サフィヤの返しは早かった。
「落ちているということは、あとで誰かが困るということです」
「そうですね」
アリスルールは素直に頷く。
「でも、おもしろいです」
サフィヤはそこで初めて、少しだけアリスルールの顔を見た。
評価でも嫌悪でもなく、どの種類の人間かを測る視線だった。
「そんなだと、疲れますよ」
「きっと、そうですね」
その応答に何を思ったのか、サフィヤはそれ以上何も言わなかった。
最初の仕事場は、食品と雑貨の仮置き環だった。
広い。
とにかく広い。
塔の内側に、ひとつの市場を畳んで詰め込んだみたいな空間だった。パン籠、乾果箱、塩袋、瓶詰め、燻製肉、薬湯の原料、灯油、磨き布、石鹸束、紙束、羽ペン箱。荷札には、それぞれ別の地名や印がある。北辺、東属、南湿州、西外洋、王領中州。
巨塔の中で暮らすというのは、世界の端々を毎日食べて、使って、擦り減らすということなのかもしれないと、リネットは初めて知った。
しかも、その流れは上へ上がるほど細く美しく整えられるのだろう。
下では、世界はまだ箱のままだった。
「こっちをお願いします」
サフィヤが示したのは、肩まである木箱だった。
側面へ、青い海風印と細かな契約字が並んでいる。
「海塩です。八層食料環へ」
リネットは箱の片側を持ち上げ、思わず顔をしかめた。
「重い……」
「塩ですから」
サフィヤは当然みたいに反対側を持つ。
それだけならまだよかった。
その隣でアリスルールが箱の印を熱心に見ているのが、少しだけ不安だった。
「ナハル」
白手袋の指が、印字の上へ止まる。
「サフィヤさんのお名前と同じですね」
「群島名です」
サフィヤの声は平板だった。
「わたしの家だけではありません」
それ以上は要らない、という切り方だった。
けれどアリスルールは追わない。
追わずに、ただ箱を見ている。
「遠くから来たのですね」
「ええ」
「たいへんそうです」
「運ぶのが仕事ですから」
また、その言い方だった。
仕事内容の話をしているのに、少しだけ別のものまで含んでいる声。
箱を運び始めると、服務路の歩き方がすぐに変わった。
荷重を持つと視野が狭くなる。進路を譲る位置、身体をひねる角度、足を止める場所、その全部が少しずつ難しくなる。講義環では親切そうに見えた幅のある回廊が、荷物を持つと急に足りなくなる。
サフィヤは、一度も人とぶつからなかった。
角を曲がる前に半拍早く声を出し、荷札を見せる位置も正確で、相手の忙しさまで読んで動いているようだった。
その有能さは見ていて気持ちいい。
同時に、少しつらい。
あまりにも慣れているからだ。
八層食料環へ箱を届けると、受領係の男が札を見て、最初にリネットではなくサフィヤを見た。
「ああ、外地の」
呼び方ですらなかった。
「今回はこっちが足りてない。ついでに裏の乾果も数えて持ってきてくれ」
サフィヤはすぐに頷いた。
「承知しました」
リネットは目を瞬いた。
「え、でも札には海塩だけって――」
「同じ班だろ」
男はもう別の書類を見ている。
返事ですらなかった。
リネットは箱を置いたまま固まった。
雑だ。
そして、雑さの向きが妙に決まっている。
アリスルールは男の横顔を見ていた。
ただ、見ている。
サフィヤはその視線に気づいて、静かに言った。
「構いません。こういうものです」
その言い方が、いちばん構ってはいけない気がした。
乾果庫では、北辺産の干し果、東属の砂糖漬け、西外洋の柑橘皮がごちゃごちゃに積まれていた。札の字も違う。臭いも色も違う。上の食堂でひと皿の飾りになる前の、むき出しの世界だった。
リネットはそこでまた少し見とれた。
違う土地の違うものが、ひとつの塔へ集められている。
学問だけでなく、こういう流れがあるからこそ、巨塔は世界の中心なのだ。
だが、感心だけでは済まなかった。
庫の隅では、若い外地寄宿舎の学生たちが、立ったまま急いで薄い粥を飲んでいた。制服は同じ初年用なのに、袖へ付いた作業札が二枚多い。こちらを見る目は鋭くない。鋭くないのが、かえって疲れていた。
その横を、上層の補佐生らしい男が通りすぎる。
「午後までに紙束も回しとけよ」
命令は空中へ投げられ、誰へ向けたかも曖昧なまま、ちゃんとその場へ落ちた。
飲みかけの粥椀を置いた一人が、何も言わずに立ち上がる。
サフィヤはそれを見ても、何も言わなかった。
言わずに、乾果の数を数え、札を書き替え、荷車へ積み直す。
その横顔の無駄のなさが、リネットにはひどく遠く見えた。
「わたし、こういうの、知らなかったです」
思わず漏らすと、サフィヤは手を止めずに答えた。
「そうでしょうね」
責めるでもない。
慰めるでもない。
ただ事実だった。
「上の環からは、見えにくいので」
その一言だけで充分だった。
服務路の仕事は、ひとつが終わるとすぐ次が来た。
食料環から洗浄環へ石鹸束を運び、洗浄環から灯油瓶を受け取り、灯油瓶の札を間違えた初年班の後始末をし、折れた羽ペン箱を紙室へ返し、薬草束を仕分ける。働いている感覚というより、流れへ組み込まれている感覚だった。
その途中で、床へ落ちたものを何度も見た。
破れた荷札。
食札の切れ端。
急ぎ書きの覚書。
誰かが噛んで捨てた硬いパンの耳。
泣き言みたいに乱れた筆跡の請求書。
人は、忙しいといろいろ落とす。
服務路はそれを拾いながら動いている。
昼前、ようやく一息つけるかと思ったところで、小さな騒ぎが起きた。
西外洋便の触媒箱が一つ、点検環の手前で止められている。蓋は閉じているのに、札色だけが不自然に黄へ落ちていた。
「申告外の気化反応」
点検係が眉をしかめる。
「誰の班だ」
「こちらです」
サフィヤが前へ出た。
箱は細長く、側面へ海印と契約字が並んでいる。外洋便らしい箱だ。だが荷札の上から、別の札が重ね貼りされていた。しかも、重ね方が妙だ。急いで隠した時の角度をしている。
「これ、上で積み替えたやつだろ」
点検係が吐き捨てる。
「誰だよ、気化触媒を雑貨扱いで流したの」
近くにいた若い補助員が、困ったようにサフィヤを見る。
「読めるなら、中身確認して」
またそれだった。
読めるなら。
リネットの胸の奥が、少し熱くなる。
サフィヤはもう、箱の印へ手を伸ばしていた。
「契約字は読めますが、確認は点検権限が必要です」
声色ひとつ変わらない。
「それが規則です」
点検係が舌打ちする。
だが正論だったらしい。少しだけ顔を歪めて、自分で封を切ろうとする。
その時、アリスルールが小さく言った。
「その方ではありません」
全員がそちらを見た。
彼女は箱ではなく、重ね貼りされた札のほうを見ている。
「隠したかった方は、もう少し丁寧なお顔です」
「……は?」
点検係が眉をひそめる。
リネットも意味がわからなかった。
けれどアリスルールは続ける。
「この札、上から急いで貼っていますけれど、端だけ綺麗に揃っています。自分の書類を雑に扱わない方です。あと、雑貨札のほうは手が震えていません。慣れている方です」
言いながら、周囲を見渡す。
視線が、少し離れた場所で様子をうかがっている若い学生へ止まった。
青でも灰でもない、白銀の縁取りが入った札帯。推薦組か、家格持ちか。
「あの方です」
あまりにも静かな断定だった。
名指しされた学生が、はっと顔をこわばらせる。
「な、何の話だ」
「ご自分で貼られたのでしょう?」
アリスルールは、責めるより先に感心しているみたいな顔をしていた。
「元の札を剥がさずに上から隠して、点検を抜けたかったんですね」
学生の視線が泳ぐ。
そこでもう、答えは出ていた。
点検係が怒鳴る。
「おい」
その一声で、相手は崩れた。
「……だって、研究室への納期が」
言い訳は最後まで続かなかった。
続ける前に、顔へ先に出たからだ。
点検係は大きく息を吐き、札を剥がし直した。
「没収。再申請。服務路へ勝手に危ないもん押しつけんな」
若い学生は青い顔で連れていかれた。
残ったのは、気まずい沈黙と、まだ少しだけ匂う気化触媒の甘い匂い。
リネットはそこで、妙な違和感に気づいた。
怒られたのは彼だ。
だが最初に疑われかけたのは、サフィヤだった。
たまたまなのかもしれない。
けれど、たまたまが同じ向きへ続くと、もう偶然とは呼びにくい。
「助かりました」
点検係はそう言ったが、礼はアリスルールに向けられた。
サフィヤには向かなかった。
サフィヤはその違いに、気づいていないはずがない。
なのに、何も顔へ出さない。
ただ箱の札を整え、再封の順序を点検係へ静かに伝える。
「こちらの気化反応は弱いです。換気を半段上げれば、本日中の再分類で間に合います」
「……そうか」
「はい」
完璧な補助だった。
完璧すぎて、リネットは少しだけ嫌になった。
嫌なのはサフィヤではない。
この完璧さを、周囲が当然みたいに受け取る感じが嫌だった。
仕事の合間、三人はようやく短い休憩を与えられた。
休憩といっても、服務路脇の狭い壁際で、ぬるくなった水を飲むだけだ。
上の食堂みたいな眩しさはない。代わりに、ここでは誰も取り繕わない。
壁にもたれた補助員が、息を吐きながら呟く。
「上は今日も香料多いな」
「夜会でもあんのかね」
「ないなら講師会。あるだろ、どうせ」
別のところでは、若い作業員が小声で悪態をついていた。
「また急ぎだとよ」
「急ぎじゃない日があるかよ」
声は荒い。
でも、誰もそれを咎めない。
服務路では、その程度の荒れ方は空気に紛れるらしい。
アリスルールが、水筒を持ったままぽつりと言った。
「服務路には、よく本音が落ちていますね」
サフィヤの手が、ほんの少しだけ止まった。
「そうですね」
返事は短い。
「拾わないと、詰まります」
アリスルールは嬉しそうに頷いた。
「人も、導線も、同じなのですね」
「違います」
今度はサフィヤの声が少しだけ硬かった。
「導線は、整えれば流れます。でも人は、整えられすぎると、流れるしかなくなります」
言ったあとで、彼女は自分の言葉が少し出すぎたと気づいたらしい。
すぐに目を伏せ、水筒の口を閉じる。
「……失礼しました」
「いえ」
アリスルールは、やはり真面目に答えた。
「とても、きれいなお話でした」
きれいなお話。
そんなふうに受け取るのか、とリネットは思う。
だがサフィヤは笑わない。
笑わないまま、はじめて少しだけ苦い顔をした。
「マクラクランさん」
「はい」
「わたしは、きれいに言いたかったわけではありません」
「はい」
「それでも、きれいに聞こえたなら」
サフィヤは一度、服務路の流れの向こうを見た。
荷車。札。湯気。灰色の作業着。積まれた海塩箱。世界じゅうから来たものが、世界の中心で名前を変えられていく場所。
「すこしだけ、うれしいかもしれません」
その言い方は、自嘲にも諦めにも寄り切っていなかった。
ただ、なにか希望のようなものがほのかにただようのを感じた。
リネットは何も言えなかった。
午後の破損札整理は、午前より地味で、だからこそ余計に重かった。
破れた札に理由を書く。
水濡れ。
誤配。
気化。
損傷。
返送。
一枚ごとに、失敗や無理や誤魔化しが挟まっている。しかも多くは、誰か一人の悪意で起きたのではない。急ぎすぎた手、足りない人、無茶な指示、見なかったことにした上の判断。そういうものが、最後に札へ落ちてくる。
リネットは書いていて、だんだん息苦しくなった。
巨塔は美しい。
美しいまま動いている。
だがその美しさは、こんなにも大量の失敗や疲れを、下で拾い続ける人がいて初めて成り立っている。
それは悪夢みたいな真実ではない。
もっと現実的で、だからこそ嫌だった。
作業が終わる頃には、肩も指も重かった。
アリスルールでさえ、さすがに少しだけ静かになっている。
いや、静かというより、考え込んでいる顔だった。
帰り際、サフィヤは札束をまとめ、最後に三人分の返却印を押した。
「これで本日は終わりです」
口調は相変わらず整っている。
だが最初より少しだけ、こちらを人として見ている響きがあった。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした……」
リネットは本気でそう返した。
疲れた。
体だけでなく、目が疲れた。
アリスルールはサフィヤを見ていた。
「サフィヤさん」
「はい」
「本日は、ありがとうございました」
サフィヤは頷く。
「いえ」
「またご一緒できましたら、うれしいです」
普通なら社交辞令に聞こえる言葉だ。
けれどアリスルールが言うと、少しも軽くならない。
本当にそう思っているのが、そのまま出る。
サフィヤは数拍だけ黙った。
それから、ほんのわずかに目を細める。
「……服務路でなければ、もう少し楽しいかもしれません」
それがこの子なりの冗談なのだと気づくまで、リネットは少し時間がかかった。
アリスルールはすぐに頷いた。
「では、服務路でも楽しくなるように、がんばります」
「そこは、がんばらなくていいです」
返しが少し早かった。
だが今度は、たしかに少しだけ笑っていた。
六層から上へ戻る階段は、朝よりずっと長く感じた。
上層へ近づくにつれて、匂いが減る。
声が整う。
服が綺麗になる。
床の磨き方まで変わる。
巨塔は上へ行くほど上品になるのではない。
下で拾われたものが見えなくなるだけなのだと、リネットは思った。
講義環の白い壁が見えた時、ようやく胸の奥の緊張が少しだけほどける。
けれど、前と同じ気持ちでは見られなかった。
あの明るい食堂も。
高い講堂も。
静かな図書環も。
全部、服務路を通ってきたものの上へ立っている。
「巨塔って」
リネットは途中で言葉を切った。
「高いだけじゃ、なかったんですね」
アリスルールは少し考えてから、頷いた。
「はい」
「いろいろ、ありすぎます」
「はい」
「だから、よいのかもしれません」
その感想が、今は少しだけわかった。
わかりたくない気もしたけれど、もう見てしまった。
回廊の窓から、夕方の光が差していた。
遠くの上層では、どこかの環がきらきらと灯り始めている。綺麗だ。腹が立つくらい綺麗だった。
リネットはその光を見ながら思う。
この塔は、天へ伸びているのではない。
世界じゅうから集めたものと、見えないまま働く人たちの上へ、無理やり高く積み上がっている。
そして、そのことを自分はようやく少しだけ知ってしまった。
隣では、アリスルールがまだ何かを考えていた。
きっと、今日見た札や声や笑顔のことを、全部ひとつずつ思い返しているのだろう。
その横顔を見て、リネットは少しだけ寒くなる。
この侯爵令嬢は、服務路の汚さに怯えなかった。
哀れみもしなかった。
ただ、そこへ落ちているものを見て、また難しいものを見つけた顔をしていた。
たぶん、この子はここから先、人が何を運び、何を落とし、何を見ないふりしているかまで、見てしまう。
巨塔の美しさは、もう前みたいにひとつではなかった。
そしてリネットは、そのことが少し怖くて、少しだけ目が離せなかった。




