第4話 正しい礼は、誰のためのものですか
その日の午後、リネットの腕はまだわずかに笑っていた。
午前の対術剣基礎実技で、細い足場を掴み損ね、風圧に振られ、落ちる直前まで何度も力んだせいだ。食堂で匙を持つだけでも肩の奥がじんわり痛む。なのに午後一番の講義名は、よりによって礼法演習だった。
礼法は静かな授業だと思っていた。
少なくとも、落とされることはないはずだ。
そう思っていたのは、どうやら甘かったらしい。
十二層へ向かう回廊では、初年たちがすでに朝とは別の意味で顔色を悪くしていた。剣や杖ではなく、手引きの頁を開いたまま歩いている者が多い。追い越しざまに聞こえる会話も、午前のような恐怖ではなく、もっと乾いた不安に満ちていた。
「礼法って、何を見られるんだっけ」
「歩幅、目線、応答順、紹介順、席次、あと癖」
「癖まで見るの?」
「見るらしい」
聞いただけで疲れる。
リネットは隣を歩くアリスルールを見た。
彼女は午前の実技を終えてもなお、いつもとほとんど変わらない足取りで歩いている。さすがに髪の一房くらいは乱れているが、白手袋はもう整えられ、細剣も鞘へきちんと収まっていた。
「疲れていないんですか」
「少しだけ、うれしい疲れがございます」
「うれしい疲れ」
「はい。よく見えましたので」
やはり、この子は違う。
アリスルールは少しだけ首を傾げた。
「礼法演習も、きっとよく見えると思うのです」
「何がですか」
「きれいにしているものです」
それは本来、礼法の正しい感想なのかもしれない。
だがこの侯爵令嬢が言うと、ひどく別の意味へ聞こえる。
「お願いですから、教場ではあんまり怖い言い方しないでくださいね」
リネットが念を押すと、アリスルールは少しだけ考えてから頷いた。
「では、やさしく申し上げます」
「そういう問題でもないんですけど……」
十二層礼法講堂は、午前の対術剣環と同じくらい別種の戦場だった。
高い天井から、細い銀鐘が何十本も吊られている。床は白と黒の磨き石で幾何学模様に切り分けられ、その継ぎ目には薄い金線が走っていた。正面には段差の浅い半円階があり、上から見れば螺旋を半分だけ切り取ったような形をしている。壁際には姿見めいた黒鏡柱が等間隔に立ち、学生の姿勢を無言で返していた。
剣傷はない。
焦げ跡もない。
そのかわり、乱れだけがすぐに目立つ空間だった。
まだ講師は来ていないのに、講堂の中ではすでに目に見えない上下が出来上がっていた。入ってすぐに下の方へ集まる学生たち。何も言わず自然に上段側へ立つ数人。誰が命じたわけでもないのに、場が勝手に人を並べている。
その中心にいる少女を、リネットはすぐに見つけた。
淡い灰金の髪をひと筋も乱さず結い上げ、襟も袖も完璧に整った薄青の講服を着ている。美人だと思うより先に、完成されていると思った。立っているだけなのに、周囲の空気がその子へ向かって自然に整っていく。
話している声は高くない。
笑っても大きくは崩れない。
それなのに、近くの学生たちは皆、彼女の前では少しだけ姿勢がよくなっていた。
アリスルールもその少女を見ていた。
「きれいですね」
小さな声だった。
けれど、リネットにはどきりとする響きだった。
「知り合いですか」
「いいえ」
アリスルールは青い目を細める。
「でも、たぶん、よく見える方です」
まだ授業も始まっていないのに、もう獲物を見つけたみたいな言い方に聞こえる。
だが何か言うより先に、講堂の奥の扉が開いた。
入ってきたのは、背の高い女講師だった。
年齢は三十代半ばほどに見える。焦茶の髪を低い位置でまとめ、黒に銀縁の講師服を寸分の隙もなく着ている。顔立ちは端正だが、優しそうではない。切っ先のない細い刃物みたいな人だった。
女は教卓へ立つと、学生たちをひとわたり見た。
その視線だけで、ざわめきが消えた。
「初年礼法演習を担当いたします。イレーネ・ハルヴァです」
声は低く、よく通った。
「先に申し上げます。礼法は飾りではありません。礼法は、階層、記録、距離、責任を、誰にも言い訳させず身体へ刻むための技術です」
技術。
その言い方が、リネットには少し意外だった。
イレーネ講師は続ける。
「剣を持つ者は、剣に癖が出ます。術を組む者は、詠唱に癖が出ます。礼を身につけた者は、その癖を人前で見せないようになります。したがって、礼法は隠蔽の技術でもあります」
講堂の空気が、ひそかに張った。
優雅な授業には聞こえなかった。
「本講義では、初年学生礼、地礼、層位礼の差を扱います」
黒鏡柱のひとつへ、彼女が指を向ける。
柱面へ淡い文字が浮かんだ。
初年学生礼。
地礼。
層位礼。
「初年学生礼とは、一層から百層に所属する学生どうしの基礎礼です。これは出自を問いません。青印でも、推薦組でも、外の王族でも、入った直後はまずこれです」
そこで何人かが、ほんの少しだけ息をつく。
奨学生のリネットも、その一人だった。
「地礼とは、外の家格と領地秩序に基づく礼です。美しくても、この塔の中では参考資料にすぎません」
今度は、逆に張る気配があった。
外から来た貴族の子たちだろう。
「層位礼とは、巨塔内部の位階、記録席次、世界貴族秩序に基づく礼です。こちらは知らなければ恥をかきます」
最後の一言だけ、少し温度が低かった。
「覚えておきなさい。美しい間違いは、醜い正しさより扱いが悪い。美しいぶん、記録に残るからです」
リネットは思わず背筋を正した。
妙に納得してしまう。
イレーネ講師は教卓から降りると、中央の金線へ沿って歩いた。
「まず地礼の確認から行います。マクラクランさん」
呼ばれた瞬間、講堂じゅうの気配がわずかに動いた。
アリスルールは、いつも通りきちんと一礼して前へ出る。
「はい」
その小さな返事さえ、こんな場所ではひどく目立つ。
「外の侯爵家令嬢として、正式な初対面礼を」
「かしこまりました」
アリスルールは中央で止まった。
まず、左足を半歩だけ引く。
白手袋の指先を重ね、視線を落としすぎず、だが高くもしない。外套の裾が揺れない角度で膝を折り、起き上がる時には空気を乱さない。
ただ一度の礼だった。
なのに、きれいだった。
リネットのように貴族の礼へ縁のない者にでも、それがよく磨かれたものだとわかった。
イレーネ講師も、ほんのわずかに目を細めた。
「美しい」
何人かが、ほっとしたように息を吐く。
だが次の一言で、空気はまた変わった。
「侯爵家の地礼としては、上等です。二級」
教場が静かになった。
褒め言葉のようで、そうではなかった。
アリスルールは目を瞬いた。
「二級なのですか」
「地礼としては高い。層内礼としては持ち込み過多です」
「持ち込み過多」
「外の重みを、そのまま塔内へ入れています。ここでは重すぎます」
アリスルールは少しだけ考えて、それから本当に嬉しそうな顔をした。
「そうなのですね」
その反応は、明らかに周囲の想定と違った。
「ここでは、わたし、まだ軽いのですね」
教場のあちこちで、微妙な顔が生まれる。
馬鹿にされたと思った者もいたのだろう。あるいは強がりに見えた者も。
だがリネットにはわかった。
この子は本当に、そこへ面白さを見ている。
イレーネ講師は感情を動かさなかった。
「軽いのではなく、未定籍です。喜ぶかどうかは後で決めなさい」
「はい」
アリスルールは素直に下がった。
すると、講師は視線を上段側へ向けた。
「では、層位礼の模範を。フェルンハイムさん」
先ほどの灰金の髪をした少女が、一歩だけ前へ出た。
それだけで場の線が引き直された気がした。
「ユーディト・フェルンハイムです」
声は静かだ。
けれど、静けさの質が違った。
アリスルールがやわらかく届く声なら、この子の声は最初から聞かせる位置へ置かれている。
ユーディトは中央へ進み、イレーネ講師へ礼をした。
先ほどのアリスルールの礼が花なら、こちらは定規だった。
角度、呼吸、指先、視線の高さ、そのどれもが美しいのに、どこかひどく正確で、人ひとりより場全体へ向けて作られている。
銀鐘が、今度は二つだけ、かすかに鳴った。
失敗ではない。むしろ講堂そのものが応えたような音だった。
イレーネ講師が頷く。
「よろしい。これが層位礼の入り口です」
入り口であれなら、奥はいったいどうなるのだろう。
リネットは唖然とした。
そして気づく。
周囲の学生たちが、この少女をただの上手な同級生として見ていないことに。
世界貴族。
その言葉はまだ誰も口にしていないのに、講堂の空気はすでにそれを知っていた。
アリスルールが、小さく息をついた。
「ほんとうに、きれいです」
ユーディトの目が、初めてこちらを向いた。
その視線は冷たいわけではない。むしろ礼儀正しい。だが、距離の測り方が妙に正確だった。何歩まで近づけてよく、何歩から先は許さないのかを、最初から決めているような目だった。
「では実習へ入ります」
イレーネ講師が床の金線を杖先で叩く。
すると白黒の磨き石のあいだに、淡い光が走った。螺旋と直線が重なり合い、いくつもの細い礼路が床へ浮かぶ。
「本日は行違礼、譲受礼、紹介礼の基礎です。二人一組で組み、礼路上での接近と譲りを身体へ入れなさい。間違えれば鐘が鳴ります。三回鳴らせばその場で止めます」
学生たちが一斉に動き出す。
友人どうし、同寮どうし、あるいは無難そうな相手どうしで、すぐに組が決まっていく。
リネットはアリスルールへ声をかけようとした。
だが、その前に淡い青の講服が静かにこちらへ来た。
「マクラクランさん」
ユーディトだった。
近くで見ると、さらに完成されていた。
化粧気は薄いのに、不思議と粗が見えない。姿勢も笑みも整っていて、だからこそ、乱れた時に何が起こるのか想像しにくい。
「もしよろしければ、わたくしがお相手いたしますわ」
言い方は丁寧だった。
しかし、善意に見えない。
「初回でいらっしゃいますし、外からお持ち込みの礼と、ここで必要な礼はずいぶん違いますもの」
その場にいた何人かが、自然と聞き耳を立てた。
露骨ではない。だが、明らかに気にしている。
アリスルールは目を丸くして、きちんと一礼した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ユーディトも綺麗に返す。
「教場でお困りになるのは、お互いにとって損ですもの」
お互い。
その言葉の中に、自分は困らないという前提が綺麗に入っていた。
リネットは少しだけ胸がざわついた。
感じが悪いわけではない。
悪いわけではないのに、ちゃんと切られている。
「リネットさん」
アリスルールが振り向いた。
「少し行ってまいります」
「え、はい……」
行ってまいります、ではない。
だが止められない。
アリスルールとユーディトは、隣り合った礼路へ立った。
螺旋状に光る細い線が、二人の足元から中央へ向かって伸びている。
イレーネ講師の指示で、まずは相互紹介礼から始まった。
「名、所属、応答の順を正しく。外の家名を出す者は、なぜそれを出すのかも身体で示しなさい」
ユーディトが先に口を開く。
「ユーディト・フェルンハイム。記録儀礼群仮属にございます」
短い。
だが不足はない。
次にアリスルール。
「アリスルール・マクラクラン、侯爵家長女で――」
ユーディトが、ごくやわらかく微笑んだ。
「そこですわ」
遮ったのに、不思議と無礼には聞こえない。
「塔内では、その順ですと重たく映ります。地礼では美しいのですけれど」
「そうなのですか」
「はい。こちらでは先に学籍と現在位置を置くほうが自然ですわ」
言いながら、彼女は自分の胸元へ指先を添えた。
ほんのわずかな仕草なのに、そこに答えが全部入っている。
「わたくしたちは、まず巨塔のどこへ立っているかを名乗りますの」
「なるほど」
アリスルールは素直に頷いた。
「では、やり直します。アリスルール・マクラクラン、初年生です」
その名乗りへ、ユーディトは少しだけ首を傾げた。
「家名は残すのですね」
「おかしいですか」
「おかしくはありません。ただ、ここでそのお名前を前へ置くと、守られるより先に測られます」
柔らかい忠告だった。
しかし内容は、刃物みたいに鋭かった。
「わかりやすく申し上げますわね。外のお名前は、持っていても、塔内ではすぐ役に立ちませんの」
周囲の空気が、わずかに固くなる。
たぶん、それを聞きたい者が多かったのだ。
アリスルールは怒らなかった。
むしろ、少しだけ嬉しそうにしていた。
「よいですね」
ユーディトの睫毛が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……そうお思いになりますの?」
「はい。難しそうですので」
リネットは頭を抱えたくなった。
そこはせめて、困った顔くらいしてほしい。
次は行違礼だった。
二人は螺旋の両端から歩き出し、中央の細い合流点でどちらが譲り、どちらが先路を取るかを身体で示さなければならない。
間違えれば銀鐘が鳴る。
ユーディトは歩き方まで綺麗だった。
踵が鳴らない。
裾が揺れすぎない。
相手を見ているのに、見つめすぎない。
アリスルールも十分に綺麗だ。
だが同じ綺麗でも、こちらはまだ花の綺麗さだった。咲いているぶん、風に反応する。
中央で、二人が止まる。
ユーディトが先に半歩引き、手首だけで譲受の形を作った。
「ここでは、わたくしではなく、記録席次が先になりますの」
「席次」
「ええ。外の高さではなく、中の順序ですわ」
「では、正しい礼は、その順序のためのものなのですね」
「場を乱さないためのものです」
即答だった。
迷いのない答え。
アリスルールはそこで、少しだけ首を傾げた。
「正しい礼は、誰のためのものですか」
講堂のあちこちで、空気が止まった。
大きな声ではなかった。
なのに、その一言だけ妙によく響いた。
ユーディトは表情を変えない。
変えないまま、ほんの少しだけ呼吸を置いた。
「場のためですわ」
「場」
「皆が無駄に傷つかないためのものです」
立派な答えだった。
実際、正しいのだと思う。
けれどアリスルールは、答えを聞いてもなお、彼女の顔を見ていた。
いや、顔というより、その奥。
ずっと奥の、きれいに閉じられた場所を。
イレーネ講師の声が飛ぶ。
「続けなさい」
二人は再び歩き始めた。
今度は譲受礼から紹介礼への連結だ。接近し、止まり、肩の角度を変え、相手の現在位置を受け入れる。
ユーディトが手本のように形を作る。
「視線はあと半寸下へ。そうです。顎は引きすぎず、でも上げない。世界貴族位へ向ける礼は、敬意を見せるのでなく、乱さないことを見せますの」
「乱さない」
「ええ」
その言い方が、綺麗すぎた。
アリスルールは言われた通りにしながら、ずっと見ていた。
ユーディトの肩の線。
指先。
目を伏せる瞬間の速さ。
息を吸う場所。
どれも正しい。
どれも美しい。
どれも少しも乱れない。
だからこそ、見えてしまうものがある。
アリスルールは、唐突に微笑んだ。
「ユーディトさん」
「なんでしょう」
「とてもきれいです」
ユーディトは礼の姿勢を保ったまま、小さく頷く。
「ありがとうございます」
「でも」
銀鐘が、どこか遠くでひとつだけ鳴った。
「崩したら、ユーディトさんごと崩れてしまいそうです」
今度は、本当に教場が静まり返った。
リネットは息を止めた。
何を言っているの、この子は。
だがアリスルールの顔には、少しの悪意もない。
本当に、感心している顔だった。
「だから、こんなに正しいのですね」
その瞬間。
ちり、と。
ユーディトの右手の小指が、ほんの一瞬だけ遅れた。
銀鐘が二つ、鋭く鳴る。
それだけだった。
姿勢は崩れていない。
礼も壊れていない。
だが、たしかに遅れた。
ユーディト・フェルンハイムが。
イレーネ講師の目が細くなる。
「フェルンハイムさん」
「失礼いたしました」
返答は完璧だった。
声も震えていない。
けれど、さっきまでとは違う。
ほんの紙一枚ぶんだけ、綺麗さの下に人間が見えた。
ユーディトはゆっくりと顔を上げ、アリスルールを見た。
その視線はもう、最初の善意ある内部者のものではなかった。
怒っているわけではない。
むしろ、初めてこちらを正面から見たというほうが近い。
「……そう見えましたの」
「はい」
アリスルールは素直に頷く。
「たいへんそうです」
慰めているのでも、哀れんでいるのでもない。
本当に見えたものをそのまま言っただけの顔だった。
ユーディトの喉が、ひとつだけ小さく動く。
その時、イレーネ講師が杖先で床を打った。
「そこまで」
光る礼路が消えた。
学生たちが一斉に息を吐く。
今の短いやり取りだけで、誰もが妙に疲れていた。
「礼法は、相手を暴くための技術ではありません」
イレーネ講師の声は冷たかった。
「ただし、暴かれる程度の礼しか持たぬ者は、まだ未熟です」
その言葉は、アリスルールだけに向けられたのではない。
むしろ、二人とも切っていた。
「続きは各組、自習。鐘が三つ鳴る前に、さきほどの遅れがなぜ起きたかを自分で理解しなさい」
ざわめきが戻る。
けれど、もう最初の講堂ではなかった。
リネットの近くでは、誰も露骨に喋らない。
だが、小さな囁きは止まらない。
「今の見た?」
「フェルンハイムが」
「あの侯爵令嬢、何言ったんだ」
そこで、囁きのひとつが、少し離れた場所から滑ってきた。
「外じゃ侯爵でも、中じゃただの初年だろ」
別の声が、面白がるように継ぐ。
「外爵平民」
笑いは小さかった。
だが、そういう言葉ほどよく残る。
リネットは反射でそちらを睨みかけた。
だが相手はもう、誰だかわからない群れの中へ紛れている。
最悪だ、と思った。
ひどい言葉だ。
ひどいのに、妙に覚えやすい。
アリスルールも聞こえたらしい。
彼女は瞬きをして、少しだけ考えた。
「外爵平民」
口の中で転がすみたいに、小さく繰り返す。
「変なお名前ですね」
「変どころじゃないです」
リネットは思わず強く言った。
「そんなの、気にしなくていいですから」
アリスルールは、きょとんとした。
「気にしてはおりません」
「でも」
「ただ」
彼女は講堂の向こうを見た。
ユーディトが、数人の取り巻きらしい学生たちと話している。
姿勢はもう完全に戻っている。乱れは見えない。さっきの鐘のことすら、彼女の周囲だけでは起こらなかったみたいに。
それでもアリスルールは、その背中を見て、ひどく満ち足りたように微笑んだ。
「ユーディトさんのほうが、ずっとおもしろいです」
リネットは口を閉じた。
そう来るのか。
確かに、あの完成された少女のほうへ気を取られるのはわかる。わかるけれど、この侯爵令嬢はやはりどこか外れている。
いや。
外れているからこそ、ああいうものを見つけてしまうのだろうか。
自習時間の終わり際、イレーネ講師は最後に一つだけ告げた。
「礼は、相手のためだけにするものではありません。場のためだけにするものでもない。自分が、どこで崩れてはならないかを忘れないために行うものです」
それは授業全体へのまとめであるはずなのに、リネットにはどうしても、ユーディトへ向けられた言葉のように聞こえた。
そして同時に、アリスルールへ向けられた警告にも聞こえた。
授業が終わる。
学生たちは三々五々、講堂を出ていった。
リネットが鞄を抱えて出口へ向かうと、前方でユーディトが立ち止まった。
彼女は振り返り、まっすぐアリスルールを見る。
「マクラクランさん」
「はい」
「さきほどは、ご丁寧にありがとうございました」
礼儀正しい言葉だった。
だが最初の柔らかさとは違う。
こちらを測り、覚え、次に備える声だった。
「わたくし、あなたのことを少し誤解していたようですわ」
アリスルールは目を丸くする。
「そうなのですか」
「ええ」
ユーディトは、寸分も乱れない一礼をした。
「次からは、きちんと気をつけます」
その一言の意味を、リネットはすぐには掴めなかった。
けれど、敵意より厄介な何かが、そこに生まれたことだけはわかった。
アリスルールは嬉しそうに頷いた。
「わたしもです」
やめてほしい。
そこで嬉しそうにしないでほしい。
だが、もう遅かった。
ユーディトは去り際、一度だけ横顔を見せた。
その顔は美しかった。
そして、少しだけ怖かった。
講堂を出たあとも、銀鐘の余韻が耳の奥に残っていた。
落ちるわけではない。
刃が交わるわけでもない。
それなのに、リネットの胸は午前の高所戦と同じくらい疲れていた。
「礼法って、こんな授業でしたっけ……」
思わず漏らすと、アリスルールは真面目に考えた。
「もっと静かなものかと思っておりました」
「静かでしたけどね」
「そうでしょうか」
「すごく静かに刺してたじゃないですか」
言ってから、自分で少し驚いた。
こんな言い方をするようになったのは、間違いなくこの少女のせいだ。
アリスルールは、その表現が気に入ったらしく、目を細めた。
「はい。きれいに刺さる方でした」
ユーディトのことだ。
リネットは大きくため息をついた。
午後の光が回廊の窓から斜めに差し、白手袋をはめた小さな手を淡く照らしている。
その手は、剣を握る時と同じくらい丁寧に、今は鞄の紐を直していた。
たぶん、この子にとっては同じなのだ。
高いところで剣を交えることも、礼の継ぎ目から誰かの恐れを見ることも。
巨塔には、いろいろな戦場がある。
風鎖回廊。
対術剣環。
志望印刻の間。
そして礼法講堂。
アリスルールは、そのどれでも同じ顔をしてしまう。
難しいものを前にした時の、静かで、子供みたいに純粋な、あの顔を。
「フェルンハイムは、巨塔秩序でいう下級世界貴族を父に持つようです」
「ふむ。300層を超えし者、ですか」
リネットは隣の少女を見た。
アリスルールは自分のほうを見ていない。
もっと遠くを見ていた。
たぶん、次の難しい人を探している。
そしてリネットは、少しだけぞっとしながら思う。
今日、礼法講堂でいちばん怖かったのは、侮辱でも階級でもなかった。
あんな相手を前にして、アリスルールが本当に嬉しそうだったことだ。
この大学では、たぶん、礼すら安全ではない。




