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侯爵令嬢アリスルールの魔術剣客伝 ~若干13才の侯爵令嬢は決闘になると最強すぎて魔法大学の天才たちを震え上がらせるようです~  作者: 星舟能空


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第3話 先生は、よく見ています

 朝の鐘が、まだやわらかく鳴っているうちに、リネットは目を覚ました。


 東寮第一初年区画、十七号室。

 高窓から入る薄い光が、白い壁を青く撫でている。寮の朝は早い。だが、その早さを見越して起きたつもりのリネットより、先に起きている人間が同室にいることだけは、まだ慣れない。


 窓際の卓に、アリスルール・マクラクランがいた。


 白い手袋はまだはめていない。

 代わりに、素手の指先で細剣の鍔元をやさしく拭っている。油布の動きは丁寧なのに、目だけが違った。剣を磨いているのではない。剣の中へ仕込まれた微細な補助式を読んでいる目だった。


 卓の上には昨夜のうちに積まれた分厚い本が三冊、開いたノートが一冊、畳まれた替えの白手袋が二双。

 侯爵令嬢の朝というより、遠足の前夜に寝られなかった研究者の朝だった。


 リネットが寝返りを打つと、アリスルールが振り向いた。


「おはようございます、リネットさん」


 声は小さい。

 だが、この子の「おはようございます」は変に強い。押しつけがましくないのに、起きたばかりの頭へきちんと届く。


「……おはようございます」


 返しながら、リネットは視線を卓へ落とした。


「もう剣の手入れですか」


「はい」


「緊張して眠れなかったとか」


「少し」


 少し。

 その言い方があまりにも平然としていたので、リネットは毛布の中で半分だけ笑った。


「緊張すること、あるんですね」


 アリスルールはそこで、少し考える顔をした。


「緊張、かどうかは分かりませんが」


 青い目が、卓の上の白手袋へ落ちる。


「きょうは先生方のお顔を見られるので、うれしくて、少しだけ寝つきが悪かったです」


 やっぱり違った。


 リネットは寝台から起き上がりながら、小さく息を吐いた。

 この侯爵令嬢は、同じ大学生活を始めているはずなのに、嬉しくなる場所がいつも一段ずれている。


「先生って、そんなに楽しみですか」


「昨日、掲示環でお名前が出ていました」


 油布を畳みながら、アリスルールが言う。


「対術剣基礎実技の先生です」


 リネットはそこで思わず顔をしかめた。


「よりによって、それですか」


「よくない先生なのですか」


「よくないというか……」


 言いかけて、うまく言葉が見つからなかった。

 昨夜の食堂でも、掲示環の前でも、上級生たちはそろって嫌そうな顔をしていた。だが「嫌」の種類が、怠け者を叱る先生へのそれではなかった。もっと、面倒で、厄介で、巻き込まれたくない感じの。


「変らしいです」


 結局、昨夜と同じ言い方になった。


 アリスルールはそれを聞いて、素直にうれしそうな顔をした。


「よいですね」


 やはりこの子はずれている。リネットは改めて確信した。


 リネットは寝台から降り、着替えを始める。

 寮の朝は、鐘が二度鳴る前から廊下がうるさい。洗面具の触れ合う音、急ぐ足音、遅刻しないかと騒ぐ声。扉の向こうの現実がせわしなく動いているのに、同室の空気だけ妙に静かで、だから余計にアリスルールの存在が浮いて見える。


 そのアリスルールは、着替え終えたあとでようやく白手袋をはめた。

 指を一本ずつ通し、皺が寄らないように手首のところを軽く整える。その手つきだけは不思議なくらい子供っぽく丁寧で、昨日も見たのに、リネットはまた少しだけ目を奪われた。


「何かついていますか」


 見すぎたらしい。

 アリスルールが首を傾げた。


「いえ、ただ」


 リネットは少し迷ってから言った。


「あなたはたとえ死にそうな時でも、今と同じ感じで手袋を直すんだろうなと思って」


 アリスルールは、ほんの少しだけ考えてから頷いた。


「はい。そうですね」


 笑っているのかどうか、わかりにくい口元だった。


 朝食を挟んで、二人は四層から上へ向かった。

 荷籠の混み方を見て、リネットは階段回廊を選んだ。初年の学生が朝から上層環へ向かうと、たいてい足止めを食う。講義初日の導線は特に混むだろう。そういう現実的な判断がすぐ浮かぶあたり、自分はもうだいぶこの塔に飲まれ始めているのだと、リネットは少しだけ苦笑した。


 アリスルールは文句を言わない。

 ただ、階段の途中で何度も立ち止まる。


 石壁の継ぎ目。

 回廊の欄干を走る補助線。

 吹き抜けを渡る橋の裏に吊られた小さな風鈴式。

 そういうものを一つひとつ見ているので、普通の人間より移動に時間がかかる。


「急いだほうがいいですよ」


「急いでおります」


「そうは見えませんけど」


「見たいものが多いのです」


 それで済ませられるのは、この子だけだろう。


 十層を過ぎたあたりから、同じ方向へ向かう学生たちの顔ぶれが少し変わった。

 初年の中でも、剣を持つ者、杖だけでなく短剣や護拳を帯びた者、実技に慣れていそうな足運びの者が増える。礼法講堂へ向かう時とは、漂う空気そのものが違う。


 ざわついているのに、どこか乾いていた。

 皆、楽しみにしているのではない。嫌なものを待っている顔だ。


「本当にそんなに嫌なんですか、対術剣」


 リネットの前を歩いていた短髪の少年が、後ろの友人へぼやいた。


「嫌だろ。初回から十四層だぞ」


「エドワードだしなあ」


「まだカスパル先輩のほうがましって聞いた」


「いや、それも嘘だろ。あの人、笑いながら落とすって」


 落とす。


 リネットは自然とアリスルールのほうを見た。

 彼女はその会話を聞いて、怖がるでも不機嫌になるでもなく、ただ少しだけ目を細めていた。新しい動物の習性を聞いた時みたいな顔だった。


「楽しそうですね」


「どのへんがですか」


「面白い決闘ができそうです」


「そこを期待する人は、普通あんまりいません」


「そうなのですか」


 そうなのですか、ではない。

 だが今さらそこを説いても仕方がない。


 十四層対術剣環は、講義環というより半分は処刑場、半分は劇場に見えた。


 中央空洞へ突き出すように造られた巨大な円環床。その外周に沿って観覧回廊が二重三重に巻き、さらに円環の内側へ向けて、薄い青銀の鎖橋や円盤足場が何本も吊られている。上には空中で止まるための風枠がいくつもあり、下を覗けば何層も下の光が揺れている。落下防止の結界膜は張られているが、入塔礼で見たものより薄く、いかにも「死なない程度には守る」という顔をしていた。


 壁面には、魔術の焦げ跡と剣傷が無数に走っている。

 消されていない。

 誇りみたいに残っていた。


 観覧回廊の一角では、上級生らしい者たちがもう座っていた。完全な授業ではないらしい。見物できる初回実技ということなのだろう。


 リネットはその時点で嫌な予感がした。

 ただの初回の授業に、見物人は要らない。

 要るのは、初回から誰かが痛い目を見る授業だけだ。


「嫌な感じ……」


 誰かが呟いた。


 正直、リネットも同じ気持ちだった。


 学生たちは円環床の外周へ集められた。

 その中心、鎖橋と風枠が交差する場所に、二人の男が立っている。


 片方は、年若い上級生だった。

 肩まで届く茶髪を無造作に後ろへ流し、鎖を意匠にした軽鎧を着ている。長身で、笑うと人がよさそうに見えるのに、その笑い方が危ない。足場の端へ立っている姿が妙に自然で、高い場所ほど居心地がいい種類の生き物なのだとすぐわかった。


 もう片方は、教員だ。


 黒に近い紺の外套を肩へ引っかけただけの気だるい格好で、片手には細身の術剣、もう片手には革手袋。髪は少し長く、きちんと整えていないのに不潔には見えず、顔立ちだけなら案外若い。三十前後にも見える。だが、立ち姿の奥に乾いた古さがあった。


 そして何より、目が笑っていない。

 いや、口元は笑っている。だがその奥で、ずっと別のものを見ている目だった。


 男は集まった新入生たちを見渡し、外套の肩を指先で直した。


「揃ったかぁ?」


 場違いなくらい軽い声だった。


 ざわめきが一瞬で止んだ。


「よぉし。初年対術剣基礎実技、担当は俺。エドワード・ジャンミルフィンだ」


 名前が空気へ落ちる。


 昨夜、掲示環で見た文字列が、急に重さを持った。


「で、こっちが今日の補佐。カスパル」


 上級生が片手を上げる。


「風鎖のカスパル・ヘルマー。よろしくな、新入り」


 よろしく、と言いながら、彼は鎖橋の欄へ軽く片足をかけてみせた。

 普通に立っているより、そちらのほうが落ち着くらしい。


 エドワードは学生たちの顔を一巡し、鼻で笑った。


「朝からひでぇ顔が多いなぁ。安心しろ。死なねぇよ」


 少し間を置いてから、続ける。


「たぶんな」


 笑いは起きなかった。

 起きるわけがない。


 エドワードはそれをまるで気にしない。


「まず言っとく。ここじゃ外の爵位ぁ役に立たねぇ。家門も、成績札も、推薦状も、一回置いてこい」


 革手袋を指へ通しながら、気楽に言う。


「対術剣ってのはな、派手な魔術をぶった斬って偉そうにする技じゃねぇ。術師が何にしがみついて術立ててるか、そこを見て、そこを切るための剣だ」


 そこで彼は、円環の内側へ視線を向けた。

 吊り足場。風枠。細い鎖橋。頭上を渡る補助線。


「火を斬るんじゃねぇ。火が何にぶら下がって燃えてるかを見る」


 術剣の切っ先が、軽く揺れる。


「風を斬るんじゃねぇ。風がどこに留められてるかを見る」


 そして最後に、学生たちへ向けられた。


「人を斬るんでもねぇ。人がどこで本気になるかを見る」


 リネットは知らず、背筋を伸ばしていた。

 怖い説明だった。

 だが、わかりやすかった。


 エドワードはそのまま続ける。


「今日は初回だ。座学やっても寝るだろ。だから先に、見る授業にする」


 嫌な予感が、正しかった。


「カスパル」


「はいはい」


「新入りどもに、見せてやれ」


 カスパルが笑って、円環の内側へ飛び出した。


 足場がない。

 そう見えたのは、一瞬だった。


 彼の靴が空を踏むたび、青銀の鎖がひとつずつ現れ、風で固められた細い足場が生まれる。足場は次の一歩の瞬間にはほどけ、また別の場所に繋がる。まるで空中へ鎖の階段を即席で編んでいるみたいだった。


 高所戦用術剣。


 リネットはごくりと唾を飲んだ。

 町の橋梁補助式とは、そもそも発想が違う。


「おっかねぇだろ?」


 頭上の鎖へ逆さにぶら下がるみたいな姿勢で、カスパルが笑う。


「でもよぉ、高えとこじゃ、びびった顔が一番よく見えんだよ」


 観覧回廊の上級生が、何人か笑った。

 笑えない新入生のほうが多かった。


 カスパルは円環中央へ細い銀鈴を三つ放った。鈴は風の上へ止まり、揺れながら甲高い音を鳴らす。


「ルールは簡単。この鈴、三つ取れたら勝ち。落ちたら負け。剣でも術でも好きに使え。ただし」


 口元の笑いが、少しだけ深くなる。


「泣くなよ」


 それから始まったのは、授業というより見世物だった。


 一人目の男子学生は、足場の生まれる速度についていけず、二歩目で宙を踏み抜いた。

 落ちる寸前で結界膜に弾かれ、青ざめたまま円環床へ転がり戻る。


 二人目は火球で牽制したが、カスパルが足場ごと斜めへ逃がし、逆に風圧で体勢を崩されて終わった。


 三人目は慎重すぎて進めず、四人目は進みすぎて自分で足場を失った。


 カスパルはどれも笑いながら捌く。

 その笑い方に悪意はない。ないのに、余計にひどかった。


 落とすことへ慣れている。

 落ちる瞬間を見慣れている。


 そういう手つきだった。


 エドワードはその一部始終を、外周の欄へ腰を預けたまま見ている。

 助言もしない。

 救うのは本当に危なくなった瞬間だけで、それ以外は新入生がみっともなく空を掻く様子を黙って眺めていた。


「はい次ぃ」


 軽い声で呼ぶ。


「そこで止まるやつぁ、止まる癖つくぞぉ」


 何人目かが終わった時、リネットの番札が呼ばれかけた。

 心臓が縮む。

 自分は剣印が低い。導線系の補助ならともかく、この高さで術剣は無理だ。


 だが、その前に、エドワードがふと顔を上げた。


 視線が、列の中ほどで止まる。


 アリスルールだった。


 昨夜、掲示環の灯りを見上げていた時とは違う。

 今の彼女は、円環中央の足場と鎖の流れを、最初から最後まで一人で全部見ていた。

 怖がるでも、興奮を隠すでもない。

 ただ、難しい式を読む時の顔で。


 エドワードの口元が、少しだけ歪んだ。


「遅かったなぁ?」


 軽い声だった。


「アリスお嬢様よぉ」


 一瞬で空気が止まった。


 リネットは、自分の隣の温度が一瞬だけ変わるのを感じた。


 アリスルールは列から半歩出て、きちんと一礼した。


「お久しぶりです、先生」


 先生。


 その一言で充分だった。

 初対面ではない。しかも「昔どこかで講義を受けました」程度の距離ではない。エドワードの軽口に対して、アリスルールの返礼があまりにも自然すぎた。


 周囲がざわつく。

 上級生の観覧席まで一段ざわめいた。


 カスパルが頭上の鎖からぶら下がったまま、面白そうに口笛を吹く。


「うわ。そういう感じ?」


「余計なこと言うなぁ、カスパル」


 エドワードは笑ったまま、まったく笑っていない目でアリスを見る。


「見えてんならよぉ、来い」


 短い呼び方だった。


 アリスルールは頷いた。

 それだけで、円環の温度が変わった気がした。


 リネットは自分でも気づかないうちに、一歩前へ出ていた。

 見逃したくなかった。

 見てはいけない気もした。


 アリスルールが円環内へ入る。


 カスパルは鎖の上でくるりと体を返し、今度は高い位置から彼女を見下ろした。


「入塔礼の噂、聞いたぜ。白手袋のお嬢様だっけ」


 白手袋の少女は、顔を上げた。


「いろいろなお呼び方があるのですね」


「あるある。今日は何になるかなあ」


 カスパルは一本の鎖を蹴った。

 空中へ青い足場が八つ、斜めに走る。さらにその外側へ、細い風鎖が何重にも輪を作って吊られた。


「落ちねぇお嬢様」


 言いながら、彼は剣を抜いた。

 刀身は湾曲が少なく、細い。だが鍔元から青い鎖式が幾つもぶら下がり、振るたびに空気へ術鎖が伸びる。


「それとも」


 鎖が鳴る。

 銀鈴が高く震えた。


「落ちるお嬢様?」


 言葉と同時に、風鎖が一斉に来た。


 速い。

 真っ直ぐではない。四方から来るように見せて、実際は上と後ろを狙っている。高所戦で相手に上を向かせるための打ち方だ。


 アリスルールは一歩も急がなかった。

 右へ半歩。左の肩を落とし、最初の二本を紙一重で流す。次の一瞬、細剣の切っ先が三本目の鎖へ触れた。


 切らない。

 撫でる。


 それだけで鎖の進路がわずかにずれ、四本目と絡んだ。


 観覧席の上級生が、あ、と声を漏らした。


 カスパルもすぐに立て直す。

 鎖の絡みをそのまま利用し、今度は二段上の足場を崩しながら急降下した。落下そのものを加速に変える打ち込みだ。


 アリスは見上げる。

 風が髪をさらい、白手袋の指が剣の柄をやわらかく包む。


「先輩」


 その声が、不思議なくらいよく通った。


「高いところがお好きなのではないのですね」


 カスパルの眉がわずかに動いた。


「あぁ?」


「高いところで、落ちる前のお顔を見るのがお好きなんですよね?」


 剣がぶつかった。


 甲高い金属音ではない。

 鎖の震えと風の軋みが混ざった、高い、細い音だ。


 カスパルの剣圧は、重くない。

 代わりに、足場と重心と落差が全部ついてくる。

 一撃ごとに位置が変わる。上から来たと思ったら、次は足元の鎖橋が傾き、さらに次には頭上の足場が消える。高さそのものを剣にしている。


 アリスルールはその全部を、楽しそうに見ていた。


 リネットには、それがいちばん怖かった。

 普通の学生なら、まず自分が落ちないことを考える。だがアリスルールは違う。落ちるかどうかより先に、相手がどんな癖で場を組んでいるかを見ている。


 カスパルの足が二度、細い足場を叩いた。

 上。

 右。

 斜め下。


 三段落とし。


 見えた瞬間にはもう遅い型だと、リネットにすらわかった。

 鎖足場が順に消え、残った一本へ追い込まれた相手を、上から風鎖で縫い止める。


 だがアリスは、その最後の一本へ乗らなかった。


 わざと外した。


 見物席から息を呑む音が広がる。


 白い外套の裾が宙へ翻り、アリスルールの体が一度、完全に何にも支えられなくなった。


 リネットの心臓が止まりかける。


 その落下の最中で、アリスは剣を振った。


 下へではない。

 自分の上を走る、見えない風の継ぎ目へ。


 鈴が鳴った。


 中央に吊られていた三つの銀鈴のうち、一つが、何者にも触れられていないのに、かちりと音を立ててアリスのほうへ落ちてくる。


 カスパルが笑った。

 次の瞬間、彼もまた落ちた。


 いや、落ちたのではない。

 自分の足場へ戻るつもりだったのだろう。だがその足場が、ほんのわずかに位置をずらされていた。アリスが落下の瞬間に切ったのは、自分ではなく、カスパルの次の着地点を吊っていた風の錨だったのだ。


「っは!」


 初めて、カスパルの声が本気になった。


 体勢を崩しながら、彼は鎖を三本まとめて撃つ。

 防ぐのでなく、場全体を潰す気だ。


 アリスは落ちる途中で一本目を躱し、二本目を足裏で踏み、三本目へ剣を添えた。


 踏む。

 乗る。

 切る。


 三つが一瞬でつながって、彼女の体が落下から斜め上へ弾き返される。


 風鎖が跳ねる。

 白い手袋が陽にひかる。

 細剣の切っ先が、青い鎖の真芯だけを吸い込んだ。


 カスパルの周囲に張り巡らされていた即席の足場が、一拍遅れてまとめて鳴いた。


 鳴いて、ほどける。


 空中へ編まれていた処刑場が、一斉にゆるんだ。


 カスパルは剣を返して着地を狙ったが、その時にはもう、アリスルールのほうが近かった。


 白い細剣が、彼の喉元ではなく、肩口から垂れた鎖式の留め金へ止まる。


 鋭さのない、やさしい止め方だった。

 だがそれで充分だった。


 留め金が外れ、カスパルの術鎖が音を立てて消える。


 足場を失った上級生の体が、ほんの一瞬だけ宙へ沈む。

 結界膜に届くより早く、エドワードの指が動いた。円環の外から伸びた薄い風が、カスパルの落下だけを軽く殺す。


 どさり、と音がした。

 結界膜の少し上へ尻もちをついたカスパルを見て、ようやく観覧席の空気が戻る。


 遅れて、鈴がもう一つ、アリスの足元へころがった。


 誰もすぐには拍手しなかった。

 喝采の前に、理解が追いつかなかったからだ。


 アリスルールは円環中央へ着地し、落ちてきた銀鈴を二つとも拾った。

 それから、結界膜の上へ転がるカスパルを見下ろして、小さく首を傾げる。


「先輩」


 声に、勝ち誇りはない。


「楽しかったです」


 カスパルは数拍黙っていたが、やがて腹の底から笑い出した。


「ははっ」


 結界膜へ片肘をついて起き上がる。


「お前、そりゃひどすぎるだろ」


「そうでしょうか」


「俺の落ちる前の顔、見たかっただけじゃねぇか」


 アリスは少しだけ考えた。


「はい」


「認めるんだな」


 その返しに、今度こそ観覧席から笑いが漏れた。

 強張っていた空気が、一度だけほどける。


 だがリネットだけは笑えなかった。

 笑っている余裕がなかった。


 アリスルールは、やっぱり普通ではない。


 エドワードが欄から体を起こした。


「よぉし」


 軽い声で言う。


「今の見たかぁ?」


 誰も返事をしない。


「見てねぇなら、目ぇ悪いな」


 そこでようやく、何人かがぎこちなく頷いた。


 エドワードは笑いも怒りもせず、円環の内側を指した。


「カスパルの剣は速い。高所戦もうまい。足場の組み方もきれいだ。だが、あいつが何に頼って場を立ててたか、アリスルールは見た」


 カスパルが結界膜の上から手を上げる。


「人の負け試合解説するのやめてもらっていいですか?」


 エドワードは平然と続ける。


「……対術剣は、相手の術を全部叩き壊す剣じゃねぇ。場が何で立ってるか、人がどこで本気になるか、そこを見て、そこだけ外す剣だ」


 その言葉が、円環の傷跡や鎖橋や高い空洞へ、やけによく似合っていた。


「だから覚えろ。強ぇ術を見たらビビる前に、何が支えてるか見ろ。強ぇ人間を見たら怯える前に、何にしがみついて立ってるか見ろ」


 そこでエドワードの視線が、もう一度アリスへ向いた。


「見えてんなら、順番を間違えるな」


 アリスルールはまっすぐ頷いた。


「はい、先生」


 その返事が、妙にうれしそうだった。


 リネットはそのやり取りに、背中の内側が少し冷えるのを感じた。

 先生と生徒の会話ではない。

 もっと古くて、もっと危ない何かが、その短いやり取りの中にある。


 授業はその後も続いた。

 カスパルは何事もなかったように立ち上がり、次の学生を容赦なく落とした。


 だがリネットの頭には、さっきの一戦ばかりが残っていた。


 カスパルの足場。

 落下。

 鈴の音。

 そして、落ちるかどうかより先に、人間の顔を見ていたアリスルール。


 自分の番が来た時、リネットは案の定ぼろぼろだった。

 二歩目で足場の位置を読み違え、三歩目で風圧に押され、四歩目の前でカスパルにあっさり落とされた。


 悔しかった。

 怖かった。

 だがそれ以上に、さっきまで同じ列にいたはずの白手袋の侯爵令嬢が、もうずっと遠い場所に立っている気がした。


 授業が終わる頃には、足も腕も震えていた。

 それでも新入生たちは、終わった安堵より、妙な熱に浮かされていた。あの戦いを見てしまったせいだ。


 片付けのざわめきの中、リネットは水筒の蓋を開けながら、ようやくアリスへ声をかけた。


「あなた、本当にあの先生知ってるんですね」


 アリスルールは白手袋の指先についた薄い術煤を払っていた。


「はい」


「いつからですか」


 問いに、彼女は少しだけ目を細めた。

 困っているのではない。どこから話せば綺麗かを考えている顔だった。


「昔からです」


 それだけだった。


 リネットは思わず額を押さえた。


「全然わからない」


「すみません」


「謝ってほしいわけじゃないんですけど……」


 その時だった。


「おぉい、アリスルールよぉ」


 軽い声が、円環の向こうから飛んできた。


 エドワードだ。

 外套を肩へ引っかけ直しながら、こちらへ手を振っている。教師が生徒へ向ける距離ではない。近所の知り合いを呼ぶみたいな気安さだ。


 リネットは反射で背筋を固くした。

 だがアリスは違った。

 呼ばれた瞬間の横顔が、昨日の掲示環の前と同じ色になる。


「はい、先生」


「ま、50点くらいには仕上がったみてぇだな」


「精進します」


 エドワードはそこで、ちらとリネットを見た。

 その視線は一瞬で、軽かった。軽いのに、値踏みされた気がした。


「同室かぁ? 災難だな」


「先生、それは慰めになってません」


 思わず口から出ていた。


 エドワードは一拍置いて、それから笑った。


「お、ちゃんと喋れんじゃねぇか。いいねぇ。死なねぇ顔してる」


 意味がわからない。

 意味がわからないのに、少しだけ腹が立つ。


 アリスはそのやりとりを、やっぱり楽しそうに見ていた。


 エドワードは彼女へ視線を戻す。


「アリスルール」


「はい」


「次はもっと高ぇぞぉ」


 ただそれだけ言った。


 授業内容の予告か、脅しなのか、誘いなのか、リネットには判断がつかなかった。

 だがアリスルールには充分だったらしい。


「うれしいです」


 本気の声だった。


 エドワードは満足そうに頷き、踵を返した。去り際、カスパルへ「鈴持ってかれてんじゃねぇかぁ」と笑い、カスパルが「こんな弟子がいるなんて聞いてないっすよ」と返す。軽口の形をしているのに、二人ともどこか危ない。


 その背中を見送りながら、リネットはようやくわかった。


 あの教師が怖いのは、厳しいからでも、容赦がないからでもない。


 あの人は、アリスルールの異常さを見て、止めようとしない。

 それどころか、もっと高いところへ連れていこうとしている。


 アリスルールは、まだ円環の内側を見ていた。

 傷の入った床。吊り足場。ほどけたばかりの風鎖。誰かが落ち、誰かが立ち、誰かが見ていた場所。


 それら全部へ、小さく一礼する。


「本日も、ありがとうございました」


 誰へともなく、そう言った。


 リネットはその横顔を見ながら、これから始まる大学生活のことを考えた。


 講義はある。

 寮もある。

 食堂もある。

 友達だって、たぶん、できる。


 けれどそれだけでは済まない。


 この巨塔は、間違いなく尋常な場所ではない。


 そしてたぶん、自分はすでに、巨塔を好きに、そして嫌いになり始めていた。

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