第6話 硝鏡庭では、目立った子から順に呼ばれます
朝から、肩と背中がひどく重かった。
前日の共同服務が終わってからというもの、リネットの腕と背中は、動かすたびに地味な文句を言い続けている。眠って治ると思っていたのに、巨塔の疲れはそういうふうに親切ではないらしい。
その朝、初年用の掲示環には、白い札が一列ぶら下がっていた。
十九層硝鏡庭。
合同開示演武。
読み上げた瞬間、嫌な予感と面倒の匂いが同時にした。
「開示演武」
隣で、アリスルールが小さく復唱する。
白手袋の指先が、掲示札の下端をほんの少しだけ持ち上げた。めくる必要もないのに、札の紙質や裏打ちまで気になるらしい。
「何を開示するんでしょう」
「たぶん、こっちが隠しておきたいものです」
リネットは真顔で答えた。
周囲の初年たちも、だいたい似た顔をしていた。ざわめきは広がっているのに、誰も楽しそうではない。
「十九層って」
「硝鏡庭……」
「どんなとこだろ」
「どうせろくでもない」
そのざわめきの中に、やはり別種の熱も混じっていた。
「あの侯爵令嬢も出るんだよな」
そういう声が、自分たちの少し後ろで、あまり遠慮なく飛ぶ。
リネットはため息を呑み込んだ。
この数日で、アリスルールは低層の初年たちのあいだでは充分すぎるほど有名になっていた。
入塔礼で上級生を落としかけた侯爵令嬢。
志望印刻の間を乱した子。
対術剣基礎で風鎖のカスパルを落とした子。
礼法講堂でユーディト・フェルンハイムへ鐘を鳴らさせた子。
だが、それはあくまでこのあたりの階でだけだ。
実際、掲示環の外側を急ぎ足で通りすぎる二年や三年の学生たちは、初年のざわめきなどほとんど見ていない。もっと上の回廊へ向かう荷運び式も、書類筒を抱えた事務生も、こちらの話題とは別の速度で動いている。
巨塔は広い。
自分たちが騒いでいることなど、ほとんど端のほうの天気みたいなものだ。
その広さが、今日は少しだけありがたかった。
「おもしろそうです」
「どうしてそうなるんですか」
「硝鏡庭、というお名前が、もうよいです」
たしかに名前は綺麗だ。
だが綺麗な名前の場所は、巨塔ではたいていろくでもない。
午前の講義を半分だけ切り上げる形で、初年たちは十九層へ上がらされた。
十九層は、講義環でも服務路でもない。大きな中央空洞から少し外れた、円形の見世物階であるらしい。途中の回廊から覗くと、磨かれた白硝子と銀骨の欄が幾重にも重なり、中央に花園みたいな光が沈んでいた。
近づくにつれて、空気の乾き方が変わる。
石の匂いより、硝子の匂いがした。
十九層硝鏡庭は、庭というより、巨大な硝子細工の断面だった。
円形の演武場の床には薄い鏡面が何層も重ねて埋め込まれ、ところどころに花弁みたいな透明板が斜めに立っている。足元の映り込みは完璧ではなく、少しだけ遅れる。おかげで、自分の影が半歩あとからついてくるように見えた。縁には銀の鐘と細い筆記灯が並び、記録席には二年の見習いたちらしい学生がすでに陣取っている。
その中に、見覚えのある顔があった。
黒髪をきっちり結い上げた上級生が、薄い記録板を膝に乗せている。
志望印刻の間で、青銅柱へ制御札を叩きつけ、乱れた導線を強引に引き戻した人だ。
セシル補佐。
本人がちらりとこちらを見た。
目が合った瞬間、彼女の筆先がぴたりと止まる。止まってから、露骨に嫌そうな顔はしないまま、しかし明らかに面倒を見た時の目でアリスルールを見た。
覚えられている。
そりゃそうだろうとリネットは思った。
忘れたくても忘れにくい側だ。
初年たちは、演武場を囲むように三段の観覧環へ振り分けられた。
上級生の姿もあるが、前列で身を乗り出しているのは対術剣や服務系の連中ばかりで、塔全体の一大行事という雰囲気ではまるでない。暇な者が見に来ているだけ、という感じが生々しくて、かえって嫌だった。
しばらくして、演武場中央へ小柄な女性講師が出てきた。
深い藍色の外套に、銀縁眼鏡。年齢はよくわからない。若く見えるのに、声は疲れていた。
「十九層合同開示演武を開始します」
声が鏡面で少しだけ反響する。
「目的は適性の概観です。勝敗自体より、何を見て、何を選び、何を守るかを見ます。今日の結果は、班編成と補助実習振り分けの参考資料になります」
参考資料。
その言い方が、妙に現実的で嫌だった。
「展示役は上級生より抽出済み。必要以上に痛めつけた場合は減点しますが、甘やかしも減点です」
観覧席のどこかで笑いが起きた。
嫌な笑いだ。
「また、鏡面損壊、筆記灯破壊、記録席への飛散は即時失格とします」
そこだけ、声が少し強かった。
おそらく何度もやられたことがあるのだろう。
「順番は事前記録順。呼ばれた者から降りてください」
事前記録順。
つまり、順番にも理由がある。
リネットは嫌な気持ちになりながら、演武場脇の掲示灯を見た。
白い名前列が、上から順に点灯していく。
一番上で、すぐに灯ったのは、
アリスルール・マクラクランだった。
まわりの初年たちの肩が、一度にざわつく。
アリスルール自身は、驚くでも得意になるでもなかった。
ただ、「はい」と小さく返事をして、いつものように一礼した。
「行ってまいります」
遠足にでも行くみたいな言い方だった。
「気をつけてください」
反射でそう言ってから、何をどう気をつければいいのかわからなくなった。
アリスは少しだけ首を傾げたあと、真面目に頷く。
「なるべく、そういたします」
なるべく。
この子にとってはそれが最大限の譲歩なのだろう。
演武場へ降りたアリスの向こう側から、展示役が歩いてきた。
二年生の男子だった。背が高く、銀灰の短髪をきっちり撫でつけ、細身の片手剣を提げている。顔立ちは整っているが、整っているぶん、見下し方がよく似合った。
観覧席のどこかで名を呼ぶ声がある。
「セドリック先輩だ」
セドリック・ラーン。
聞いたことはないが、呼ばれ方からするとこの階ではそれなりに名のある先輩らしい。
彼は中央まで来ると、流れるように剣礼をした。
形は美しい。
だが、そのあとアリスを見る目が美しくなかった。
「二年対鏡剣補佐、セドリック・ラーン」
わざわざ名乗る。
しかも観客へ聞こえる声量で。
「初年代表、でしたか」
アリスは剣を抜かず、一礼した。
「代表ではないと思います」
「では、なおさら運が悪い」
笑っている。
口元だけ。
「ここは、自分の影に足を取られる人間から落ちていく庭です」
「すてきですね」
観覧席のどこかで、誰かが息を詰まらせる。
開始鐘が、一つ鳴った。
セドリックの剣が抜けたのは、その余韻の中だった。
速い、と思った瞬間には、もう遅かった。
剣そのものが速いのではない。抜いた刃が前方の斜鏡へ一度だけ触れ、その像が遅れて三方へ増えたのだ。光の薄刃が花弁硝子を跳ね、演武場に細い銀線を描く。
硝鏡庭全体が、一瞬でセドリックの庭になった。
リネットは喉の奥が冷えるのを感じた。
床のどこへ踏んでも、自分の足元の映り込みが半拍遅れる。
その遅れへ銀線が刺さり、次の踏み替えを狂わせる。剣と鏡で足を鈍らせる戦い方だ。高所戦ほど露骨ではないが、転ばされる怖さの種類が嫌らしい。
セドリックは最初の一歩でアリスの左を切った。
次の一歩で、右後方の像を走らせた。
三歩目で中央の斜鏡を傾け、場の角度そのものを自分へ有利に作り替える。
うまい。
そして、うまいことを見せたがっている。
アリスはしばらく、抜かないままだった。
そのことが、かえって不気味だった。
避けているのか、見ているのか、リネットにもわからない。ただ、彼女は鏡のきらめきそのものより、斜鏡に映るセドリックの横顔をよく見ていた。
四手目がアリスの喉元へ走る。
その瞬間、ようやく細剣が抜けた。
細い銀音。
刃と刃はぶつからない。
アリスは自分の足元の遅れた像をわざと半歩踏み外し、そのズレで一手だけ銀線の角度を狂わせた。
鏡面の遅れを、ずらして使ったのだ。
セドリックの眉が、初めて少しだけ動いた。
「ほう」
「先輩」
アリスはほんの少しだけ笑った。
「鏡がお好きなのですね」
「何だ」
「自分をきれいに見せたい時のお顔を、しておられます」
そこで、空気がわずかに変わった。
リネットにもわかる。
今の一言は、褒めではない。
むしろ、相手がいちばん見られたくないところへ軽く指を入れた。
セドリックの剣筋が一段速くなる。
今度は見せるためではなく、当てるための速度だった。
花弁硝子が二枚、三枚と連鎖して傾き、銀線の網が狭まる。
観覧席のほうから小さく悲鳴が上がった。
逃げ場がない。
そう思った瞬間、アリスは前へ出た。
前。
銀線の網から逃げるのでなく、いちばん濃い中央へ。
細剣の切っ先が、セドリックの刃でなく、その少し横にある斜鏡の継ぎ金へ当たる。
かちり、と小さな音がした。
その一音だけで、場全体の角度が壊れた。
銀線が消えるのではない。
返る先を失う。
セドリックが作った射線が、一瞬遅れて空白になる。
アリスはそこへ、迷わず踏み込んだ。
セドリックの目が、初めて観客席から離れた。
正面から、アリスだけを見る。
その顔を見た瞬間、アリスの声音が、ほんの少しだけ明るくなった。
「はい」
何に対する返事なのか、誰にもわからなかった。
「やっと、わたしをみているお顔になりました」
細剣が、セドリックの喉元すれすれで止まる。
沈黙。
それから、遅れて鏡庭の鐘が一つ鳴った。
講師が立ち上がる。
「展示終了。初年、開示成立」
その宣言で、ようやく観覧席が息をした。
わっと沸くには、少し足りない。
だがざわめきは大きい。
「勝ったのか?」
「いや、あれどういう判定?」
「継ぎ金を外した?」
「先輩、顔怖っ」
実際、セドリックの顔はきれいに崩れていた。
美しく整えていたはずの表情が、今は悔しさと怒りで薄く歪んでいる。アリスはその顔を見て、にこりと微笑んだ。
講師は短く告げる。
「補佐セドリック、展示過多。初年マクラクラン、観察優位」
それだけ。
講評は短い。
記録席の筆記灯が、一斉に走った。
セシル補佐が何かを書きつけている。
その横の見習いが「こんなの欄が足りない」と小さくこぼし、セシルが「足りなくても書くの」と冷たく返したのが、観覧席の近さのせいで少し聞こえた。
アリスは戻ってきた。
「どうでしたか」
どうでしたか、ではない。
「どうって……」
リネットは言葉を探した。
心臓はまだ速い。
「同じ年で、ここまでできるんだな、って感じでした」
言ってから、自分でもひどい感想だと思った。
だがアリスは素直に頷いた。
「はい」
はい。そこに含まれる意味を深く考える前に、次の名が呼ばれた。
演武は、そのまま淡々と続いた。
アリスの一戦だけで巨塔が止まるほど、この庭は親切ではない。
次の初年は開始三手で泣きそうになり、その次は過剰防御で減点され、その次はうまく逃げ切って薄い拍手をもらった。観覧席の熱も、良くも悪くもすぐ次へ移る。
そのことが、少しだけ救いだった。
リネットの番が来た時には、もう逃げる気力もなかった。
相手は三年の女子学生で、剣より足運びが速い人だった。
リネットは勝てなかったし、たぶん綺麗でもなかった。ただ、鏡面の遅れに合わせて補助線を引き、転び方の悪い場所だけ避けた。最後に一本だけ、倒れかけた花弁硝子の支柱を押し戻したことで、「導線補助寄り」と短く記録されたらしい。
らしい、というのは、記録席の見習いが隣へそう伝えているのを耳にしてしまったからだ。
格好よくはない。
だが、自分らしいのかもしれないと思った。
サフィヤの番は、その少し後だった。
彼女は服務路で見た時と同じように、感情をあまり外へ出さない。
けれど硝鏡庭の上では、静かさが別の武器になっていた。
鏡面の脇へ刻まれた古い注意刻印を一瞥しただけで、踏んではいけない角度を避ける。
展示役の誘導に乗らず、むしろ相手の足場だけを狭めていく。
観覧席の人気は出ない。
だが、見ている側の仕事人は好きそうな勝ち方だった。
終わったあと、アリスは本気で感心した顔をしていた。
「サフィヤさんは、札を読むのがお上手です」
服務路以来、少しだけ話すようになったサフィヤは、今日も無表情のまま答える。
「書いてあることを読むだけです」
「そこへ書いていないことも、読んでおられました」
サフィヤは、そこでほんの少しだけ黙った。
否定しないかわりに、話を切る沈黙だった。
午後の終わり近く、最後の鐘が鳴った。
講師たちは簡単な総評だけを述べ、詳しい講評は翌朝の仮班表と併記すると告げた。
観覧席はいっせいにざわついたが、それ以上の説明はない。
巨塔の説明は、いつも足りない。
初年たちがぞろぞろ退いていく中、記録席だけが忙しかった。
筆記灯がまだ走っている。
見習いたちが札束を仕分け、短評板を重ね、色分けされた仮印を押していく。
リネットは帰り際、なんとなくそちらを振り返ってしまった。
見なければよかった。
セシルの前に、三枚の札が並んでいた。
一枚は、白手袋をはめ直しているアリスルールのもの。
一枚は、導線補助の薄印がついた自分のもの。
一枚は、札務補助と外地語注記が入ったサフィヤのもの。
セシルはその三枚を見比べたあと、露骨に嫌そうな顔はしないまま、しかしどう見ても `ろくでもない組み合わせ` を前にした時の手つきで、同じ束の上へ重ねた。
その瞬間、リネットの背中を、朝とは別種の寒気が走った。
「……見ましたか」
隣で、アリスが小声で言った。
「見ましたけど」
「たのしそうですね」
「どこがですか」
「まだ決まっていないのに、もう困っておられます」
たしかに、そうだった。
仮班表はまだ出ていない。
何も決まっていないはずなのに、もう向こうが困っている。
アリスルールは、硝鏡庭の鏡面へ最後に一度だけ目をやった。
さっきまで人の顔と剣筋を映していた床には、いまは夕方の光しか残っていない。
「よい庭でした」
その感想だけは、どうしても賛成できなかった。
十九層から下りる回廊は、行きより少しだけ騒がしかった。
同級生たちはそれぞれ、自分の見せたもの、自分が見られたものの話をしている。
だがアリスの名前が混じるたび、声色は少しだけ変わった。
興味と、警戒と、近づきたくなさが、きれいに混ざっている。
同じ年次で、これほどやる。自分たちより5歳も6歳も幼い少女が。
その現実が、ようやく全員へ行き渡ったのだろう。
回廊の途中で、上へ向かう三年生の群れとすれ違った。
彼らは硝鏡庭の話など知らないか、知っていてもどうでもよさそうな顔で通り過ぎていく。高い階へ行く人間の歩き方だった。
そのことに、リネットは少しだけほっとした。
そして、少しだけ腹も立った。
この塔では、自分たちの騒ぎはまだこのくらいの大きさなのだ。
低層の、初年の、硝子庭ひとつ分。
けれど、その小さな庭の中で起きたことだけでも、充分すぎるほど面倒だった。
翌朝、仮班表が出る。
その事実だけで、足取りが重くなる。
隣ではアリスルールが、手袋の薬指を光にかざしていた。
嬉しそうに、子供みたいに。
たぶんこの子は、誰が困るかではなく、誰がどんな顔で困るかを、もう楽しみにしている。
リネットはそれを見て、心の底から嫌な予感がした。
そして嫌な予感はたいてい、巨塔では外れない。




