2章 第28話 夜の問答
その夜、客棟の廊下は、いつもより静かに感じられた。
戦の勝報が届いた日でさえ、厨房の奥からは鍋の音や下働きたちの笑い声が漏れていたのに、
今夜は扉の隙間を伝ってくる音がやけに少ない。
アムレストはもともと騒がない土地だが、それでも空気の密度というものはある。
三度の徴収のあとに王族が訪れているという事実が、皆の口を重くさせているのだろう、
とリンドは思う。
ノックの音は、一度だけ、控えめに響いた。呼びに来たのはカイだった。
「リンド様、殿下がお話をとのことです」
声はいつも通りだが、喉の奥に緊張が残っているのがわかる。
リンドは頷き、廊下を進んだ。
客棟の一室、第一王子が三日だけ眠ったあの部屋と同じ作りの部屋、
その隣が今夜の場だと聞いていた。
扉の前で一呼吸おき、軽くノックをしてから中に入る。
室内には灯が二つ、壁際に置かれた燭台と、低い卓の上に置かれたランプが、
橙の光で輪郭を柔らかく削っていた。エリオスは椅子に腰をかけ、
卓に広げた地図を眺めていた。鎧ではない、柔らかな布の衣だが、立場の重さは隠れない。
「来てくれてありがとう、リンド」
名前を呼ばれ、リンドはわずかに姿勢を正す。
王族に名を呼ばれることは、慣れるものではない。
「お呼びと伺いましたので」
形式どおり答え、向かいの椅子に座るよう促される。
一瞬、言葉の間が空いた。エリオスは地図から視線を離し、窓の外の闇へと目を向ける。
川の流れは見えないが、耳を澄ませば遠くでかすかな水音がする。
「兄がここで休んだと聞いたときから、一度この目で見たいと思っていたのです」
リンドの視界に、淡い文字が滲む。
【兄上は何を手に入れた】
その一文だけが、かろうじて形を保ち、その先はまたざらついたノイズに飲まれた。
「敗戦のあと、三日で軍を立て直し、あの丘を奪い返した。
報告だけ聞けば、それは“才能”という一言で片づけられるかもしれません。
しかし、私はそういう言葉が嫌いでしてね」
エリオスは苦笑を浮かべる。
「才能と言ってしまえば、そこから先を考えなくて良くなる。
けれど私たちは、考えなくてはならない立場です。
勝ち方も、負け方も、その後の立ち直り方も」
リンドは黙って聞く。
【戦場を見ていない】
【だから知ろうとしている】
断片が、今度は比較的はっきりと読める。
「アムレストは、兄が敗れた後に選んだ静養地だ。
その選択に、この土地の何かが関わっているのではないかと、そう考えています」
そう言って、エリオスはリンドのほうをまっすぐ見る。
「君は兄と、何を話しましたか」
昼間、市場で投げかけられたのと同じ問いだった。
だが、夜の静けさの中では、その重さが違って聞こえる。
リンドは一瞬だけ目を伏せ、自分の内側も同時に覗き込むようにしてから答えた。
「戦の話は、ほとんどしていません」
「では?」
「疲れの、抜け方の話です」
エリオスの眉がわずかに動く。
「……疲れの」
「王子は、“ここは静かだ”と、それを何度も口にされました。
ただそれだけで、ほとんど何もお話にならない日もあったくらいです」
リンドは、あの三日の記憶をたどる。
川の音、窓の外の畑の色、第一王子が黙ったまま椅子に座り、
目だけで部屋の隅を順に辿っていた姿。
「戦場での判断や布陣については、一切語られませんでした。
むしろ、何も語りたくないように見えました」
エリオスはしばらく沈黙し、卓上の地図に視線を落とす。
リンドの視界に、また文字が現れかける。
【兄上は強い】
【だが壊れていないとは限らない】
そこまで読めたところで、文章はまた崩れた。階層が深すぎるのだ。
「君の町は、変化を好まないと伺いました」
話題を切り替えるようでいて、つながっている。
「そういう文化です。悪い面も、良い面もあります」
「良い面、ですか」
「戦が遠いことです。変わらない日常を、変わらないまま続ける技術に長けている」
言いながら、リンド自身、自分の言葉にわずかな違和感を覚える。
この数ヶ月で、その“変わらない技術”がどれほど削られたかを知っているからだ。
「三度の徴収で、その日常の余白を奪いましたね」
とエリオスが静かに言う。
その声音に責めはない。
ただ事実を置いているだけだ。
リンドは頷く。
「余白は、ほとんど残っていません」
【余裕が消えた土地】
【それでも静かだ】
エリオスの内に、一瞬だけ整理された文字が現れ、すぐに別の層に沈んでいく。
「君は、その変わらない町をどう思っているのですか」
問われて、言葉が喉の奥で重くなった。
リンドは自分の中に浮かぶ文字を、あえて
【】として読み上げるような感覚で探る。
【好きだ】
【息苦しい】
【守りたい】
【壊したい】
互いに矛盾する言葉が、同じ強さで並ぶ。
「……まだ、決めていません」
正直に言うと、エリオスは短く笑った。
「それは贅沢ですね。決める前に動かせと言われる立場もある」
【自分は動かない】
【兄上は動きすぎる】
そんな意味の断片が、かろうじて伝わる。
「兄の戦は“戦そのもの”だったと、護衛が言いました。
君の町の静けさもまた、“静けさそのもの”だと感じました」
エリオスは、窓の外の闇に目を向けたまま続ける。
「私は今、その両方を測っている最中なのかもしれません」
測る側。読めない側。
リンドは、目の前の王子を“理解できない存在”としてではなく、
“読めないままそこに在る存在”として受け入れるしかないと、ぼんやり思った。
部屋を出るとき、エリオスはふと、何気ない調子で付け足した。
「今日、君の領で一人、気になる人を見ました」
心臓が、わずかに跳ねる。
「……どなたでしょう」
「名は聞きました。ルミナ、だったでしょうか」
リンドの視界が一瞬白む。
スキルでも何でもない、純粋な驚きの感覚だった。
エリオスの内に文字が浮かびかける。
【光】
【静けさ】
【揺らぎ】
唐突に、全てがかき消えた。
「ただの印象です。また明日、もう少し町を見てから帰ります」
それだけ告げて、エリオスは話を打ち切った。
リンドは深く礼をして部屋を辞した。
廊下に出た瞬間、ようやく息を大きく吐いたことに、自分で気づいた。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
この物語は、派手な奇跡ではなく、小さな選択と積み重ねを
大切にして書いています。
リンドの一歩一歩が、少しでも皆さまに届いていれば嬉しいです。
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これからも静かに、誠実に物語を積み上げていきます。
引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。




