2章 第29話 ルミナの夜
その夜、ルミナはいつものように、小さな窓から外を眺めていた。
城館から離れた路地に面した借家は、夜になれば風の通り道になる。
遠くに見える屋敷の灯りが、いつもより多いことは、彼女にもすぐわかった。
王族が来ているらしい――そう聞いたのは、昼の市場へ向かう途中だった。
誰もが声を潜め、しかし好奇心を抑えきれずに噂話を繰り返していた。
「戦で勝った王子の弟だ」
「礼を言いに来たそうだ」
「監察ではないのか」
という断片が、あちこちで飛び交っていた。
ルミナは人混みから一歩だけ距離を取り、いつものように店の手伝いを済ませ、帰り道を急いだ。
王族を見たいわけではなかった。
見てしまえば、自分の中の何かが揺れると、なぜか直感していたからだ。
それでも、一度だけ足を止めてしまったのは、通りの奥に見慣れない一団の影が見えたからだ。
中央の青年は飾り気の少ない衣を纏っていたが、その立ち方だけで自分が“普通ではない側”の人間だと告げていた。護衛が距離を取り、住民たちが遠巻きに道を空けている。その中央で、彼は町を見ていた。
目が合った、と思った。
実際には、ほんの瞬き一つ分ほどの時間だったかもしれない。
それでもルミナは、自分の中で何かが微かにずれるのを感じた。
“怖い”ではない。“憧れ”とも違う。ただ、測られているような感覚だった。
自分という“点”ではなく、この町に張り巡らされた何かの“交点”として、視線を通り抜けられたような。
彼が父に何か問い、父が短く答え、「ルミナ」と名を出した瞬間、身体の内側に冷たいものが走った。
王族に名を知られることが、どういう意味を持つのかを、理屈ではなく感覚で知っていたからかもしれない。
声をかけられなかったのは、おそらく礼節のためだろう。それでも、あの一瞬で十分だった。
(あの人は、何を見ているんだろう)
窓辺で膝を抱えながら、ルミナは思う。
戦のことも、徴収のことも、細かな数字や帳簿の動きまでは知らない。
ただ、今年の冬が例年よりも重くなるという予感だけは、町の空気から感じ取れていた。
怒りを叫ぶ人はいない。暴れる人もいない。皆、静かに淡々と日々を続けている。
だがその沈黙は、受け入れとは違う。諦めとも少し違う。
表向きの穏やかさの裏にある、どうしようもない疲れや辟易を、こうやって曖昧な言葉にしてやり過ごす術を、この町の人間は皆どこかで身につけているように思えた。
リンドのことを考える。
彼は領主の息子として、この静かな圧の真ん中に立たされている。
こちらから見ればまだ十代の若者だが、その目は時折、自分よりもずっと年上に見えるときがある。
(あの王子も、同じような目をしていた)
思い返せば、昼間の一瞬、エリオスの目に宿っていたのは“勝者の余裕”でも“王族の驕り”でもなかった。ただひたすらに、「知りたい」という色だった。
何を知りたいのかは分からない。兄の戦果の理由なのか、この町の静けさの正体なのか、それとも――
窓の外の灯りが一つ消えた。客棟か、本館か、どこかの部屋の会話が終わったのだろう。
ルミナは膝をほどき、立ち上がる。
明日も市場へ出る。王族が滞在していようと、仕事は変わらない。
だが、明日の町は、今日と同じ顔でいられるだろうか。
自分の胸の内も含めて、その答えはまだ分からないままだった。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
この物語は、派手な奇跡ではなく、小さな選択と積み重ねを
大切にして書いています。
リンドの一歩一歩が、少しでも皆さまに届いていれば嬉しいです。
もし続きが気になる、応援してもいいと思っていただけましたら、
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
いただいた反応は、今後の執筆の力になります。
これからも静かに、誠実に物語を積み上げていきます。
引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。




