謎の男
『指先の宿り木』
そこがチェルシーの宿泊している宿だった。酒場に行く事を告げに、ヨハン達はチェルシーの泊まる宿に訪れたのだ。
訪れた宿はヨハン達の宿とあまり変わらず老朽化の進んだ様に見えるが、玄関を潜ると一階は食堂ではなく、小さなフロントに男が座っており、その奥は長い廊下に扉がいくつか見える。
一部屋の広さはあまりないタイプの宿泊所のように見えた。恐らくだが、複数人で宿泊する事を想定しておらず、一人で止まる最低限の広さの場所を提供しているのではないかと予想できた。
思えば、宿という商い自体が村育ちのヨハン達からすると新鮮なものである。
併せて、部屋の狭さには大いに驚いた。
ヨハン達は、ヨハン、コギル、ポルルの男性組と、シモン、ベズィー、トーアーサの女性組で三人部屋を二つ借りているのだが、ベッドの数こそ3つずつあるものの、広さが一人部屋なのではないかと疑う程だった。
しかし、それが不快だというわけではない。村で生まれた人間は原則として村から出ることなく一生を終えるのが普通なので、こういった体験自体が興味深いし、ワクワクする出来事だったのだ。
ヨハンはフロントで頬杖をついてダルそうにしている男に要件を告げると、「二階の三号室だ」、とやる気のない答えが返ってきた。
次いで、階段を上がるヨハン達の背に「問題起こすなよー」とやる気のない声が聞こえてきたので、「わかりました、ありがとうございます」と、一体何がありがたいのか自分でもわからなかったが、とりあえずはそう返しておく。
そうして、二階に上って「3」と書かれたドアを見つけたヨハンは、ノックをしながら中に居るであろう人物に声を掛けた。
「チェルシー姉さん、ヨハンです、少しいいですか」
「……少し待ってください」
そんな声が聞こえてすぐ、ドアが開いて「どうかしましたか」の声と共にチェルシーの姿が見えた。
しかし、ヨハンの目には他の人物も映る。
フード付きの外套に身を包む男が、チェルシーの部屋に居たのだ。
男とわかったのは、身体の線だ。顔で分からなかった理由は、その男はフードを目深に被っており、顔が良く見えなかったのである。
不躾ながらも訝しむように数秒その男に目線を送ってしまったのは、その男の纏う雰囲気のせいだった。
男はただ立っているだけである。けれど、その佇まいは隙がなく、どこか怪しさを感じるものだったのだ。
とはいえ、チェルシーの部屋に居るのだから、チェルシーの客だという事になる。そんな人物にいつまでも疑いの眼差しを向けるわけにはいかない。
傍らのシモンが剣の柄に手を伸ばそうとしているのが視界の端に入ったので、慌ててチェルシーに笑顔で声を返す。
「えっと、相談があったんですが、ごめんなさい、忙しかったですか?」
「……いえ、もう終わりました。部屋は狭いので、外で話しましょうか」
「はい」
言って、ヨハンは早速外に向かう。
確かに、垣間見えたチェルシーの部屋はとても狭いように見えた。
ベッドが1台と、小さな机、椅子がそれぞれ1脚置かれており、それだけしか家具が無いにも関わらず、ヨハン達6人が入ると、肌と肌をくっつけて会話をしなくてはならないだろう。
(しかし、あの男は一体何者だろう)
そう思いながら玄関先で待つ事数分。チェルシーは例の男を伴って宿を出て、男に目だけ向いて「では、お願いしますね」とだけ言う。
男は何も言わず、普通の歩幅、普通のその他大勢と同じような、それでいて一切体幹がぶれておらず、足跡が残ったとしたら、綺麗な一直線になっているであろう隙の無い歩き方で去って行った。
恐らく、チェルシーの言葉に反応を示さなかったのは、他人の目を気にしてなのだろうとヨハンは感じていた。
フードを目深に被っているという事は、顔という情報を隠しているのだ。声という情報も隠したい筈である。
そして、頷くでもなく立ち去ってしまったのも、チェルシーとの関係性を無駄に露呈する事を避けたのではなかろうか。
頷く角度、顔の方向、その時の体の向き、様々な情報から推察をする事ができるし、ヨハンも、そこから読み取ろうとじっと観察していたくらいである。
だが、見事に隠してしまった。
そしてこうまで徹底してあらゆる事に気を配る人物だという印象が付いた相手は、敢えて嘘の情報を流すのも容易となるし、その逆の駆け引きも容易になる。
必死に隠そうとしている相手が、ポロリと秘密を明るみにしてしまったなら、まずは疑うだろう。
これは、狙って明るみにしたのではないだろうか。つまり、嘘の情報なのではないだろうか。
しかし、隠すのが上手い相手からようやく手に入れた情報なのであれば、その情報が本当であって欲しいという深層心理も働き、相手の不手際をうまく見つけたんじゃないだろうかという希望的観測が顔を覗かせてしまう。
情報戦に長けた人物であれば、それでも複数の情報で裏が取れなければ信ぴょう性を疑うだろうが、複数の情報を取得する事ができないままに時間は過ぎてゆくとすれば、ずっと揺さぶられ、消耗する事になるかもしれない。
つまり、不必要な事でも隠すという行為一つで、情報戦において切れるカードが一枚増えるのだ。
きっとあの男はそれを意識してやっている。そんな予感がヨハンにはあった。
チェルシーとどういう関係にあるのだろうか。危険ではないのだろうか。そんな不安が、ざわざわとまるで夜の森で風が吹いた時のような音を立てる。
「あなたは見なくていい世界の人間ですよ、ヨハンくん」
チェルシーの優しい声が耳から入った。
しかし、言葉は優しいものではない気がする。だから、ヨハンは一拍考えて応える事にした。
「見なくていい世界なんて、あるんでしょうか」
「あります。言い換えるなら、見てもしょうがない世界ですかね」
謎掛けのような言葉を受けて変な顔をしていると、チェルシーは何かを懐かしむような、そんな顔をして事を続けた。
「あなた達はいずれ勇者一行と共に旅をするんだと聞いています。勇者は政治的象徴であって、それ以上でもそれ以下でもありません。だから、あなた方に求められるのは、人間であって人間でないような、そんな正しさと強さです」
言われて、妙な気分になる。
言外に、勇者は別に何も為さなくてもいいと言っている様に感じたからだ。
いや、行動や成果がなければ象徴として弱い、だから強さも必要だし、魔王を倒すという実績も必要と言いたいのかもしれないが。
「そして、その勇者を利用する国や貴族も、勿論国民や自領の民を導く旗であり道標ですから、普通の人間では務まりません。貴族として生まれたからには自由意志など許されません。いえ、本人や家族が許しても、民が許してくれません。常に人間には不可能な程の正しさを求められ、間違える事などもっての他です」
そう語るチェルシーの目は、どこか悲しく、後悔に揺れているように見えた。
「そして勇者と貴族の違いですが、貴族の場合は、道標になると同時に、民の人生の裏方にもならなくてはならないという事。決して間違えてはなりません。誰がどう見ても間違えてしまった場合であっても、間違いだと認めてしまうと要らぬ争いが起こってしまうので、間違ったものを正しかったと塗り替える必要があります。清濁を併せ呑んで進んでいく必要があるのです」
ヨハンは黙って聞いていた。ヨハンだけでなく、その場の人間全てが黙って聞いている。
言いたい事もある。反論したい事もある。それでも、きっとチェルシーの人生で学んだ貴重な体験に基づく話をしてくれているんだと誰もが分かっているから、何も言わないのだ。
そんな様子に、チェルシーはにっこりと笑って続けた。
「と言っても、私は自分の人生を求めてしまった、出来損ないですけどね。話が逸れましたが、勇者に濁の部分を求める必要はないのです。清だけを求めなさい。それだけでも、人の身ではとても過酷な事なのですから」
父、ペトロとは違う説得力だった。
ヨハンは夢想する。もし、母親が居たとすれば、こうやって人生について教えてくれていたのだろうか。
今まではペトロの教えしか頭の中になかったヨハンに、別の方向性のアプローチが加わった心地である。
そんな事を思わせてくれたチェルシーに、ヨハンは尊敬と感謝の眼差しを送った。
きっと、シモンも同じような顔をしているだろう。
そして確信した。チェルシーは貴族なのだろう。話しぶりから元貴族という立ち位置なのかもしれないが。
そうして、ヨハン達が尊敬の眼差しをしていると、チェルシーは「そう言えば、どういう用なんですか?」と聞いてきて。
酒場に遊びに行きたいという要件を伝えるのが、少し恥ずかしい気持ちだった。




