見えない壁
「すげえ! なんというか、すげえな!」
コギルが、立ち上がって興奮した面持ちで言う。
その言葉を補足するかのように、ベズィーが後に続いた。
「冬の寒い時に布団から出られないって姿が浮かんだよ。あれかな、最初に冬眠って言葉が入ってたから冬ってイメージがあるのかな」
その場の全員がシモンを褒めちぎり、シモンはそれを笑顔で受けとめる。
その様子を、ヨハンは微笑ましい思いで見ていた。
しかし、少年少女たちの好奇心は強い。次第に、シモン以外の歌についての話題に移っていった。
「確か、町の酒場とかに吟遊詩人っていうのが居て、歌で稼いでるんだよな? 俺は見た事ないけど」
そういうコギルに、シモンが顎に指をあてて考えるようにし、応える。
「えーっと、確かお父様が言うには、詩人にも種類があって、伝記とか風聞の詩人さんより、創作の詩人さんがオススメだって言ってたかな。私の詩も創作になるって言ってた」
「へえ! そうなんだ。でも、シモンちゃん以外の歌も聞いてみたいね!」
言いながら、まるで中の良い姉妹のようにシモンの腕に絡みつくベズィー。
コギルもポルルに対して半ば強引に肩を組んでいる。
その様子に、ヨハンは微笑ましくもあり、少し寂しいような気持ちになっていた。
ヨハンとシモンは兄弟ではあるが、あまりべたべたと引っ付く事はしない。トリスメギストス家では、時折父であるペトロが愛情表現で抱擁をしてくれるが、それ以外は基本的にパーソナルスペースが広いのである。
ヨハンの予想ではあるが、これは家長であるペトロが他人に対して警戒心が強く、また、他人を尊重する性格であるからこそ、どこか一歩引いたような人づきあいを是としているのではないかと思われた。
そして、トリスメギストス家は村の人間との交流があまりない。
よって、ヨハンとシモンの中では、トリスメギストス家の習慣こそが全てなのである。
だから、別の村出身のベズィー達の物理的な距離感の近さにはいつも驚く事が多かった。
といって、寂しく思うのは、シモンは既に順応している様に見えるのに、自分はそうできないからだ。
今もベズィーに腕を絡められているシモンは、ベズィーやトーアーサに後ろから抱き着かれたり、手を繋がれたりする事を笑顔で受け入れている様に見える。
対して、ヨハンはというと。
(いや、別に拒絶してるわけじゃないんだけどね)
胸中で自嘲気味な笑みを浮かべながら呟く。
確かに拒絶はしていない。誰に対しても馴れ馴れしい態度、言い換えれば人懐っこい態度をするコギルだが、ポルルにはじゃれ合いで首を絞めるように肩を組んだりすることはあっても、ヨハンには絶対にそのような事をしてこない。
ポルルにしたってそうだった。
思慮深い彼は、自分から他人と触れ合おうとはしないが、それでも、ヨハンとの距離が他よりも一歩遠い、そんな気がするのだ。
一歩。たった一歩だけ。それがまるで世界を隔絶する壁のようにも感じるのである。
例えば国境のような。例えばコップの外側と内側のような。
「ねえ、ヨハン君も歌えるの?」
メンバーの中で最もヨハンと物理的な距離を置く存在、ベズィーがちらちらとヨハンを見ながらそう言った。
彼女は特にヨハンと物理的な距離をとっているように感じていた。
ヨハンもそれには気付いており、だからこそ距離を縮めようと特にベズィーに話しかける頻度を多くしているつもりではあった。
けれど、その成果は今のところ出ていない。
ヨハンの考えでは、恐らく皆との最初の遠征、森にペトロに贈る杖の材料を探しに行った際に、泣かせてしまった事が原因ではないかと考えていた。
思考が下に向いてしまう前に、ヨハンは頭を掻く仕草をしながら笑みを浮かべ、口を開く。
「僕は、あんまり得意じゃないんだよね」
「えー! でも聞きたい!」
「ベズィー、嫌がってる相手に無理やりはよくない」
気持ち前のめりになるベズィーに、釘をさすように言うトーアーサ。
申し訳ない気持ちで眉をハの字にしながら、ヨハンは「ごめんね」と謝っておく。
「お兄様は、一所懸命過ぎて声が固いんだよね。音痴ではないんだけど、音程をしっかり合わせようとし過ぎてる感じ? もっと楽に歌えばいいのに」
フォローするように、シモンが口を挟む。
そんな妹を見るヨハンの顔には、僅かに影が差していた。
皆との距離が縮まらない原因は、こういう所なのだとヨハンは自覚している。
歌くらい、下手であってもいいから歌えばいい。それで失うのは、何もない筈だった。
いや、失うとすれば、下手だと思われた場合に印象や評判を失う。きっと、それが怖いのかもしれない。
これがヨハンと妹との決定的な違いだ。妹であるシモンは、合理的な考えを即断即決する。だからここで評価が落ちたとしても、それが大したリスクではないと思って行動できるのだろう。
評価が落ちても大したリスクではない、その考え自体はヨハンも同じ考えだった。
けれど、二の足を踏んでしまう。どうしても踏ん切りがつかないのである。
たったそれだけの小さな差が、疎外感の原因だろうとヨハンは考えていた。
皆が原因で距離をとっている訳じゃない。ベズィーにしても、泣かせた事だけで距離を置いている訳でもない筈だった。
(つまり、原因は全部僕の中にあるんだ)
ヨハンはそう結論付けていた。
それは随分と偏った一方的な考えであるのだが、家族以外との人付き合いなど殆どせずに成長したヨハンは、その結論が正しいと思い込んでいるのである。
そんなヨハンの心の内などは他所に、コギルの明るい声が響く。
「でもさ! 他の人の歌も聞いてみたいと思わないか?」
「他の人っていうと?」
首を傾げて問うベズィーに、コギルは何を現そうというのか、大きなボディランゲージで説明を始める。
「酒場に行ってみようぜ! きっと吟遊詩人がいるはずだ!」
好奇心旺盛な青年たちにとって、それは最高の計画に思えた。
しかし、異を唱える者もいる。
「無理だよ、ゾモスさんとネモフィラさんが酒場は入っちゃ駄目って言ってたし」
そう弱々しく言ったのはポルルである。
別段、酒場に入る事に年齢や職業で法的に制限される事はない。
ただし、成人していない15才未満だと店側が嫌がる事が多いという実態もある。そういう側面で見るとポルルは14才であるため、店側もいい顔をしないだろう。
成人していないかという理由で酒場が嫌がる理由は、トラブルが起きた際の対処に困るという事だった。成人している人間がトラブルを起こした場合、全ての責任はその人物が被る事になるし、仮にも成人しているのだから賠償にあたっても様々な手段が考えられる。
しかし、相手が成人していないと話は変わってくるのである。
この国の法では、成人していなくても基本的には本人の責任だが、親にも責任を問う事ができる。
これが厄介で、親が責任を取りたくない場合、子供と親で責任を擦り付け合う事もあるのだ。
それに、子供はトラブルを起こす原因になりやすい。一見して弱そうに見える子供であれば尚更だ。荒くれ者にとっては良いカモに見えてしまうかもしれないのである。
そしてそんなリスクがある子供なのだが、大金を持っている事は滅多になく、少額で飲食をし、大した売り上げにもならない事が多いという事もあって、リスクに見合うメリットが見当たらないのだ。
だから酒場側からすると、表立って入店拒否こそしないが、入って欲しくないという店が多いだろう事は容易に想像がつく。
だが、ネモフィラ──は何も考えていない可能性があるが、少なくともゾモスが酒場を禁じた理由は店側の立場を慮ってのことではない。
トラブルが多い、この一点をもって入店は良くないと断じているのだ。
これは正論と言えた。
仮にも一度死刑判決を受けたヨハン達が、現時点では監視付きで自由行動を許されているのだ。
そんな時に、トラブルの原因となりやすい場所に足を運ぶなど、もっての外と言えた。
しかし。
「だからさ、二人には内緒で俺たちだけで行こうぜ」
興奮した面持ちのコギル。その興奮が体から溢れているのか、傍らに居たポルルと強引に肩を組み、頬と頬をくっつけるようにして笑っている。
ポルルは「痛いよう」と半ば何かを諦めたような顔をしているが、その表情はどこか期待のような物を覗かせている気がする。
しかし、今度はシモンが制止役を買ってでる。
「でもさ、流石に監視対象の私達が姿を眩ませるっていうのは流石にまずくない? もしそうするにしても、チェルシー姉くらいには話しておいた方がいいと思うけど」
「確かに、無断はよくない」
同意したのはトーアーサだ。
コギルだって何も誰かに迷惑を掛けたいと思っている訳ではない。だから、そう言われると弱いのか、「あー、まあ、確かに」と言って困った顔をする。
そして、一同の視線は一点に集まった。
ヨハンを伺うように、皆の視線が集まる。
この話を切り出したコギルは、何かを期待するような目をしている。
コギルだけではない、制止の側に立ったシモンも、実際は酒場や吟遊詩人に興味があったのだろう。
どちらでもいいというような顔をしているが、長年一緒に生活してきたヨハンにはわかるのである。本当は酒場に行ってみたいと思っている事を。
それはきっと、この場に居る全員がそうなのだと感じていた。ベズィーもトーアーサも、一見嫌そうにしているように見えるポルルもだ。
そしてそれは、ヨハンとて同じだった。
大人びて見えるが、心は結局、好奇心旺盛な青年の一人であるのは変わらないのである。
しかし、一瞬一呼吸を置いて考える事を忘れない。
(普通に考えて、無用なリスクを負う必要なんてないんだけど)
普段であれば、正攻法を説いたかもしれない。
つまり、ゾモスとネモフィラを説得し、同行してもらわない限りは駄目だという方向で話を進めただろう。状況的に考えて、不可能に近いという事はわかっていても。
けれど、今、ヨハンの心に渦巻いているのは、そうやって皆の期待や方向性と逆の決定ばかりしていると、どんどん距離が離れていってしまうのではないかという、漠然とした不安だった。
時には合理的ではない事、馬鹿に見えるような事でも、一歩を踏み込んでみた方がいいのではないだろうか。
顎に手を置き、考える事数秒、ヨハンは心の中で、「よし、これでいこう」とつぶやき、答えを出した。
「じゃあ、僕たちで酒場に行こう」
「いいのか!?」「やった!」「慎重なお兄様らしくない、けど楽しみ!」
そんな上ずった声が聞こえてくるが、ヨハンはその場の皆の興奮を手のひらで制し、付け加える。
「ただし、チェルシーさんには場所を伝えておこう。甘えているように聞こえるかもしれないけど、何かあった時に助けてくれる人は必要だと思うし、ゾモスさんたちから緊急の用があった時に、どこにいるかわからないのは避けたいからね」
「「「はーい」」」
賛同の声を得て、ヨハン達は酒場に向かう準備をするのであった。




