031 姉のこころ(※ 宗谷 亜紀)
お姉さん視点。
時系列的には、噴水公園に出かける少し前の話になります。
「タケくんは、今日も無事に帰宅できそうね」
わたしは、スマートフォンに表示された地図アプリを閉じた。
弟の武人はいま、近くのバス停に無事到着した。
あと五分もすれば家のセキュリティが帰宅を知らせるだろう。わたしは、出迎えるために階下へ向かった。
「ただいま、姉さん」
「おかえり、タケくん。学校はどう?」
「うん、みんな親切だよ。ただ授業は少し、レベルが高いかな」
「あそこは優秀な女子が通ってくるから、しょうがないわね」
弟の通う伊月高校は、偏差値でいえば70を越えている。
はっきりいって、受験勉強をしていない武人がついていけるレベルではない。
だが、学校側もそれは承知。落ちこぼれないよう、フォロー体制は万全らしい。
大学への推薦も問題ないと聞いている。
ゆえにわたしは、弟の学業について、あまり心配していない。
「姉さんは今年受験でしょ。勉強ははかどってるの?」
痛いところをついてきた。
「うーん、微妙かな。まあ、やれるだけやるつもりだけど、最悪、特区外に通うことになるかも」
武人の家族ということで特区内に住む許可は得ているが、わたしの場合は、大学卒業まで。
その後も特区内に住み続けるには、本人の努力がものをいう……のだが、それは母親を見ていると、気持ちが揺らいでしまう。
特区に住むために定年まで努力し続けることが、わたしにできるだろうか。
ちょっと難しい気がする。
「母さんは?」
「遅くなるって連絡があったわ。ごはんはわたしがつくるからね」
「ありがとう、姉さん。でも受験勉強も大事だから、ときどき俺も手伝うよ」
「いいわよ。そんなことが外に知られると、わたしも母さんも肩身が狭くなるから」
「そっか。……でも、大変だったら言ってよね。無理しないで」
「大丈夫よ」
優しい言葉を残して、弟は二階へあがっていった。
弟のおかげで特区に住める身の上。それなのに家事までやらせるなんてと、世の良識ある女性たちから非難されかねない。
「よし、夕飯の準備でもしますか」
腕まくりしつつ、今日も仕事で遅くなる母のことをわたしは考えた。
男性のいる家族は、特区に住むことができる。
希望すればほぼ無条件で、それが叶う。
だからこそ母は、がむしゃらに働いている。
わたしはそう思っている。
「みんなの模範にならなきゃ」
ことあるごとに、母はそう言う。
模範とは、人より早く出社し、人より遅く退社することを指すようだ。
だれからも後ろ指をさされないよう、母は懸命に生きている。
だからこそ、弟の面倒は自分が見なくてはと思った。
だが数ヶ月前、その弟に最大の試練が訪れた。共学校へ進学することが決まったのだ。
母に代わり、自分が弟の面倒をみると意気込んだはいいが、いざ問題に直面すると、どうしていいか分からなくなった。
共学校に通うことが決まった直後から、武人の精神は大きくマイナス側に振れてしまった。
そんなとき、女性であるわたしが、どう声をかければいいのか。
正解が分からなかった。
ゆえにしばらく「そっとしておく」という方法を選んだ。
それが最良だったのか、いまも分からない。
春休みが終わり、学校に通うようになると、武人の精神は落ち着き、以前の明るい姿を取り戻した。
いや、それどころか、積極的に女子と接するようにさえなっていた。
「成長したということかな」
あの、いまにも消えてなくなりそうだった武人を見なくて済んだのはよかったが、あまりにも変わりすぎて、最近は距離感が掴めずにいる。
「よし、下ごしらえはこれでいいとして……」
鍋を火にかけたところで、もう一度、母のことを思い出す。
いま余裕がないのは、武人ではなく母の方ではなかろうか。
母の寝室にある書棚。
そこの二列は、息子を持った母親のための教育書で占められてる。
男子を産んだ喜びとともに不安になったのだろう。
本の発行年月日から、弟が生まれた直後にまとめて購入したようだった。
あのようなハウツウ本に頼るような母ではないはずだが、すがるものが欲しかったのかもしれない。
周りから後ろ指さされないために。
幸い、武人の教育は成功している。
共学校にも慣れつつあるのか、心にも余裕が感じられるし、家族への気遣いもできる。
逆に母が教育本を書いてもいいくらいだ。
それで世の女性たちを啓蒙してもらいたいと思う。
「姉さん、ヒマだし手伝うよ」
武人が二階から下りてきた。
「いいわよ、もうすぐ終わるし」
「じゃ、一緒に作ろうか。俺も料理したくなっちゃったんだ」
「そうね……じゃ、一緒にやりましょう」
やはり、武人はまっすぐに育っていると思う。
時々味見とは思えない量を小皿に盛っているところを除けば、所作は昔の武人とまったく変わらない。だけど、内面は大きく成長している。
一気に大人になっていく弟に置いていかれそうな気分を味わうとは思わなかったが、これはいい傾向だと思うことにする。
「ねえ、武人」
「なに?」
「この前、ラミネートを使ったでしょ。何したの?」
「ああ、あれ? そうだな、姉さんにも意見を聞いた方がいいかも」
「意見って……なによそれ」
「ちょっと持ってくるから、待ってて」
そう言って武人は二階へあがっていってしまった。
意見とはどういうことだろうか。最近、弟の考えが読めない。
鍋をかき混ぜながら待っていると、武人は手に数枚のカードを持っておりてきた。
「今度、中学のとき同じ班だった子たちに渡そうと思うんだけど、どうかな」
「なにを渡すの?」
学生証くらいの大きさのカードだった。
キレイにラミネートされて、角は丸く処理がされている。
カードの表面を見て、それから裏を見る。
「……武人、これ」
「俺なりの感謝の印ってとこなんだけど、どうかな? 重い? 重いとやっぱり嫌われる? 面倒くさい男だと思われたりしないかな」
自信なさげに、そしてやや上目遣いにわたしを見てくるが、それはどうでもいい。
「重いとか、面倒くさいとか……」
「うん、なに?」
「それ以前に……」
こんなものを貰った相手は、感動のあまり、泣き崩れるのではなかろうか。
相手が望むとき、いつでも、何度でも、どこでもハグができる券など、世界広しといえども、もらった女性は皆無だろう。
それをどう告げようかと悩んだものの、弟の顔を見ているうちに何も言えなくなった。
自分もそんな相手を見つけたい。心の底からそう思った。
目の前のこのイケメンは、なぜわたしの弟なのだろう。
なぜこんなにも素晴らしい男性が、わたしの弟なのだろうか。
神様がいるなら、呪いたい気分だった。




