167 郁美さん宅にて
日曜日。
朝から俺と姉は、特区南西部に向かった。
そこに郁美さんが住んでいるマンションがある。
「いい場所だね」
駅から遊歩道を通ってマンションまできたが、緑に囲まれたとても過ごしやすそうな場所だ。
「マンションも新しいし、最近できたものかもしれないわね」
遊歩道を歩いていると、ジョギングする若い女性たちと何度もすれ違った。
特区は、中心部に行くほど商業施設が立ち並んでいる。
外縁部にはアパートやマンション、テラスハウスなどの集合住宅が並んでいる。
俺たちが住む戸建ての住宅地はその中間にあることが多い。
平日の日中は、外縁部から中心部へと人が流れる構造になっている。
このマンションも外縁部にほど近い場所に建っているものの、周辺の建物に比べてグレードが頭一つ抜けているように思う。
「子育てヘルパーって、儲かるんだね」
「特級だからかしら? これ分譲っぽいわ」
特区内の分譲マンション……外なら、庭付き一戸建てが買える値段がするだろう。
年間の維持費がいくらになるのか、知るのが怖い。
入口はオートロックらしく、姉が『703』の番号を押す。
少しして、応えがあった。
「おはようございます、亜紀です」
『いらっしゃい、いま開けるわね』
スピーカーから懐かしい声が聞こえ、ガチャリとロックが外れる音がした。
俺たちはそのままエントランスホールを抜け、エレベーターに乗り込んだ。
市原郁美さんは、忙しい母の代わりに俺を育ててくれた女性だ。
家族を除けば、もっとも身近にいた女性ということになる。
無条件で安心できてしまうような、そんな雰囲気を持った女性だった。
もちろん、思い出補正もあると思う。だが……。
「ひさしぶりね、ふたりとも」
7階のエレベーターホールで待っていてくれたのは、記憶にある優しげな笑顔そのままだった。
「お久しぶりです、郁美さん。そして婚姻おめでとうございます」
「ありがとう、タケくん。……あっ、もう、タケくんなんて馴れ馴れしく呼んだら駄目かな」
「いえ、郁美さんなら全然オッケーですよ」
俺がそう言うと、郁美さんは口をオーの形に開けて姉を見た。
「こんな弟に育ちました」
「夫に言われて……ついこの前、動画を見たのだけど……ほんとに動画の中の性格なの……かな?」
「わたしも最近、『どうなの?』と思うときがありますけど、弟は幸せそうなので、応援しています」
「……それはいいことね。アキちゃんもタケくんもようこそ。とりあえず、お家に行きましょう」
姉が俺のことをタケくんと呼ぶのは、郁美さんが俺をそう呼んでいたからかもしれない。
当時の面影がそのまま歳を重ねたようで、少し下がった目尻や、やや小首を傾げる姿などは記憶の通り。
(背が低かったんだな……)
想像よりだいぶ小柄だ。俺の肩口ほどしか背がない。
ミニマムという言葉がぴったりくる。
「さあ、入って」
郁美さんの家の中は、小物がキレイに並べられていた。見た感じ、すべて手作りっぽい。
「あの、これ……お祝いです。ふたりで選んだのですけど」
「まあ、ありがとう……開けていいかしら?」
「どうぞ」
郁美さんは包装を解いて、中の時計を取り出した。
「……まあ、素敵な時計ね。とてもうれしいわ」
なるべくセンスのよいものを選んだが、どうやら喜んでもらえたようだ。
「そうね……ここに置いたら映えそうかしら」
郁美さんは、テレビ台の隣にある空間に時計を設置した。
周囲の小物を移動させ、レイアウトを整えていく。
「これで決まったかしらね」
横に並んだ一輪挿しとのバランスが取れて、部屋の雰囲気ともうまくマッチしている。
まるではじめから、そこにあったかのようだ。
センスがいいんだろうなと、姉と話していると、郁美さんが紅茶とクッキーを持ってきてくれた。
「二人とも、どうぞ」
「「ありがとうございます」」
紅茶は目の前で入れてくれたし、クッキーは個包装されている。これは女性がすべき最低限のマナーなどと言われている。
少なくとも知人程度の関係で、男性に手作りのクッキーを渡すことはない。
「ねえ、あれからの話を聞きたいわ。とくにタケくん。大人になって、もうびっくり」
「俺ですか? 小学校にあがってからは、うーん……普通でしたけど」
「私、男の子の普通ってよく分からないのだけど」
可愛らしく首を傾ける郁美さんに萌えた。
旦那がいなければ、交際を申し込んでいるところだ。
「小学生のときは、私が学校の行き帰りで一緒にいた感じですね」
「あの頃から、いいお姉ちゃんだったものね」
「家の中でもずっと一緒だったんですけど、だんだん一人で部屋に篭もることが増えたんです」
「寂しかった?」
「ええ、それはもう。……でも、タケくんも自立しているんだって思って」
「そっか、えらいお姉さんね」
郁美さんがフフッと、当時を懐かしんでいる。
姉は当時の俺の行動を覚えている限り、郁美さんに語っているが、身内からだとそう見えるのかと、少し新鮮だった。
「……それで中学生のとき、一時期、人間不信気味に見えたんですけど、すぐに回復して……その反動でしょうか。高校に入ってからは、とにかくアクティブで」
「へえ……私も夫に教えられてはじめて動画をみたとき、噎せて大変だったわ」
婚姻祝いを持ってきたいと姉が郁美さんに連絡し、今日、俺たちが来ることを相手に話したところ、俺の名前に反応したらしい。
よくよく聞いてみると、とても高校生らしからぬ行動で有名となっており、名前からおそらく本人だろうと。
それを聞かされた郁美さんは、「まさかあ」と動画を確認したところ、盛大に噎せたという。
「ああ……動画で名乗ってますしね」
最初は名前だけだったが、どうせ身バレするんだしと本名を名乗るようになっていた。すでに高校と学年までは身バレしている。
「あのタケくんが……と思ったら、ドキドキが止まらなかったわ」
「しまったな。旦那さんと出会う前に郁美さんに連絡取っておけば、ワンチャンあったかも」
「弟はこういう感じです」
「嬉しいわ。いまでもドキドキしているもの。だけど、旦那と出会ってもう……7年? 8年弱くらいかしら」
「そうなんですか? ぜひそのへんのところを聞きたいです」
姉がここに来た目的の一つだ。
これから先、姉は俺と離れて生きていくことになる。
世にいる多くの女性とともに、男性の心を射止める競争に身を投じなければならない。
「そうね。じゃ、特別に出会いから話すわね。そうあれは……タケくんたちとの契約が切れて、3年くらい経った頃かしら」
そうして郁美さんの話が始まった。




