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177/422

167 郁美さん宅にて

 日曜日。

 朝から俺と姉は、特区南西部に向かった。


 そこに郁美(いくみ)さんが住んでいるマンションがある。

「いい場所だね」


 駅から遊歩道を通ってマンションまできたが、緑に囲まれたとても過ごしやすそうな場所だ。


「マンションも新しいし、最近できたものかもしれないわね」

 遊歩道を歩いていると、ジョギングする若い女性たちと何度もすれ違った。


 特区は、中心部に行くほど商業施設が立ち並んでいる。

 外縁部にはアパートやマンション、テラスハウスなどの集合住宅が並んでいる。


 俺たちが住む戸建ての住宅地はその中間にあることが多い。

 平日の日中は、外縁部から中心部へと人が流れる構造になっている。


 このマンションも外縁部にほど近い場所に建っているものの、周辺の建物に比べてグレードが頭一つ抜けているように思う。


「子育てヘルパーって、儲かるんだね」

「特級だからかしら? これ分譲っぽいわ」


 特区内の分譲マンション……外なら、庭付き一戸建てが買える値段がするだろう。

 年間の維持費がいくらになるのか、知るのが怖い。


 入口はオートロックらしく、姉が『703』の番号を押す。

 少しして、応えがあった。


「おはようございます、亜紀(あき)です」

『いらっしゃい、いま開けるわね』


 スピーカーから懐かしい声が聞こえ、ガチャリとロックが外れる音がした。

 俺たちはそのままエントランスホールを抜け、エレベーターに乗り込んだ。




 市原(いちはら)郁美さんは、忙しい母の代わりに俺を育ててくれた女性だ。

 家族を除けば、もっとも身近にいた女性ということになる。


 無条件で安心できてしまうような、そんな雰囲気を持った女性だった。

 もちろん、思い出補正もあると思う。だが……。


「ひさしぶりね、ふたりとも」

 7階のエレベーターホールで待っていてくれたのは、記憶にある優しげな笑顔そのままだった。


「お久しぶりです、郁美さん。そして婚姻おめでとうございます」

「ありがとう、タケくん。……あっ、もう、タケくんなんて馴れ馴れしく呼んだら駄目かな」


「いえ、郁美さんなら全然オッケーですよ」

 俺がそう言うと、郁美さんは口をオーの形に開けて姉を見た。


「こんな弟に育ちました」

「夫に言われて……ついこの前、動画を見たのだけど……ほんとに動画の中の性格なの……かな?」


「わたしも最近、『どうなの?』と思うときがありますけど、弟は幸せそうなので、応援しています」

「……それはいいことね。アキちゃんもタケくんもようこそ。とりあえず、お家に行きましょう」


 姉が俺のことをタケくんと呼ぶのは、郁美さんが俺をそう呼んでいたからかもしれない。

 当時の面影がそのまま歳を重ねたようで、少し下がった目尻や、やや小首を傾げる姿などは記憶の通り。


(背が低かったんだな……)


 想像よりだいぶ小柄だ。俺の肩口ほどしか背がない。

 ミニマムという言葉がぴったりくる。


「さあ、入って」

 郁美さんの家の中は、小物がキレイに並べられていた。見た感じ、すべて手作りっぽい。


「あの、これ……お祝いです。ふたりで選んだのですけど」

「まあ、ありがとう……開けていいかしら?」


「どうぞ」

 郁美さんは包装を解いて、中の時計を取り出した。


「……まあ、素敵な時計ね。とてもうれしいわ」

 なるべくセンスのよいものを選んだが、どうやら喜んでもらえたようだ。


「そうね……ここに置いたら映えそうかしら」

 郁美さんは、テレビ台の隣にある空間に時計を設置した。


 周囲の小物を移動させ、レイアウトを整えていく。

「これで決まったかしらね」


 横に並んだ一輪挿しとのバランスが取れて、部屋の雰囲気ともうまくマッチしている。

 まるではじめから、そこにあったかのようだ。


 センスがいいんだろうなと、姉と話していると、郁美さんが紅茶とクッキーを持ってきてくれた。

「二人とも、どうぞ」


「「ありがとうございます」」

 紅茶は目の前で入れてくれたし、クッキーは個包装されている。これは女性がすべき最低限のマナーなどと言われている。


 少なくとも知人程度の関係で、男性に手作りのクッキーを渡すことはない。

「ねえ、あれからの話を聞きたいわ。とくにタケくん。大人になって、もうびっくり」


「俺ですか? 小学校にあがってからは、うーん……普通でしたけど」

「私、男の子の普通ってよく分からないのだけど」


 可愛らしく首を傾ける郁美さんに萌えた。

 旦那がいなければ、交際を申し込んでいるところだ。


「小学生のときは、私が学校の行き帰りで一緒にいた感じですね」

「あの頃から、いいお姉ちゃんだったものね」


「家の中でもずっと一緒だったんですけど、だんだん一人で部屋に篭もることが増えたんです」

「寂しかった?」


「ええ、それはもう。……でも、タケくんも自立しているんだって思って」

「そっか、えらいお姉さんね」


 郁美さんがフフッと、当時を懐かしんでいる。

 姉は当時の俺の行動を覚えている限り、郁美さんに語っているが、身内からだとそう見えるのかと、少し新鮮だった。


「……それで中学生のとき、一時期、人間不信気味に見えたんですけど、すぐに回復して……その反動でしょうか。高校に入ってからは、とにかくアクティブで」


「へえ……私も夫に教えられてはじめて動画をみたとき、()せて大変だったわ」


 婚姻祝いを持ってきたいと姉が郁美さんに連絡し、今日、俺たちが来ることを相手に話したところ、俺の名前に反応したらしい。


 よくよく聞いてみると、とても高校生らしからぬ行動で有名となっており、名前からおそらく本人だろうと。

 それを聞かされた郁美さんは、「まさかあ」と動画を確認したところ、盛大に噎せたという。


「ああ……動画で名乗ってますしね」

 最初は名前だけだったが、どうせ身バレするんだしと本名を名乗るようになっていた。すでに高校と学年までは身バレしている。


「あのタケくんが……と思ったら、ドキドキが止まらなかったわ」

「しまったな。旦那さんと出会う前に郁美さんに連絡取っておけば、ワンチャンあったかも」


「弟はこういう感じです」

「嬉しいわ。いまでもドキドキしているもの。だけど、旦那と出会ってもう……7年? 8年弱くらいかしら」


「そうなんですか? ぜひそのへんのところを聞きたいです」

 姉がここに来た目的の一つだ。


 これから先、姉は俺と離れて生きていくことになる。

 世にいる多くの女性とともに、男性の心を射止める競争に身を投じなければならない。


「そうね。じゃ、特別に出会いから話すわね。そうあれは……タケくんたちとの契約が切れて、3年くらい経った頃かしら」

 そうして郁美さんの話が始まった。



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― 新着の感想 ―
[一言] 男性の心を射止める競争などしなくていいから、一生姉弟仲良く暮らしていけばいいと思います。
[一言] 一時とはいえ自分が育ててた子が動画デビューしてるなんて思いもしませんよねえ
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