第56話:白紙への還元、あるいは見えない死神
第3居住区の中央広場。
つい先ほどまで賑やかな生活音が響いていたはずのその場所は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
屋台のオーブンでは焼きたてのパンが湯気を立て、石畳には子供が落とした木のおもちゃが転がっている。だが、そこに「人」だけがいなかった。血痕一つ、争った形跡すら一つもない。
ただ、世界から突然『消去』されたかのように、数十人の領民が跡形もなく消え失せていた。
「……あり得ませんわ。防衛結界のログにも、空間転移の痕跡すら一切残っていません」
クロエが片眼鏡のデータを再確認しながら、青ざめた顔で呟く。
「俺の広域探知にも、残留魔力は全く引っかからない。……まるで、最初から誰も存在していなかったように、世界のデータベースが『書き換えられて』いる」
アレンは包帯に覆われた目を広場に向け、ギリッと奥歯を噛み締めた。
魔力が残らない攻撃など、この世界の理では絶対にあり得ない。
王都の精鋭すら足元にひれ伏し、すべてを把握できる無敵の暴君となったアレンにとって、これほど不気味で恐ろしい事象はなかった。
「アレン様……気温が、急激に低下しています」
クロエが身震いし、自らの肩を抱いた。
アレンの皮膚も、急激な冷気を感じ取っていた。しかし、ソナーには氷魔法の兆候すら一切映っていない。
「……前方、距離十メートル。路地裏から『何か』が来ますわ」
クロエの声が、かつてないほど震えていた。
「魔力を持たない……真っ白な、影……? 人の形をしていますが、顔も、服の境目もありません。ただの……『白い余白』のようなものが、滑るようにこちらへ……!」
「クロエ、座標を指定しろ!」
「正面、距離八! まっすぐ向かってきます!」
アレンは杖を突き出し、即座に最大火力の魔力弾を形成した。
ソナーには何も映らない。だが、クロエの「目」という外部データを信じ、一切の迷いなく黄金の閃光を放つ。
轟音。
路地裏の石畳を深々と抉り、周囲の建物の壁を吹き飛ばすほどの完璧な一撃。
だが。
「アレン様、駄目ですわ! 魔法が……あの白い影に触れた瞬間、何事もなかったかのように『消滅』しました!」
「消滅だと!? 魔力の相殺すら起きていないのか!」
「無です! 魔法というデータが、あの影に触れた瞬間に『白紙』に戻されていますわ! 距離五……三! アレン様、逃げて――」
クロエの絶望的な悲鳴。
アレンのソナーには、相変わらず何も映っていない。足音すらしない。
だが、クロエの心拍数が限界を突破し、死の恐怖に強張るのが痛いほど伝わってきた。
完璧なロジックが、音を立てて崩れ去る。
魔力が通じない。ソナーにも映らない。
それはつまり、今のアレンはただの「目の見えない無力な青年」に過ぎないということだ。
(……くそっ!)
計算も、効率も、すべてが意味をなさない。
アレンは考えるよりも早く、杖を放り捨て、音のする方へ向かって泥臭く地を蹴った。
「アレン様ッ!?」
ドンッ!!
アレンはクロエの細い体を力任せに突き飛ばし、彼女に覆い被さるようにして石畳の冷たい地面へと転がった。
直後、アレンのすぐ頭上を『極寒の無』が通り過ぎるのを感じた。
彼が先ほどまで着ていた外套の裾が、音もなく、焦げ跡すら残さずに『消失』する。
「はぁ……はぁっ……!」
「ア、アレン様……! どうして、体を張って……あなたに魔法以外の物理的な防衛力などないのに!」
腕の中で震えるクロエを強く抱きしめたまま、アレンは包帯越しの暗闇を睨みつけた。
「ロジック(魔法)が通じないバグ相手に、計算などしている暇はない……!」
アレンの背中に、冷たい汗が伝う。
無敵の絶対領域は、たった一つの「観測不能の影」によってあっけなく蹂躙された。
魔力という概念すら存在しない、正体不明の『白紙化バグ』。
視力を失った領主と、彼を支える補佐官は、この理不尽な死神を前に、かつてない絶望的な逃走劇を強いられることになった。




