第55話:観測不能のバグ、あるいは静寂の侵食
王都の最高戦力である第一魔導騎士団を「永久電池」として自治区のインフラに組み込んでから、半年が経過した。
バルツァー特別自治区は、かつてない繁栄を謳歌していた。
無尽蔵の魔力供給により、冬の寒さは完全に退けられ、夜は太陽のように明るい街灯が道を照らす。盲目の領主アレンと、氷の補佐官クロエが敷いた完璧な論理の元、街には一つの犯罪も、一つの飢餓も存在しなかった。
「……アレン様。今月の農業区画の生産量、予測値を3%上回りましたわ。王都からの干渉も完全に沈黙していますし、システムは極めて『最適化』された状態です」
執務室の窓辺で、クロエが満足げに報告書を読み上げる。
「ああ。俺のソナーに映る街の脈動も、実に穏やかだ。……ノイズが一つもない」
アレンは包帯で覆われた目を窓の方へ向け、静かに紅茶を飲んだ。
視力を失った代償として得た、街全体を覆う広域魔力探知。領民たちの温かな心音も、地下で蠢く騎士団たちの絶望の呻きも、すべてが完璧なデータとしてアレンの脳内で処理されていた。
誰も手出しできない、無敵の絶対領域。
リリアが愛したこの街を、永遠の平穏で満たすという悲願は、完全に達成されたはずだった。
――ピツンッ。
不意に。
アレンの脳内のデータから、『一つ』の心音が消えた。
「……ん?」
「どうされました、アレン様。紅茶の温度が低かったですか?」
「いや……今、第3居住区にいたパン屋の老人の心音が、不自然に途切れた」
アレンは眉をひそめた。
老衰や発作ではない。つい数秒前まで力強く脈打っていた心臓の音が、まるでスイッチを切られたように『無』になったのだ。
「クロエ、インフラの防衛結界にエラーの記録はあるか?」
「いえ? 結界は正常稼働していますし、王都側からの魔力波形も……え?」
クロエがコンソールを操作する指が、ピタリと止まる。
「……アレン様。第3居住区の監視カメラ映像、該当座標に、老人の姿がありませんわ。いえ、老人だけではありません。周囲にいたはずの数人の領民も……映像から『消失』しています」
「消失だと?」
アレンは即座にソナーの感度を極限まで引き上げ、第3居住区へと集中させた。
あり得ない。防衛結界に傷一つなく、魔力の痕跡も、空間転移のノイズすらない。
ただ、そこに「いた」はずの人間たちのデータだけが、綺麗に抜け落ちている。
『――ア、アレン様! 大変ですッ!』
コンソールを通じて、現地の警備兵から悲痛な通信が入った。
『広場にいた人々が……突然、煙のように消えました! 悲鳴すら、血の一滴すら残さずに! な、なんだあれは……真っ白な、影のようなものが……っ!?』
「真っ白な影……? 警備兵、落ち着け。対象の魔力数値を読み上げろ!」
アレンが鋭く命令する。しかし、彼のソナーには、警備兵が怯えている「何か」の魔力波形が全く映っていなかった。
『ま、魔力なんてありません! ただの、白いモヤで……あ、来るな! 触るな、やめ――』
プツンッ。
通信が途絶えると共に、アレンのソナーから警備兵の心音も『無』になった。
「……アレン様。これは……」
クロエの声が微かに震えている。
魔力を持たない。熱も持たない。物理法則も結界のロジックもすべてすり抜け、触れた人間を存在ごと『消去』する現象。
それは、マリアの怨念や王都の暴力といった「計算できる敵」ではない。
システムそのものを根底から崩壊させる、完全なる『未知のバグ』だった。
「……俺の、目にも(ソナーにも)、見えない存在だと?」
アレンは包帯越しの暗闇の中で、冷たい汗が頬を伝うのを感じた。
視力を捨てて無敵を手に入れた盲目の暴君。
だが、その『魔力探知』という最強の武器が全く通じない存在が現れた時、アレンの「盲目」は、再び彼を絶望の底に突き落とす最悪の枷となる。
「クロエ、全区画に非常警戒を発令しろ。……本当の地獄は、これからだ」
完璧だったはずの街に、音のない崩壊が忍び寄っていた。




