第57話:完全なる遮断(オフライン)、あるいは暗闇の共犯者
石畳を蹴る足音だけが、不気味なほど静まり返った居住区に響いていた。
「はぁっ……はぁっ……! アレン様、右です! 崩れた壁の裏へ!」
「わかった……!」
クロエに手を引かれ、アレンは盲目のまま必死に路地裏を駆けていた。
無敵を誇った彼らの背後には、足音も、殺気も、魔力すら持たない『真っ白な影』が、音もなく滑るように迫ってきている。
影が触れた看板、街灯、そして逃げ遅れた荷馬車。それらすべてが、チリ一つ残さずにこの世界から『消去(白紙化)』されていく。
「……あれは、魔法じゃない」
身を隠した瓦礫の陰で、アレンは荒い息を整えながら冷たい汗を拭った。
「私の探知に一切引っかからず、触れた魔力を無に帰す。……あれは、この世界のシステムそのものを初期化しようとする『物理的な削除コマンド』だ」
「削除コマンド……? では、どうやって倒せばいいのですか!? 私たちの魔法はすべて相殺されるどころか、撃ち込んだ端から無かったことにされてしまいます!」
クロエの片眼鏡の奥で、恐怖に濡れた瞳が揺れている。
アレンは強く唇を噛んだ。
どんな強大な敵であろうと、魔力という「データ」を持つ限り、彼のロジックで解体できた。だが、魔力を持たない相手には、アレンの神業的な魔力探知も、ただの「無防備な電波塔」でしかない。
――ピリッ。
ふと、アレンの全身の産毛が逆立った。
「……まずい」
「アレン様?」
「俺のソナーだ。俺が広域に探知魔力を広げているから、あの『バグ』は俺の魔力波形(Wi-Fi)を辿って、確実にこちらへ向かってきている!」
アレンの警告と同時だった。
瓦礫の向こう側から、ジワリ、と。空間のピクセルが抜け落ちるように、真っ白な影が姿を現した。
『――――』
音のない咆哮。
顔のない白い顔が、真っ直ぐにアレンたちの方を向いた。
「見つかった……っ!」
クロエが絶望的な声を上げ、アレンの前に立ちはだかろうとする。
だが、アレンはその細い肩を強く引き寄せ、彼女と共に古びた地下貯蔵庫の入り口へと転がり込んだ。
「クロエ、よく聞け!」
暗い地下室の中。アレンはクロエの両肩を強く掴み、かつてないほど切羽詰まった声で告げた。
「奴のターゲット(標的)は、この街に流れる高密度の魔力ネットワークだ。だから、今から俺は、自身の魔力回路を心臓の駆動分を除いて『完全停止』する」
「なっ……!?」
クロエは息を呑んだ。
「正気ですか!? 魔力回路を停止すれば、あなたの魔力探知も完全に切れます! それはつまり……」
「ああ。俺は本当の意味で、何も見えず、何も感知できない『ただの盲目の男』になる」
視力を失ったアレンにとって、魔力探知は唯一の世界との繋がりだった。
それを自ら切るということは、絶対的な暗闇と無音(情報ゼロ)の深淵に、丸腰で身を投じることを意味する。狂いそうなほどの恐怖を伴う決断だ。
「ですが、そんなことをすればアレン様は……っ!」
「いいからやれ! 俺一人じゃ回路を完全に落としきれない。お前の手で、俺の魔力網を強制終了しろ!」
ドサッ、と。
頭上の床板が『消去』される音が響く。白い影はすぐそこまで来ている。
「……っ!」
クロエはボロボロと涙をこぼしながら、アレンの胸元に両手を押し当てた。
「……要求。管理者権限による、生体魔力回路の完全遮断」
カチャッ、と。
アレンの体内で、彼を生かしていた無敵のロジックが完全に電源を落とした。
「あ……」
アレンの世界から、光はおろか、クロエの心音も、街の脈動も、すべての情報が完全に消え去った。
残ったのは、息が詰まるほどの圧倒的な『暗闇』だけ。
恐怖で全身がガタガタと震え、呼吸が浅くなる。
(怖い……。何も、分からない……っ)
極限の恐怖にアレンの理性が砕けそうになった、その時。
ギュッ、と。
暗闇の中で、温かくて小さな手が、震えるアレンの手を強く、強く握りしめた。
そして、彼の耳元に、クロエの生身の吐息が触れる。
『大丈夫です。私が……私のこの目が、あなたを絶対にお守りしますわ』
魔力を一切使わない、肉声だけの小さな囁き。
ソナー(機械)を通さない、彼女の生身の体温。
それが、完全な暗闇に落ちたアレンにとって、唯一の確かな『命綱』だった。
直後、地下室の天井をすり抜けるように、白い影が降りてきた。
アレンには見えない。だが、クロエの手が痛いほど強く握りしめられるのを感じ、敵がすぐ目の前にいることだけが分かった。
息を殺し、魔力を殺し、二人はただお互いの体温だけを頼りに、じっと静寂に耐え続ける。
システムを持たない、ただの無力な人間として。
理不尽な死神が通り過ぎるのを、二人は暗闇の中で固く抱き合いながら待ち続けるしかなかった。




