第52話:過敏なる反響、あるいは迫り来る白銀
視界を失ってから、アレンの世界はかつてないほど豊かになった。
執務室の窓から吹き込む風の温度。羊皮紙の繊維の匂い。街の地下を巡る魔力炉の脈動。
そして何より――数歩離れた場所で書類を整理する、クロエの微かな息遣いと、正確にリズムを刻む小さな心臓の音。
(……今日の心拍数は通常より5%高い。それに、微かに甘い香水……いや、シャンプーを変えたか?)
「アレン様。先ほどから、私の顔のあたりに魔力探知を集中させるのはやめていただけませんか。書類の文字が読めるとでも?」
不意にクロエが、冷たい声で釘を刺してきた。
アレンは包帯で覆われた目を彼女に向け、悪びれずに肩をすくめる。
「文字は読めないが、お前の体温が通常より0.5度高いのは分かる。風邪か? それとも、俺の顔を見て照れているのか?」
「……っ! な、何を非論理的なことを! 暖炉の火力が強すぎるだけですわ!」
バンッ、とクロエが書類の束を机に叩きつける。
その瞬間、彼女の心拍数が跳ね上がり、頬のあたりに熱が集まるのが、アレンのソナーにはっきりと『視え』ていた。
(視覚がないと、こうも相手の感情がダイレクトに入力されるものか……)
完璧なロジックの裏で照れ隠しをする氷の補佐官。その不器用な感情の揺らぎは、アレンにとってどんな美しい景色よりも心地よいデータだった。
「冗談だ。だが、体調管理も補佐官の仕事だ。無理はするなよ、クロエ」
「……ご心配なく。私の演算処理に遅れはありませんわ」
クロエはツンと顔を背けたが、その心音は少しだけ嬉しそうに落ち着きを取り戻していった。
和やかな沈黙が、執務室を満たす。
マリアという最大のバグをシステムから完全にパージし、小悪党の干渉も物理的に排除した。バルツァー特別自治区は今、完全なる無敵の要塞として機能している。
――ピィィン……。
ふと、アレンの広域探知の端に、微小なノイズが引っかかった。
「アレン様?」
アレンの表情から笑みが消えたのを察知し、クロエが問いかける。
「……クロエ。自治区の境界、王都側の防衛ラインの魔力数値を読み上げろ」
「え? は、はい。現在、防衛ラインの結界出力は正常……いえ、待ってください。結界のさらに外側、数十キロ先に、異常な高エネルギー体を検知しました!」
クロエの片眼鏡のデータリンクが、赤い警告光を点滅させる。
「高密度に圧縮された魔力の集合体。数は……およそ五百。信じられません、これほどの質量を持った魔力の塊が、一直線にこの自治区へ向かっていますわ!」
「五百の兵、ではないな。一人一人が、一騎当千の化け物だ」
アレンはゆっくりと立ち上がり、包帯の奥のソナーを『遠方』へと限界まで拡大した。
王都から続く街道を、凄まじい魔力の圧を放ちながら進軍してくる集団。その先頭を歩く、ひと際巨大で冷たい魔力の刃。
その波形に、アレンは見覚えがあった。
「……王都直属、第一魔導騎士団『白銀』。そして、団長のガレス・ヴァン・オースティンか」
「白銀の騎士団!? 王都の最高戦力ではありませんか! なぜ、彼らが辺境のここに……」
「暗殺者やハッカーが全滅したんだ。王都の特権階級どもも、いよいよ焦って『本命』を出してきたというわけだ」
白銀の騎士団。
かつてアレンが王都の士官学校にいた頃、圧倒的な武力と権力でアレンを見下し、リリアを「辺境のドブネズミ」と嘲笑った男が率いる、暴力の権化。
視界(光)があった頃のままのアレンなら、その絶望的な戦力差に青ざめ、最悪の確率を弾き出していただろう。
だが。
盲目の暴君の唇には、氷のように冷酷で、不敵な笑みが浮かんでいた。
「クロエ。防衛インフラの出力をすべて『攻撃』に回せ」
「アレン様……?」
「奴らは俺を、まだ『目が見えていた頃の弱虫』だと思っている。……この街に足を踏み入れた瞬間、王都の最高戦力という名のデータを、物理的に粉砕してやる」
盲目の領主の圧倒的な殺気に、執務室の空気がビリビリと震える。
王都の本丸との、真の全面戦争。
アレンの広域ソナーが捉えた絶望の軍勢に対し、無敵の自治区が今、その牙を剥こうとしていた。




