第5話:確率の向こう側、泥水を割る咆哮
天が割れたかのような豪雨だった。
叩きつける雨粒が肌を打ち、視界は白く煙って十歩先すらおぼつかない。
ゴオオオオオオ……ッ! と、腹の底を揺らすような地鳴りが上流から近づいてくる。
「く、来るぞ……! 竜の爪痕が来るぞぉぉっ!!」
高台の小屋から、見張りの村人が悲痛な叫びを上げた。
暗闇を切り裂く稲妻の光に照らし出されたのは――地獄のような光景だった。
大木を何本も巻き込み、巨岩を転がしながら押し寄せる、黒々とした巨大な濁流の壁。
例年の最大水位を優に二メートルは超えている。数十年に一度のメガ出水。王都の導師たちが張る結界など、触れた瞬間に粉微塵に吹き飛ぶレベルの圧倒的な質量兵器だ。
「ひいぃっ……! だ、ダメだ、あんなもの防げるわけねえ!」
「神様、水神様、お助けください……!」
恐怖のあまり頭を抱えて祈り始める村人たち。
だが、その絶望を切り裂くように、鋭い怒号が響き渡った。
「祈るな! 頭を上げろ!」
雨合羽を羽織り、濁流の最前線――本堤の直上に立つ俺の声だった。
「水は意志を持った化け物じゃない! 重力と勾配に従って流れているだけのただの物理現象だ! 計算通りなら――水はあそこへ落ちる!」
俺が指差した瞬間。
ドゴォォォォンッ!!
先頭の濁流が、蛇行部の手前に掘り抜いた巨大な『遊水池』へと突っ込んだ。
凄まじい水しぶきが夜空高く舞い上がる。
だが、村を呑み込もうとしていた奔流は、ぽっかりと開いた数万立方メートルの空間に吸い込まれるように落ちていき、その勢いを劇的に落とした。
「な……沈んだ……!? 川が、穴の中に呑まれていく……!?」
ダガンが目を見開いて叫ぶ。
「まだだ! ここからが本番だぞ!」
遊水池を満たした水が、勢いを保ったまま下流へと溢れ出そうとする。
直後、水流は互い違いに配置された二重の白石堤――『霞堤』の第一防壁へと激突した。
激しい衝突音が響く。だが、堤防は水を完全に遮断しない。
堤防に設けられた「切れ目」から、水流が横方向へと逃げ、第二防壁へと回り込む。
右へ、左へ。
直線的な突進力を奪われた濁流は、自らの重みでぶつかり合い、渦を巻いて互いのエネルギーを相殺(減勢)させていく。
村へ向かっていた牙は抜かれ、ただの穏やかな泥水となって湿地帯の奥へと誘導されていく。
「いなしてる……! あの大水に、ブレーキがかかってやがる……!」
石工でもあるダガンが、その構造の恐るべき合理性に気づいて震える声で叫んだ。
これこそが霞堤の真髄だ。
自然の力を百パーセント受け止めてねじ伏せようとするから決壊する。最初から逃げ道を用意し、段階的に力を奪えば、どんな大河であっても従わせることができる。
だが――その時だった。
バキバキバキッ! と不吉な破砕音が響いた。
「だ、旦那ァッ! 上流から流れてきた大木が、第二堤の導水杭に引っかかって詰まりやがった! 水が溢れて、村の裏手の防土塁に直撃しそうだ!!」
「ちっ……漂流ゴミによる閉塞か!」
俺は即座に基底ネットワークを走らせた。
頭の中に浮かぶ計算式。
現在の水位上昇率、流木の引っかかりによる水圧の偏り。
『成功確率:八十四パーセントから六十一パーセントへ急落』
――出たな、残りのリスク。
自然を相手にする以上、計算通りの百点満点など絶対にあり得ない。
だが、そんなことは最初から織り込み済みだ!
「ダガン! 土嚢部隊を率いて裏手の防土塁へ走れ! 俺が流木を処理するまで、五分間耐えるんだ!」
「おうよ! 野郎ども、旦那が川の首根っこを押さえてくれてんだ! 足元をすくわれるわけにはいかねえぞ! 土嚢を担げぇぇッ!!」
「「「うおおおおッ!!」」」
誰一人、逃げ出す者はいなかった。
村人たちは泥に足を取られながらも、歯を食いしばって重い土嚢を次々と積み上げていく。
神頼みで震えていた農民たちが、自分たちの生活を守るために戦う「防人」へと変わっていた。
俺は激流渦巻く第二堤の突端へと駆け出した。
足元の石積みが水圧で激しく振動している。
目の前には、折り重なって水門の役目を邪魔している数本の巨木。
(プロンプト構築。単一破砕は魔力効率が悪すぎる。狙うは構造の要――引っかかっている根元の支点!)
『対象:閉塞流木の中央接触点』
『制約条件:水流に干渉せず、木繊維の引張強度のみを局所的に脆化(炭化分解)』
『目標出力:水圧の自重を利用した剪断破壊を誘発せよ!』
右手に魔力を凝縮する。
青白い光が雨を弾き、バチバチと火花を散らした。
「――抜けろッ!『脆性破壊』!!」
放たれた閃光が、流木の交点へと突き刺さった。
メキメキメキッ……ドパァァァンッ!!
魔力によって繊維を脆くされた大木が、激流の水圧に耐えかねて真っ二つにへし折れた。
支点を失った流木群が一気に押し流され、塞がれていた導水路がゴバッと口を開ける。
滞留していた泥水が、一気に遊水池の奥へと吸い込まれていく。
裏手の防土塁に押し寄せていた水位が、目に見える速さでスッと下がっていった。
「抜けたぞぉぉぉぉっ!!」
ダガンの歓叫が雨音を突き破った。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
叩きつけるような雨音が、いつの間にか優しい小雨へと変わっていた。
重苦しい黒雲が東へと去り、山の端から黄金色の朝日が差し込んでくる。
静寂が戻ったバルツァー川。
川はまだ茶色く濁っていたが、その流れは完全に霞堤の内側に収まり、おとなしく下流へと流れていた。
遊水池にはたっぷりと水が溜まり、泥砂を受け止めている。
そして――。
村の家屋は、一軒たりとも流されていなかった。
泥だらけになりながら土嚢の上に座り込む村人たちの中に、怪我人はいても、死者は一人もいない。
「……助かった……?」
村長のゴドウィンが、泥にまみれた手を見つめながら呟いた。
「あの竜の爪痕が……村を呑まなかった……? 家も、畑も……残っている……?」
「ああ、勝ったんだよ」
堤防から降りてきた俺は、濡れた前髪をかき上げながら言った。
「奇跡じゃない。あんたたちが土嚢を積み、杭を打ち、諦めずに手を動かしたからだ。人間の勝ちだ」
ゴドウィンの瞳から、大粒の涙がポロポロと泥の上に落ちた。
老村長はその場に崩れ落ちるように膝をつき、嗚咽を漏らした。
「ああ……あああ……っ! 守られた……! わしたちの村が、本当に……っ!」
それを合図にしたかのように、現場にいたすべての村人、職人たちから、地鳴りのような歓声が爆発した。
「うおおおおおおおおっ!!」
「勝った! 大水に勝ったぞぉぉっ!!」
「代官様! アレン代官様万歳ッ!!」
泥だらけの男たちが抱き合い、涙を流して肩を叩き合う。
ダガンが豪快に笑いながら歩み寄ってきて、俺の背中をバチンと叩いた。
「やりやがったな、旦那! 見ろよ、誰も死んじゃいねえ! 歴代のどんな偉い魔術師もできなかったことを、あんたはたった二十日でやってのけたんだぜ!」
「痛いよ、ダガン。……だが、本当にみんなよく動いてくれた。最高の現場だったよ」
朝日を浴びるバルツァー氾濫原。
かつて絶望の泥沼と呼ばれた大地は、今や朝日を浴びてキラキラと輝いていた。
上流から運ばれた肥沃な土が遊水池の底に沈み、安全になった平野には、これからいくらでも豊かな畑と真っ直ぐな街道を広げていくことができる。
(さて……)
俺は昇る太陽を見上げながら、不敵に口元を緩めた。
王都の水理局の連中は、今頃どうしているだろうか。
俺が泥水を啜って野垂れ死んだとでも思っているに違いない。
(待っていろよ。ここからが本当のインフラ開発だ)
暴れ川を制したこの地を、王国で最も栄える一大物流都市へと育て上げてやる。
俺の、そしてバルツァーの反撃は、まだ始まったばかりだ。




