第6話:泥の黄金と、次なる標的
大洪水が去ってから三日。
あれほど荒れ狂っていたバルツァー川は、嘘のように穏やかなせせらぎを取り戻していた。
青空の下、泥の匂いが漂う遊水池のほとりに立ち、俺はしゃがみ込んで黒々とした土を指先ですくい上げた。
基底ネットワークに意識を繋ぎ、土壌成分のパラメータをスキャンする。
(チッソ、リン酸、カリウム……それに微量ミネラルが豊富だ。上流のブナ原生林から削り取られてきた最高級の腐葉土層だな)
ふっと口元が緩む。
上流から押し寄せてきた濁流は、人間にとっては破壊の猛威だが、自然の循環から見れば「天然の超濃縮肥料」の運搬役に他ならない。
遊水池に水を引き込み、意図的に流速を落としたことで、比重の重い肥沃な泥砂だけが綺麗に底へと沈殿していた。
「旦那ぁ! そんなとこで泥いじりかい? 精が出ますな!」
背後から豪快な声が響き、ダガンがやってきた。
その顔には、数日前までのくたびれた日雇い運送屋の面影はない。胸を張り、生き生きとした職人の顔つきだ。
「ダガンか。堤防の点検はどうだ?」
「へへっ、完璧だぜ! 第二堤の石積みに少しズレがあった程度で、土嚢の打ち直しだけで補修完了だ。村の連中ときたら、朝から晩まで堤防を撫で回しては拝んでやがる。『アレン様の奇跡の堤防だ』ってな」
「奇跡じゃないって何度も言ってるんだがな。……それより、村長は?」
「おう、呼んできたぜ」
ダガンが振り返ると、小走りで近づいてくる老村長ゴドウィンの姿があった。
数日前まで杖をついて足を引きずっていたのが嘘のように、背筋がシャンと伸びている。
「アレン代官様! お呼びと伺い馳せ参じました! 何なりとお申し付けください! この老骨、代官様のためなら泥水の中だろうと喜んで飛び込みますぞ!」
「いや、泥水には飛び込まなくていい」
俺は苦笑しながら、手の中の黒い土をゴドウィンに見せた。
「村長、この泥を見てくれ。遊水池の底に溜まった土だ」
「泥、でございますか……? ええ、毎年の大水の後には、この手のぬかるんだ泥が村中に残されて、家を腐らせる厄介者でしたが……」
「厄介者どころか、これは『黄金の土』だよ」
「……は?」
「上流の森の養分が凝縮されている。水捌けを整えて畑に鋤き込めば、通常の三倍の収穫が見込める最高の一級土壌だ。遊水池の水が完全に引いたら、乾燥させて農地へ運ぶぞ。今年から、この村は王国屈指の穀倉地帯になる」
「な……な、なんですとぉっ……!?」
ゴドウィンが目玉が飛び出さんばかりに見開いた。
「あの呪われた泥が……畑の肥やしに!? 大水が恵みをもたらすなど、そんな話……聞いたこともございません!」
「自然の力をゼロに封じ込めようとするから災害になるんだ。受け流して利用すれば、全部が資産に変わる。――だが、作物を大量に収穫できたとしても、今のままじゃ意味がない」
俺は立ち上がり、西の方角――自分たちがやってきた、あの酷い泥濘の街道を指差した。
「運ぶ道が死んでいる。どんなに良い麦が実っても、街道が泥沼なら市場へ出荷する前に腐っちまうからな」
その言葉に、運送屋であるダガンがピクッと反応した。
「……旦那。まさか、次はおっ始める気かい?」
「ああ」
俺はニヤリと笑った。
「川を制した。次は『道』だ。バルツァーと王都、そして東部諸国を結ぶ最短の物流大動脈――全天候型の高規格舗装街道を敷く」
同じ頃。
バルツァーから西へ馬車で五日、栄華を誇る王都の宮廷水理局。
局長室のフカフカの革張り椅子に深く腰掛け、バドリック卿は極上の葡萄酒を優雅に揺らしていた。
「局長、今年の雨季の第一波が通過した模様です」
部下の役人が入室し、恭しく頭を下げる。
「うむ。東部一帯にも例年以上の豪雨が降ったそうだな。……して、バルツァー氾濫原の様子はどうだ? あの大馬鹿者、アレン技官の消息は」
バドリックの唇が、意地の悪い嘲笑に歪む。
「どうせ今頃は、濁流に呑まれて泥の中で魚の餌になっているか、命からがら逃げ出して野垂れ死んでいるところだろう。ふん、確率だの現場だのと減らず口を叩くからそうなるのだ。水神の奇跡を信じぬ不敬者には相応しい末路よ」
「はっ……それが、現地の観測員から妙な急報が届いておりまして」
「妙な急報?」
「は、はい。『バルツァー川の氾濫による被害報告――死者ゼロ、家屋倒壊ゼロ、耕作地の流失ゼロ』と……」
室内の空気が凍りついた。
バドリックがグラスを傾ける手をピタリと止める。
「……は? 何を言っている? 被害がゼロだと? あの悪夢のバルツァーでか?」
「は、はい……それどころか、『新任代官の指揮により、大水が完璧に制御された』との証言が……」
「馬鹿を言えッ!!」
バドリックは立ち上がり、机を激しく叩いた。
赤ワインが書類の上に派手に飛び散る。
「あり得ん! 宮廷魔術師団の大結界ですら防げなかった大河だぞ!? 魔力なしの落ちこぼれ技官風情が、たった一人で防げるはずがなかろうが! 虚報だ! 現場の田舎者が狂言を吐いているに決まっている!」
「し、しかし……東部商人の間でも噂が広まり始めておりまして……『バルツァーの川が鎮まり、新しい道が拓かれようとしている』と……」
「黙れ黙れ黙れぇいッ!」
バドリックは顔を真っ赤にして叫び散らした。
「そんな戯言を信じるか! おい、すぐに調査官を派遣しろ! アレンのやつが何か不正な禁術でも使ったに違いない! 失態の証拠を掴んで、縛り首にしてやる!!」
激昂するバドリックの耳には、もはや何一つ届いていなかった。
彼が「無能」と切り捨てた男が、泥の底から世界を塗り替え始めているという、冷酷な現実の足音だけは。




