第48話:暗闇の体温、あるいは最も残酷で合理的な救済
領主邸の奥深く、一切の光が遮断された寝室。
アレンはベッドの隅で膝を抱え、ガタガタと震えていた。
目を開ければ、闇の中に「血まみれのリリア」が無数に蠢いている。耳を塞いでも、「どうして助けてくれなかったの」という彼女の怨嗟のうめき声が、脳の聴覚神経に直接響き続けていた。
ウイルス『リバース・リリア』は、アレンの認知を完全に破壊していた。論理をどれだけ回しても、入力されるデータ(視界と音)がすべて最悪のトラウマである以上、正常な思考など保てるはずがない。
「……あぁ……ごめん、リリア……俺が、弱かったから……」
擦り切れた声で懺悔を繰り返すアレン。
その時、バンッ! と寝室の重い扉が乱暴に蹴り開けられた。
「アレン様!!」
廊下の光を背に受けて飛び込んできたのは、首席補佐官のクロエだった。
だが、アレンの狂った視界は、彼女の姿すらも「胸から血を流し、短剣を握りしめて這いずってくるリリア」に書き換えてしまう。
「来るなッ!! 俺に近づくなぁぁっ!!」
パニックに陥ったアレンは、無意識のうちに拒絶の魔力弾を放ってしまった。
青白い閃光が、容赦なくクロエの肩を掠め、彼女の白い肌を切り裂いて鮮血を散らす。
「っ……!」
しかし。
クロエは一歩も引かなかった。血を流しながら、躊躇うことなくアレンに真っ直ぐに歩み寄る。
『痛いよ、アレン様……痛い……!』
アレンの耳には、リリアの悲鳴が聞こえる。
「やめろ……もう、俺を見ないでくれ……っ!」
アレンが絶叫して顔を覆ったその瞬間。
ガシッ、と。
アレンの両腕が、力強い小さな手によって強引に掴み取られ、壁に縫い留められた。
「……私の声も、姿も、あの女のウイルスによって書き換えられているのですね」
クロエは静かに呟いた。
アレンの目には血まみれのリリアが自分を押し倒しているようにしか見えない。恐怖でアレンの全身が痙攣する。
「アレン様。視覚と聴覚のデバイス(神経)が致命的にハッキングされ、システム(脳)の復旧が不可能である場合……最も合理的で、確実な解決策は一つしかありませんわ」
クロエの親指が、アレンの両目のまぶたに、そっと触れた。
その指先には、高密度の『純白の魔力』が刃のように凝縮されている。
「な、何を……」
「汚染されたハードウェアを、物理的に破壊するのです」
ズブッ……!!
「あ……あああああぁぁぁぁぁッッ!!?」
アレンの悲鳴が、寝室に木霊した。
クロエの親指から放たれた魔力が、アレンの眼球を包む視神経と網膜を、容赦なく、そして完璧な精度で焼き切ったのだ。
凄まじい激痛とともに、アレンの視界から「血まみれのリリア」が完全に消失する。
残ったのは、文字通りの『完全な暗闇』。
「あ……あぁ……目、が……俺の、目が……っ」
両目から一筋の血の涙を流し、痛みに震えるアレン。
その口に、クロエは強引に「何か」を押し込んだ。
それは、暴力的なまでに甘く、そして温かい液体。
「……痛覚、味覚、嗅覚、触覚。残された正常なデータだけを処理しなさい!」
クロエは、視力を永遠に失い震えるアレンの体を、力強く抱きしめた。
「この紅茶の温度は72度。角砂糖の量は正確に35グラム。……そして、あなたの目を奪った大罪人は、この私です。これだけ明確な事実があって、まだ計算を間違えますか!?」
厳しい口調とは裏腹に、アレンの頬に、ポタポタと温かい水滴が落ちてくる。
それは、愛する人の目を自らの手で潰すという、狂気的な決断を下したクロエの『涙』だった。
激痛と暗闇。
だが、その圧倒的なまでの物理的な「痛み」と、甘すぎる紅茶の「味」、そして自分を抱きしめる少女の「震える体温」が、アレンの脳内で停止していた『完璧な論理』を凄まじい勢いで再起動させていく。
(……そうだ。俺は、ハッキングされていた。だが、視界が完全に奪われたこの暗闇の中なら……もう幻影は存在しない。この温もりが誰のものかは……痛いほど計算できる!)
ピィィィンッ……!!
アレンの全身から、暗闇を吹き飛ばすような圧倒的な黄金の魔力が立ち昇った。
脳を苛んでいたウイルスの残滓が、アレン自身の強靭なロジックによって一瞬でパージ(最適化)されていく。
「……ああ。ひどく甘くて、そして……ひどく残酷で完璧な救済だ」
アレンはゆっくりと立ち上がった。
その両目は焦げ付き、永遠の光を失っている。だが、その顔に浮かんでいたのは、かつての絶対的な自信に満ちた「無敵の領主」の笑みだった。
「アレン様……っ」
「泣くな、クロエ。お前のおかげで、システム(俺の心)からエラーは消えた」
アレンは閉ざされたまぶたの奥から血を流したまま、寸分の狂いもなくクロエの頬にそっと手を伸ばし、その涙を拭った。
「視覚が使えないなら、魔力探知で世界を把握するだけだ。お前がくれたこの暗闇は……どんな幻影よりも、圧倒的にクリアで美しい」
視力を代償に、狂気の檻から抜け出した盲目の領主。
そして、彼の「目」として生涯寄り添う覚悟を決めた、冷徹で狂気的な補佐官。
「さあ、反撃の時間だ。俺の光を奪い、俺たちの街を弄んだ害虫を……根絶やしにするぞ」




