第46話:歪んだ鏡、あるいは認知領域の檻
王都のハッカーたちを社会的に葬り去り、自治区に真の平和が訪れたかに見えた数日後。
アレンとクロエは、地下深くに厳重に作られた特別隔離牢の前に立っていた。
冷たく湿った空気が漂う地下空間。松明のわずかな光だけが、鉄格子の奥を照らし出している。
「マリア。お前の仕掛けた外部回線も、王都のバックアップもすべて断ち切った。お前にもう、この街のシステムを脅かす手段は残されていない」
暗闇の中で、太い鎖に繋がれたマリアは、ボロ布のようなドレスに身を包んでうなだれていた。
その体は魔力を使い果たし、かつての妖艶な輝きは見る影もない。血の気を失った肌は干からび、一見すれば、ただ衰弱しきった哀れな少女だった。
「……そう、ですね。私の負けですわ、お兄様」
マリアが、かすれた、ひどくか細い声を絞り出す。
「私はただ、お兄様に追いつきたくて……お兄様にもう一度、私を見てほしくて、あんな真似を……。ごめんなさい、お兄様。もう二度と、あんな悪いことはしませんから……どうか、許して、ください……」
ポロポロと涙を流し、鎖を引きずりながらすがりつこうとするその姿は、かつてアレンが愛した「か弱く優しい妹」の面影そのものだった。
アレンの胸の奥が、チクリと痛む。
(……俺の論理では、すべての悪意の元凶は両親と特使だった。その原因が排除された今、マリアも本来の妹に戻りつつあるのではないか……?)
アレンの脳内で、冷徹な計算式と、血を分けた家族への捨てきれない情が激しく葛藤する。
「アレン様、お気をつけください」
隣に立っていたクロエが、鋭い視線を向けながら冷たく制止した。
「その女の魔力波形は微弱ですが、脳波のシグネチャに異常なまでの高周波ノイズが検知されます。不確定な同情は、システムに致命的なエラーを招きますわ」
「……分かっている。だが、罪を償わせるにしても、この冷たい地下牢でこれ以上無意味な苦痛を与えるのは、自治区の正義に反する」
アレンがゆっくりと鉄格子に近づき、マリアの傷ついた肩に手を伸ばそうとした、その時。
ふと、うなだれていたマリアの顔が、不自然な角度で持ち上がった。
「――引っかかったわね、お兄様」
その顔に、後悔や絶望の色など微塵もなかった。
そこにあったのは、すべてを計算通りに嵌め込んだ悪女の、底知れぬ歓喜に満ちた笑みだった。
「なっ……!?」
「マリア、貴様――!」
クロエが瞬時に魔力弾を展開するが、すでに遅かった。
パチンッ!!
マリアが血まみれの親指を鳴らした瞬間。
地下牢全体、いや、自治区のメインフレームの『最奥の根幹』から、これまで感じたことのない、どす黒く禍々しいエラー音が響き渡った。
『――警告。管理者権限の認知領域に、未知のウイルス「リバース・リリア」の侵入を確認』
「なんだ、このコードは……!? インフラの防壁はすべて焼き切ったはずだぞ!」
頭を抱えてうめくアレンを見て、マリアは鎖をジャラジャラと鳴らしながら、腹の底から狂気的な笑い声を上げた。
「あははははっ! 馬鹿ねお兄様。王都のハッカーなんて、最初からただの『目くらまし(おとり)』よ! 私がこの一年間、命を削って編み上げていた本当のウイルスはね……この街のインフラでも、魔力回線でもないわ」
マリアが血の滲む指先で突き示したのは、アレンの『瞳』だった。
「領民たちの顔が変わる魔法? そんな非効率なこと、するわけないじゃない。私のウイルスがハッキングしたのは、この街のインフラと常時接続している『お兄様の視覚と聴覚』そのものよ」
「俺の……認知を、書き換えただと……?」
「そうよ。お兄様はこれから、誰を見ても、誰と話しても……視界に入るすべての人間が、お兄様を庇って胸を貫かれた『あの女の死に顔』に見えるわ。……どんなに楽しそうな声も、血を吐きながら死んでいくあの女の絶叫に変換して、脳に直接流し込んであげる!」
「っ……なっ……何を……!」
「おめでとう、お兄様! これからこの街は、あなた一人にとってだけ、あの日のトラウマが無限に繰り返される『最高にロジカルで、最高に狂った地獄』になるのよ!!」
マリアの絶叫が地下牢に反響した直後。
アレンの視界に、強烈なノイズが走った。
砂嵐のように世界が歪み、視界が真っ赤な血の色に染まっていく。
「アレン様! しっかりしてください、アレン様!」
隣にいたクロエが、アレンの肩を必死に揺さぶる。
――しかし。
アレンが振り向いた先、クロエの顔があるはずのその場所には。
『ごめんなさい、私……計算、間違えちゃった、みたい……』
胸に短剣を深々と突き立てられ、口から大量の血を吐き出しながら力なく微笑む、一年前のリリアの顔があった。
「あ……ああ……あぁぁっ!?」
アレンは悲鳴を上げ、後ずさって壁に背中を打ち付けた。
「アレン様!? どうされたのですか、私です、クロエです!」
『死なないで……アレン様……』
心配そうに駆け寄るクロエの姿は、アレンの目には「血まみれで這いずってくるリリアの亡骸」にしか見えず、その声も「死の間際のうめき声」に完璧に上書き(オーバーライド)されていた。
「嘘だ……やめろ、来るな! リリア、俺は……俺のせいじゃない……!」
アレンの完璧だった論理が、恐怖とトラウマの前に完全に砕け散り、パニックを起こす。
外部の暴力ではなく、自分自身の「認知」を狂わせられる究極の密室。
どれだけ正しい情報を処理しようとしても、入力されるデータ(視覚・聴覚)がすべて「愛した人の凄惨な死に顔」である以上、いかなるロジックも意味をなさない。
狂気に高笑いするマリアの眼前で、無敵の領主アレン・バルツァーは、頭を抱えて子供のように泣き叫ぶことしかできなかった。




