第44話:氷の融解、あるいは非合理の救済
バチィィィッ……!!
メインフレームから逆流する紫電が、アレンの肉体を激しく打ち付ける。
王都の魔導ハッカーたちが送り込んだ数百人分の悪意と絶望のデータが、アレンの思考領域をタタキ壊すように侵食していく。鼻腔と耳から鮮血が流れ、意識の糸がプツリ、プツリと音を立てて千切れていく。
「あ……がっ……くっ……!」
(駄目だ……。このままでは、俺の脳が焼き切れる。だが、ここで手を離せば……街の皆が……!)
視界が白濁し、意識が暗闇の底へと引きずり込まれそうになったその時。
「――バカなことをしていますわね、アレン様!!」
ピシャリと、凛とした少女の声が執務室に響いた。
振り返ることもできないアレンの背中に、温かく、しかし震える小さな両手が強く押し当てられた。
「クロエ……? 何を……離れろ、脳が焼かれる……!」
「黙ってくださいませ! 私は大商会の次期当主、そしてこの自治区の首席補佐官ですわ! 現場の最高権限を持つ私の許可なく、勝手に自爆するシステムなど認めません!」
クロエの身体から、透き通るような純白の魔力が爆発的に溢れ出した。
それは、彼女がこれまで一ミリの無駄も許さず、効率と合理性だけに磨き上げてきた「完璧なロジックの魔力回路」だった。
「お姉様は言っていました。『人が生きるのは、明日も効率よく働くためじゃない。誰かと一緒に笑うためだ』って……!」
クロエの片眼鏡が、パリンッと音を立てて砕け散った。
彼女の美しい瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、アレンの背中に染み込んでいく。
「こんな非効率で、非合理で、計算違いだらけの自己犠牲……! 投資対効果も、生存確率も、最低最悪のバグですわ!!」
クロエは自らの魔力回路をアレンのメインフレームに直結させ、王都からのウイルスを我が身へと引き受けた。
「ぐっ……あ……!」
冷徹な氷の令嬢として生きてきた彼女の精神に、数万の悪意と絶望のノイズが流れ込む。あまりの痛みにクロエの身体が小刻みに震えた。
「なぜだ、クロエ……お前まで壊れる気か……!」
「壊れませんわよ! 私は、あなたを一人で死なせたりしない……! お姉様が命を懸けて守りたかったこの男を、私がここで失うなんて――最大の損失ですわ!!」
クロエの絶叫が、執務室の空気を震わせた。
その瞬間、彼女の非合理なまでの「感情(愛おしさ)」と、アレンの中に残っていた「リリアとの思い出」、そして街の領民たちの温かな祈りが奇跡的な共鳴を起こした。
『――要求。外部不正アクセスの強制隔離。および、すべての悪意の完全無効化』
それは、アレン一人では絶対に紡げなかった。
冷徹なロジックを捨て、大切な人を守りたいという「むき出しの感情」を持った二人だからこそ到達できた、高次元の融合魔法だった。
ピィィィンッ……!!
執務室を包んでいた禍々しい紫電が、眩い黄金色の光に一瞬で塗り替えられる。
遥か遠く、王都の暗い地下施設で黒水晶のモニターを覗いていた魔導ハッカーたちの端末が、次々と耳障りな電子音を上げて爆発四散した。
「なっ……馬鹿な!? 辺境の小娘ごときの魔力が、私たちのディープ・ウェブを逆流してき――ぐああっ!!」
ハッカーたちの絶叫を最後に、自治区を覆っていた紫色のノイズは綺麗さっぱりと霧散した。
街灯の光が、再び温かな黄金色へと戻っていく。
* * *
「はぁ……はぁ……っ」
執務室の床に、アレンとクロエが崩れ落ちるように倒れ込んだ。
静寂が戻った部屋で、二人の荒い息遣いだけが響いている。
「……クロエ。無事か?」
「……馬鹿な質問をしないでくださいまし。髪がボサボサですわ……」
クロエはぐったりと床に寝転がったまま、ふうっと息を吐き、悪態をついた。だが、その表情にかつての「冷酷な氷の仮面」は一切なかった。ただの、少し勝気で、とびきり優しい一人の少女の顔があった。
アレンはゆっくりと体を起こし、力なく微笑んだ。
「すまない。助けてくれて……ありがとう」
「……お礼なら、あとで死ぬほど甘い紅茶を淹れさせてあげますわ。だから、もう勝手に一人で背負わないでください」
クロエは恥ずかしそうに顔を背けながらも、そっと自分の小さな手を、アレンの大きな手に重ね合わせた。
王都からの刺客を退け、冷徹だった補佐官の心が完全に「融解」した瞬間。
二人の絆は、もはや誰も引き裂けないほど強固なものになっていた。しかし、地下牢の底で静かに微笑むマリアの瞳には、まださらなる狂気の炎が揺らめいているのだった――。




