第42話:非合理の証明、あるいは目覚めゆく深淵
翌朝。執務室の魔力制御盤の前に立ったクロエは、何度も片眼鏡の奥で目を瞬かせていた。
「……あり得ませんわ。何度再計算しても、弾き出される数値がロジックと矛盾しています」
徹夜明けの彼女の目の前には、自治区全域の『本日の推定生産性』を示すグラフが空中に展開されている。
昨夜の「星灯りの収穫祭」で、莫大な魔力と物資、そして領民たちの体力を非合理的に浪費した。論理的に計算すれば、今日の労働生産性は通常の40%以下にまで落ち込むはずだった。
しかし、グラフが示す数値は――『150%』。
かつてクロエが構築した完璧な最適化ロジックすらも凌駕する、異常なまでの生産スコアを叩き出していたのだ。
「おはよう、クロエ。朝食を持ってきたぞ」
扉が開き、アレンが湯気を立てる二つのマグカップと、焼きたてのパンを運んできた。その顔には、ここ一年間張り付いていた『冷たい機械の仮面』はなく、どこか晴れやかな生気が宿っている。
「アレン様……この数値を説明してください。魔力炉の出力低下、領民の睡眠不足。マイナス要因しかないはずなのに、なぜ各農業区画と工業区画の稼働率が跳ね上がっているのですか?」
クロエが詰め寄ると、アレンはコトリとマグカップをデスクに置き、優しく微笑んだ。
「簡単なことさ。お前の完璧なロジックには『人間の感情』という変数が組み込まれていなかった」
「感情、ですか」
「ああ。人は機械じゃない。燃料と休息だけで動くわけじゃないんだ。昨日、腹の底から笑って、踊って、心が満たされたからこそ……『今日からまた、この街のために頑張ろう』と限界以上の力を発揮できる。それが、リリアが信じていた『おっちょこちょいなノイズ』の正体だ」
アレンから渡されたマグカップを、クロエは無意識に両手で包み込んだ。
一口飲むと、以前アレンが飲んでいたような苦いだけのブラックコーヒーではない。ほんのりと甘い。彼女が昨日かじった『林檎飴』の記憶を呼び起こすような、絶妙な量の角砂糖が溶かされていた。
「……計算外のバフ(強化付与)、ということですか。極めて再現性が低く、不確定要素が多すぎます」
クロエは不満げに唇を尖らせたが、その声には着任当初の氷のような冷たさはなかった。
「ですが……結果がすべてであるというのも、また大商会のロジック。今回は、お姉様の遺した非合理の有用性を、限定的に認めてあげますわ」
「それは光栄だな」
二人は顔を見合わせ、静かに笑い合った。
完璧なロジックを追求する冷たい刃のようなクロエの知性と、そこに人間の温かさを織り込むアレンの包容力。相反する二つの歯車が、リリアの遺した『甘いノイズ』を潤滑油にして、ついに完璧な形で噛み合ったのだ。
これで自治区は、真の意味で無敵の要塞都市として完成する。アレンはそう確信していた。
――ピィッ。
和やかな空気を切り裂くように、コンソールの隅で極めて小さな警告音が鳴った。
「エラー? いや、これは……」
アレンの表情が再び引き締まる。クロエもマグカップを置き、即座にコンソールへ指を滑らせた。
「アレン様、これはインフラのエラーではありません。自治区の最下層……『地下特別牢』からの微弱な魔力反応です」
「地下牢だと? そこには、魔力を完全に封じ込めたはずの……」
アレンの脳裏に、凄惨な血の記憶がフラッシュバックする。
一年前にリリアを刺し殺し、すべての魔力回路を焼き切られて地下深くへと幽閉された実の妹、マリア。
彼女にはもう、指先を動かすだけの魔力すら残されていないはずだった。
「反応は一瞬で消えましたが、単なる誤作動ではありませんわ。これは……『外部』への発信記録。特定の座標に向けて、極めて高度に暗号化された指向性通信が放たれています」
「外部……王都か!」
アレンは血の気を失った。
マリアのあの漆黒のウイルスは、現代日本の知識で作られたものだった。彼女は完全に敗北する直前、あるいはこの一年の暗闇の中で、自分自身の命(生命力)を削って最悪の『バックドア(裏口)』を維持し続けていたのだ。
暗く冷たい地下牢の底。
鉄格子の中で鎖に繋がれたマリアは、削り取った自身の指の血を使って、石の床に不気味な魔法陣を描き終えていた。
「あはっ……あははははっ」
干からびた唇から、狂気に満ちた笑い声が漏れる。
「お兄様、お姉様の代わりの新しいお人形は見つかったかしら……? でも、もう遅いわ。私の『招待状』は、王都の最高位魔導ハッカー(化け物)たちに届いたもの」
完璧な街に、再び破滅の足音が忍び寄る。
だが今度のアレンは、一人で孤独な玉座に座る冷たい機械ではない。隣には、氷の知性を持つ新たな補佐官が立っている。
「クロエ。防衛ロジックの再構築を。ここからは……人間の心を守るための、本当の戦争だ」
「承知いたしましたわ、アレン様。私たちの街を荒らす害虫は、今度こそ一匹残らず駆除して差し上げます」
第二の絶望が、すぐそこまで迫っていた。




