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第40話:開封された木箱、あるいは美しきバグの遺言

バンッ!

執務室の扉を押し開け、アレンは肩で息をしながら自らのデスクへと駆け寄った。

「アレン様? 視察はあと三十分はかかるスケジュールのはずですが。随分と非合理的なご帰還ですわね」

完璧に整頓されたデスクの向こうから、クロエが冷ややかな視線を向けてくる。

しかし、アレンは彼女の言葉を無視し、デスクの引き出しから『赤いインクの紋章』が刻まれた小さな木箱を掴み出した。

「……今、それを開けるのですか?」

「ああ。俺のシステムには、致命的な欠陥(バグ)があることに気づいたからな」

アレンは震える指先で、木箱の封蝋に触れた。

この一年間、自分の感情に蓋をするように決して触れられなかった箱。これを開ければ、あの日の喪失の痛みが再び蘇るかもしれない。

だが、路地裏で泣いていた子供たちの顔が、アレンの背中を押した。

「――要求(プロンプト)。リリア・フォン・クラウスの最終契約を、ここに承認(アンロック)する」

アレンが自身の魔力を流し込んだ瞬間。

パチン、と小さな音を立てて封蝋が砕け、木箱の蓋がゆっくりと開いた。

中に入っていたのは、古びた一枚の羊皮紙と、半分ほど使われた『赤いインクの小瓶』、そして精巧にカットされた透明な『記憶魔石(レコーダー)』だった。

ふわり、と。

箱の中から、リリアがいつも好んで淹れていた、甘くて優しい茶葉の香りが執務室に立ち上る。

同時に、記憶魔石が淡い桜色の光を放ち、空中に小さな魔法陣を展開した。

『――あっ、えっと、これ、ちゃんと記録されてますの? あいたっ! もう、角に小指をぶつけちゃいましたわ……』

執務室に響き渡ったのは、紛れもない、あの日失われたはずの鈴を転がすような声だった。

アレンの呼吸が止まる。隣に立つクロエもまた、氷のような仮面を剥がされたように大きく目を見開いた。

「お、お姉様……っ」

光の粒子が集まり、デスクの上に、少しだけ透き通ったリリアの立体映像(ホログラム)が浮かび上がる。

彼女は恥ずかしそうに頬を掻きながら、レンズ(魔石)の向こうにいるアレンに向かって、ふわりと微笑んだ。

『こんにちは、アレン様。……もし、あなたがこの魔石を起動しているということは、私はもう、あなたのお側にはいないのでしょうね』

映像の中のリリアは、少しだけ寂しそうに目を伏せた。けれどすぐに、いつもの太陽のような明るい笑顔を取り戻し、ビシッとアレンに指を突きつけた。

『いいですか、アレン様! 私がいなくなったからって、まさか「感情は不要なエラーだ」なんて言って、冷たい氷のお城に引きこもったりしていませんわよね!? 朝食を抜いて、冷めたブラックコーヒーばかり飲んでいませんこと!?』

「っ……!」

まるで今の自分をすべて見透かしていたかのような言葉に、アレンの喉の奥が熱く詰まった。

『あなたは誰よりも優しくて、誰よりも不器用な人です。だからきっと、私を失った痛みを消すために、自分自身を「街を守るだけの完璧なシステム」に作り変えてしまうのでしょう。……もしそこに、私の妹のクロエがいたら、二人で一緒になって「効率がすべてだ」なんて言って、街から無駄なものを全部捨ててしまっている頃かしら』

「なっ……! なぜ、私のことまで……!?」

クロエが狼狽えたように声を上げる。

映像のリリアは、くすくすと悪戯っぽく笑った。

『だって、クロエは昔のあなたにそっくりですもの、アレン様。完璧で、優秀で、合理的。……でもね、忘れないでください。人が生きるのは、明日も効率よく働くためじゃありませんわ。「誰かと一緒に笑うため」です』

リリアの幻影が、すっと優しい手つきで、箱の中の『羊皮紙』と『赤いインク』を指し示した。

『人の心は、論理(ロジック)だけでは動きません。無駄なおしゃべりや、非効率なお祭り、甘すぎる紅茶……そんな「おっちょこちょいなノイズ(余白)」があるからこそ、人は明日も頑張ろうと思えるんです。だからアレン様、あなたに私からの最期の仕事(プロンプト)を託しますわ』

アレンは吸い寄せられるように、箱の中の羊皮紙を手に取った。

そこに記されていたのは、リリアが生前、商会の独自のルートを使って密かに積み立てていた『特別自治区・福利厚生裏ファンド』の権限譲渡書――すなわち、街の生産性とは一切関係なく、領民たちをただ「楽しませ、笑顔にするためだけにしか使えない」莫大な隠し予算のアクセスコードだった。

『さあ、アレン様。その赤いインクでサインをして、あなたのその完璧すぎるシステムに、私という「最高に美しいバグ」をもう一度組み込んでくださいませ!』

パチン、と光が弾け、リリアの映像が消えていく。

最後に残されたのは、空間に漂う温かい魔力の余韻と、アレンの頬を伝ってポタリと羊皮紙に落ちた、一粒の熱い涙だけだった。

「……ああ。まったく、どこまでもお節介で、計算外な奴だ」

アレンは手の甲で荒っぽく目元を拭うと、一年ぶりに――機械の仮面ではない、心からの人間らしい力強い笑みを浮かべた。

そして、箱の中の『赤いインク』の蓋を開け、羽ペンを突き立てる。

「ま、待ってください、アレン様! そんな非合理な裏予算をシステムに組み込めば、私が構築した完璧な最適化ロジックにノイズが混ざりますわ!」

焦ったように駆け寄るクロエを、アレンは真っ直ぐに見据えた。

「構わないさ、クロエ。完璧すぎて誰も笑えない街など、俺が作ったんじゃない。……俺とリリアが作ったこの街には、これくらいおっちょこちょいな『余白』が必要なんだ」

アレンは迷いなく羊皮紙にサインを走らせ、魔力制御盤(コンソール)へと赤いインクのコードを叩き込んだ。

『――要求(プロンプト)。リリア・ファンドの即時展開。ならびに、中止された「星灯りの収穫祭」の関連魔法陣を……最大出力で強制再起動(オーバーライド)する!!』

ピィィィンッ!!

コンソールから、かつてないほど温かく、眩い黄金色の光が溢れ出した。

亡き少女が遺した「愛」という名の非論理が、冷え切っていたアレンの心臓と街のシステムに、再び熱い血を通わせた瞬間だった。

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