第39話:完璧な最適化、あるいは冷たき歯車の軋み
サァッ、サァッ、サァッ。
執務室に、羊皮紙をめくる音と、羽ペンが紙を走る乾いた音だけが等間隔に響き渡る。
「アレン様。第4農業区画の天候制御陣ですが、出力に0.3%の無駄が生じています。魔力バイパスの経路をプランBに切り替えました。ご確認ください」
「……ああ。計算通りだ。承認する」
クロエが新たな補佐官として着任してから、わずか一ヶ月。
バルツァー特別自治区の行政およびシステム管理の速度は、以前の3倍以上に跳ね上がっていた。
彼女のデスクには、書類の山一つない。インクの染み一つない。持ち込まれた案件は、その場で瞬時に最適解が弾き出され、完璧なロジックとして処理されていく。
(……速いな。そして、何一つ間違っていない)
アレンは自分の手元にあるコンソールを見つめながら、静かに息を吐いた。
かつて、この席に座っていた『おっちょこちょいな補佐官』は、よく計算ミスをしては頭を抱え、時にはアレンに泣きついて夜通し二人で修正作業を行っていた。
それは極めて非効率で、無駄な時間だった。
だが、クロエにはそれがない。彼女の組むロジックはアレンと同等、あるいは商会のネットワークを駆使する分、アレン以上の精度と速度を持っていた。
「私はもう、ただ承認のサインをするだけの『置物(旧式)』だな」
自嘲気味に呟いたアレンに対し、クロエは羽ペンを動かす手を止めずに淡々と答えた。
「領主様が手を動かす必要などありません。あなたはシステムの『核』としてそこに存在し、最終的な決済権限だけを行使していただければ、この街は完璧に回りますわ」
「……」
「さて、次はこの決裁をお願いします。来月に予定されていた『星灯りの収穫祭』の、完全中止案です」
クロエがスッと差し出した書類を見て、アレンの指先がピタリと止まった。
「……収穫祭の中止、だと? これは、自治区が立ち上がった時から領民たちが楽しみにしている――」
「極めて非合理な『無駄』ですわ」
クロエは冷徹な声で言い放った。
「3日間にわたる祭りの準備と本番で、領民の労働生産性は著しく低下します。さらに祭りの装飾や無償の炊き出しにかかる予算を、北部防壁の自動化と医療ポーションの備蓄に回せば、街の生存確率と生産性は15%向上します」
「だが……あの祭りは、厳しい冬を越えるための領民たちの『心の支え』だ。リリアも、あの祭りの屋台のリンゴ飴を毎年楽しみにして――」
「お姉様は死にましたわ」
クロエの鋭い一言が、執務室の空気を凍りつかせた。
アレンがハッと顔を上げると、クロエは氷のような、けれどどこか苛立ちを含んだ瞳でアレンを見据えていた。
「感情に流された結果が、あの死です。……私たちは、冷酷なまでに合理的でなければならない。領民の『一時的な笑顔』よりも、『明日も確実に生き延びる確率』を優先すべきです。それが、上に立つ者の完璧なロジックではありませんか?」
アレンは、何も言い返せなかった。
クロエの言っていることは、100%正しい。アレン自身がこの一年間、自分の心を殺して実践してきた「システムとしての完璧な生き方」そのものだったからだ。
「……分かった。お前のロジック(計算)を、承認しよう」
アレンは震える手を抑えつけながら、収穫祭の中止案にサインをした。
クロエは「賢明なご判断ですわ」と小さく頷き、書類を回収した。
* * *
数日後。
アレンは視察のため、一人で街の大通りを歩いていた。
街は恐ろしいほどに綺麗だった。無駄な露店は撤去され、道は美しく舗装され、魔力駆動の運搬車が効率よく物資を運んでいる。
「アレン領主様、クロエ様! 素晴らしい政策です。税の還元率が上がり、我々の商売もかつてないほど潤っておりますぞ!」
裕福な商人たちが、アレンを見て揉み手で近づいてくる。
だが、その光景の裏側――路地裏の隅で、小さな子供たちが、撤去されていく「祭りの提灯」の残骸を見つめながら、ポロポロと涙を流しているのが見えた。
配給の削減により、働き手のない老人たちが、肩を寄せ合って寒そうにため息をついていた。
『あらあら! アレン様、見てください! この提灯、ちょっと不格好ですけれど、子供たちが一生懸命作ったんですって! ふふっ、この街は本当に温かくて、最高ですわね!』
アレンの脳裏に、かつてリリアが満面の笑みで語っていた言葉がフラッシュバックする。
(……これが、俺の守りたかった街なのか?)
アレンは立ち止まり、自らの両手を見つめた。
マリアから街を守り、すべてを完璧に管理しているはずなのに。
この街には今、悲しいほどの『静寂』と『冷たさ』だけが満ちていた。リリアが愛した、あの少しうるさくて、お節介で、温かい「ノイズ」は、クロエとアレンの完璧なロジックによって、完全に排除されてしまったのだ。
「……俺は」
アレンは強く拳を握りしめた。
自分はシステムという機械に逃げ込んだ。だが、クロエという「より完璧な機械」が現れたことで、自分が切り捨ててきたものの『本当の重さ』に、ようやく気付かされたのだ。
アレンは踵を返し、執務室へと向かって走り出した。
デスクの引き出しにしまってある、赤いインクの紋章が刻まれた木箱。
あれを開けなければならない。完璧なロジックの檻を壊し、もう一度『人間』として、この冷たい街に温かなエラー(感情)を取り戻すために。




