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第38話:完璧な鏡、あるいはノイズなき冷たい紅茶

テーブルの上に置かれた、赤いインクの紋章が刻まれた木箱。

アレンはそれに触れることができず、ただじっと見つめていた。その箱には、たしかにリリアの魔力の残滓(におい)が染み付いている。

「……開けないのですか? 完璧な領主様にしては、随分と非合理的な時間の使い方ですわね」

クロエはソファに深く腰掛けたまま、氷のように冷ややかな目でアレンを見た。

「……お前は、リリアに似ているな。顔立ちも、声も」

「よく言われますわ。ですが、中身は真逆です」

クロエは立ち上がると、応接室のサイドテーブルにあった茶器を手に取った。

「私は、お姉様のような『おっちょこちょい(バグ)』ではありませんから」

コトリ、と。

一切の無駄のない、流れるような美しい所作で、クロエはアレンの前にティーカップを置いた。

カップの縁に水滴一つ飛び散っていない。温度は完璧な適温。添えられた角砂糖の配置すら、幾何学的な美しさを持っていた。

アレンの記憶にあるリリアは、違った。

彼女が淹れる紅茶は、いつも少しだけお湯がこぼれてソーサーを濡らしていたり、頼んでもいないのに「お疲れですから!」と角砂糖を三つも山盛りに放り込んできたりした。

それはシステム管理(ロジック)の観点から言えば、間違いなく「エラー」であり「ノイズ」だった。

「お姉様は、商人としては致命的なほど欠陥品でした」

クロエが自分のカップに口をつけながら、淡々と語る。

「情に流され、非合理的な選択をし、最後には自分の命という最大の資本(コスト)まであっさりと捨ててしまった。……私は違います。無駄な感情に振り回されることも、計算外のミスを犯すことも絶対にありませんわ」

その言葉は、アレンの胸の奥を鋭く抉った。

怒りではない。クロエの口から紡がれる「感情の排除」と「完璧な合理性」のロジックが、他でもない――今の自分自身の思考回路と、あまりにもそっくりだったからだ。

アレンは、目の前に座るクロエを見つめた。

美しく、完璧で、一切の隙がない。

しかし、その瞳には何の温度もない。まるで、精巧に作られた美しい自動人形(オートマタ)だ。

(……ああ、そうか)

アレンは、底知れぬ寒気に襲われた。

彼は気づいてしまったのだ。この一年間、悲しみを殺すために感情を切り捨て、ただ街を回すための「完璧なシステム」として生きてきた自分もまた、周りから見ればこの少女と同じように『無機質で空っぽな人形』に映っていたのだということに。

領民たちがアレンに向ける「聖人」という賛美は、温かい人間への親愛ではなく、狂いなく動く機械への畏怖に過ぎなかったのだ。

「……クロエ、と言ったな」

「はい」

「お前の淹れた紅茶は、完璧だ。……だが、ひどく冷たく感じる」

アレンの言葉に、クロエの銀色の眉がピクリと動いた。

「この箱は、今はまだ開けられない。これを解刃(アンロック)するためのロジックが、今の俺には欠落している気がするからだ」

アレンは木箱をそっと引き寄せ、自分の手元に置いた。

「俺は、俺の中にあるエラー(感情)から逃げるために、システムという殻に逃げ込んでいた。お前を見て、それがよく分かったよ」

「……私を反面教師にしろと? 腹立たしい男ですわね」

クロエは不機嫌そうに目を細めたが、その瞳の奥に初めて、ほんのわずかな「苛立ち」という人間らしい感情の揺らぎが見えた。

「クロエ。お前を、俺の直属の補佐官に任命する。……リリアの席だ」

「お断りしますと言ったら?」

「大商会の特使が、領主からの直接契約(ビッグディール)を蹴るのは非合理だ。違うか?」

アレンが初めて、この一年間見せなかった『皮肉めいた笑み』を浮かべる。

クロエは少しだけ目を見開いた後、ふん、と鼻を鳴らした。

「……ええ、極めて合理的な提案(ロジック)ですわ。承諾いたします」

クロエは立ち上がり、完璧な角度で一礼した。

「ただし、勘違いなさいませんように。私はお姉様の身代わりになるつもりはありません。あなたがこの箱を開け、真に『領主(人間)』として使い物になるか……大商会の目として、一番近くで査定させていただきますわ」

完璧なロジックで感情を殺した男と、感情をノイズだと切り捨てる完璧な少女。

二人の歪で冷たい共犯関係が、今は亡き少女の遺した『木箱』を真ん中にして、静かに幕を開けた。

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