第37話:空虚な玉座、あるいは託された遺言(ラスト・プロンプト)
あれから、一年が経った。
バルツァー特別自治区は今や、周辺諸国の中で最も豊かで、最も安全な街として名を馳せていた。
「アレン領主様! 今年の麦の収穫量は、昨年の20%増しです! これもすべて、領主様が気候制御の魔法陣を完璧に調整してくださったおかげです!」
「領主様、どうか少しはお休みになってください。昨日も執務室の明かりが朝まで点いておりましたよ」
視察で街を歩けば、領民たちは口々に感謝と労いの言葉をかけてくる。
アレンは彼らに向かって、穏やかに、そして完璧な角度で微笑み返した。
「ありがとう。だが、これは領主として当然の計算式を実行したまでだ。みんなが安心して暮らせるなら、俺の睡眠時間など安い代償だよ」
その言葉に、領民たちは感動の涙を流し、若き領主を「辺境の聖人」と讃えた。
――しかし。
領民たちの誰も、気づいてはいない。
完璧な微笑みを浮かべるアレンの瞳の奥が、ガラス玉のようにひどく無機質で、空虚な闇に沈みきっていることに。
* * *
深夜の領主執務室。
アレンは一人、青く輝く魔力制御盤に向かっていた。
街のインフラは、一切のエラーを出さず完璧に稼働している。王都からの干渉は完全に遮断され、マリアという『猛毒』も、あの日、地下牢の暗闇の奥深くへと幽閉した。
すべてはアレンの構築した絶対の論理の中で、平和に、安全に回っている。
「……計算通りだ。明日も、明後日も、この街は完璧に機能する」
アレンは独り言のように呟き、デスクの端に置かれたマグカップに手を伸ばした。
冷めきったブラックコーヒーを喉に流し込む。
ひどく、苦い。
以前は必ず、誰かが角砂糖を二つ、勝手に入れてくれていた。そのお節介で甘すぎる味が、アレンは少しだけ苦手で、けれど――なによりも愛おしかった。
(……やめろ。余計なノイズ(感情)を処理するな。俺は、街を回すためのシステム(歯車)でいい。彼女の命と引き換えに残されたこの街を、完璧に維持する。それだけが、俺の存在する理由だ)
自らの心を殺し、感情を『不要なバグ』として切り捨てる。
そうしなければ、あの日、自分の腕の中で冷たくなっていったリリアの感触を思い出して、発狂してしまいそうだったから。
彼女の血で赤く染まったこの執務室で、アレンはもう一年間、生きた屍のように孤独な玉座に座り続けていた。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「アレン様。夜分遅くに申し訳ありません。……王都の『大商会』より、特使の方がお見えです」
扉の向こうから、エルナの緊張した声が聞こえる。
「大商会、だと……?」
アレンの表情が微かに動いた。
リリアの実家である大商会とは、彼女の死後、必要最低限の物資の取引以外は完全に途絶えていた。彼らにとって、アレンは「大切な令嬢を死なせた憎き無能」であるはずだ。今更、何用だというのか。
「……通してくれ」
アレンは立ち上がり、来客用の応接室へと向かった。
応接室のソファに腰掛けていたのは、見知らぬ少女だった。
年齢は十五、六ほどだろうか。商会特有の漆黒の外套に身を包んでいるが、そのフードの隙間からこぼれる艷やかな銀糸の髪と、知性と意志の強さを宿した瞳に、アレンは息を呑んだ。
「……リリア?」
「お初にお目にかかります、『完璧なる』アレン・バルツァー辺境伯」
少女は立ち上がり、氷のように冷たい、だがひどく澄んだ声で挨拶をした。
「私は大商会より遣わされた新たな補佐官。クロエと申します。――死んだリリアの、妹ですわ」
その言葉に、アレンの思考が一瞬フリーズした。
クロエはアレンの顔をジッと見つめ、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「……お姉様が遺したデータの通りですわね。一見すると完璧な領主。けれどその中身は、感情を閉ざし、ロジックという名の分厚い殻に引きこもった『空っぽの人形』」
「……用件は何だ。俺を責めに来たのなら、甘んじて受けよう。俺には彼女を守れなかった責任がある」
「責める? そんな無駄なこと、商人はいたしません。過去の損失に執着するのは三流のやり方ですわ」
クロエは淡々と告げると、懐から『小さな木箱』を取り出し、テーブルの上に置いた。
その箱の封には、見覚えのある『赤いインク』の紋章が刻まれている。
「これは、お姉様が亡くなる直前、大商会の金庫に厳重に預けていた『契約の箱』です」
「リリアが、遺した……?」
「ええ。彼女はこう書き残していました。――『もし私が死んで、アレン様が心を殺してただのシステムになってしまったら。一年間だけ一人で泣かせてあげた後、これをアレン様に突きつけなさい』と」
クロエは、アレンに向かってスッと箱を差し出した。
「受け取りなさい、アレン様。これはお姉様が、絶望の底に沈むあなたを引きずり上げるために遺した、最期で最強の『遺言』ですわ」
完璧に閉ざされていたアレンのロジックに、一年ぶりに、鮮烈な『感情』の波が叩きつけられた。




