第36話:完璧なロジック、あるいは盤外の猛毒
「さあ、死滅なさい! お兄様の築いた薄っぺらな幸福ごと、全部泥に沈めてあげる!!」
マリアの絶叫とともに、執務室の床から噴き出した漆黒のノイズが、大蛇のようにうねりながらアレンたちへと襲いかかった。
それは先ほどのシステム乗っ取り(ハッキング)とは次元が違う。マリア自身の命の魔力と、前世から抱え込んできた『理不尽な世界への憎悪』を直接コードに変換した、呪いそのものだった。
「くっ……! リリア、俺の後ろから離れるな!」
アレンは咄嗟に前に出て、青い光の防壁を展開する。
黒い大蛇が防壁に衝突し、鼓膜を破るような激しいノイズと火花が散る。
「どうして……どうしてよ! 私たちは同じ地獄(底辺)にいたはずじゃない! なのに、どうしてお兄様だけがこんな温かい場所で、優秀な女たちに囲まれて、家族ごっこを満喫しているの!?」
マリアの目から、血の涙がこぼれ落ちる。
「許せない……私を置いて、自分だけ『完璧なロジック』で幸せになるなんて! だから壊してやるのよ! お兄様の愛するすべてを!!」
嫉妬。憎悪。孤独。
マリアのコードは、論理的な美しさなど微塵もない、醜く泥臭い『感情の暴走』だった。
「……マリア。お前のその身勝手な感情で、俺の街と、俺のシステム(家族)を壊させるわけにはいかない」
アレンの瞳に、迷いはなかった。
どれほど感情的で強大なウイルスであろうと、そこには必ず計算式がある。アレンは超高速でマリアのウイルスの構造を解析し、無効化するためのカウンターコードを編み上げていく。
そして、アレンの構築した絶対的な論理の防壁の背後から、リリアがとどめの『美しいプロンプト』を叩き込む。
『――要求。悪意の根源的排除。全システム権限の強制奪還』
ピィンッ、と涼やかな音が鳴り響いた。
マリアが放った漆黒のノイズが、アレンとリリアの完璧な連携の前に、ガラスが砕けるように粉々に霧散していく。
「あ……あぁっ……!」
魔力を根こそぎ弾き返されたマリアは、糸が切れたように床へ崩れ落ちた。
エラーは完全に駆除された。マリアにはもう、システムに干渉する魔力も権限も残っていない。
論理による、完全なる勝利だった。
「……終わったぞ、マリア。お前はもう、何も壊せない」
アレンは静かに告げ、リリアと共に安堵の息を吐き出した。
(これで、すべて終わった。村も、リリアも守り抜くことができた……)
――それが、アレンの『致命的なエラー(勘違い)』だった。
「あ……あははっ……ああ、そう。システム(盤上)では、お兄様の勝ちね」
うつむいていたマリアが、ゆらりと立ち上がる。その顔には、もはや人間の理性は残っていなかった。
「でもね、お兄様。人間の『悪意』は、コードの中だけで終わるほど、お行儀のいいものじゃないのよ」
次の瞬間。マリアが獣のような唸り声を上げ、ドレスの胸元から『何か』を引き抜いて跳躍した。
銀色に鈍く光る短剣。
その刃には、先ほど破壊されたはずの『漆黒のウイルス』が、べっとりと濃縮されてまとわりついていた。
「な……っ!?」
アレンの思考が、完全に停止した。
彼の優秀すぎる『論理的思考』は、魔力も権限も失ったはずの相手が、自らの足で刃物を握って突っ込んでくるという非論理的なエラーを処理しきれなかったのだ。
防壁を展開する魔法陣の構築すら間に合わない。
ウイルスを纏った凶刃が、無防備なアレンの心臓めがけて迫る――その、一瞬の隙。
「アレン様ッ!!」
ドンッ、と強い衝撃とともに、アレンの身体が横に突き飛ばされた。
直後。
ズブゥッ!という、ひどく生々しい肉の裂ける音が執務室に響き渡った。
「…………えっ?」
床に転がったアレンが顔を上げる。
視界に飛び込んできたのは、アレンを庇って立ち塞がったリリアの背中。
そして、彼女の胸の中心深くに、マリアの握る短剣が根元まで突き刺さっている光景だった。
「あ……がっ……」
リリアの口から、鮮血が溢れ出る。
「あはははははッ!! ざまあみろ! お兄様の一番大切なモノ、奪ってやったわ!!」
狂気に顔を歪めたマリアが、刃をさらに深く捻り込んだ。
「リリアッ!!」
アレンの絶叫が響く。彼は無我夢中でマリアを魔力の衝撃波で吹き飛ばし、崩れ落ちるリリアの身体を抱きとめた。
「待て、今すぐ治癒魔法を……! 『要求! 細胞の再生、魔力回路の修復!』」
アレンは震える手でリリアの傷口に触れ、最上級の治癒ロジックを流し込もうとした。
しかし。
『――エラー。対象の魔力回路に致命的な汚染を検知。ロジックの展開に失敗しました』
「な、なんだと……!? なぜだ!」
「無駄よ、お兄様……」
壁際で血を吐きながら、マリアが嗤った。
「その短剣にはね、私のウイルスの原液が塗ってあるの。刺さった瞬間に、そいつの魔力回路を物理的に食い荒らす猛毒。……どんなに完璧なロジックを組もうと、実行する回路がぶっ壊れてちゃ、魔法は発動しないのよ」
(そんな……システムへのウイルス攻撃は、ただの『囮』だったというのか!? 最初から、物理的に俺たちを刺し殺すために……!)
アレンの頭の中で、絶対だったはずの論理が悲鳴を上げて崩壊していく。
「ごめん、なさい……。私、おっちょこちょい、だから……アレン様を庇うことしか……できなくて……」
血まみれのリリアが、力なく微笑んだ。
「死ぬな! リリア、死なないでくれ! 治癒コード、展開しろ! なぜ動かない! 動けぇッ!!」
アレンは半狂乱になりながら、何度も何度も魔力を流し込む。しかし、ウイルスの猛毒は無情にもリリアの命を蝕んでいく。
「……アレン様。どうか、ご自身の……優しい心を、信じて……」
リリアの冷たくなっていく手が、アレンの頬にそっと触れ――そして、力なく床へと滑り落ちた。
魔法でもシステムでもない、泥臭く理不尽な『物理的な殺意』。
たったそれだけの非論理的なバグによって、アレンのすべてだったロジックは無惨に打ち砕かれた。
復旧した青く美しいインフラの光に照らされた執務室で、アレンはただ一人、物言わぬ少女の亡骸を抱きしめながら、絶望の底で獣のような咆哮を上げるしかなかった。




