第31話:崩落のトリガー、あるいは完璧な絶望
「リリアがいなくなってから、書類の処理速度が如実に落ちているな……」
アレンは薄暗い執務室のデスクで、山積みの決裁書類を前に小さく息を吐いた。
商会の娘として幼い頃から数字に触れ、自治区の外部交渉や帳簿管理を完璧にこなしていたリリア。彼女の「おっちょこちょい」なミスによる突然の離脱は、アレンの論理的な計算を大きく狂わせていた。
そこに、コトリと温かい紅茶が置かれる。
「お兄様、少し休んでください。……私、リリア様の代わりにはなれませんけれど、せめてお側で、できる限りのことをさせてくださいね」
儚げに微笑むマリア。その痛々しくも健気な姿に、アレンは少しだけ目を細め、胸の奥の焦燥感を鎮めた。
(リリアの件は残念だったが、俺にはまだ守るべき家族がいる。この自治区のインフラだけは、絶対に揺るがせない)
しかし、その『絶対』が脆い幻想に過ぎなかったことを、彼はすぐに思い知ることになる。
バンッ!!
突然、執務室の扉が乱暴に蹴り開けられた。
「ア、アレン様! 止めたんですが……っ!」
涙目で制止しようとするエルナを突き飛ばすようにして入ってきたのは、豪奢な服を着込んだ王都の貴族――視察団の特使と、その後ろで下劣な笑みを浮かべるガルンとミラン(両親)だった。
「やあやあ、辺境の若き領主殿。王都からの『特別監査』にやってきたぞ」
「……監査だと? そのような通達は受けていないが」
アレンは立ち上がり、冷徹な視線を向けた。
「通達など不要だ! 貴様の右腕だった商会の娘が、機密情報を横流ししていたというタレコミがあってな。自治区のインフラに重大な欠陥と予算の不正流用がある疑いが強まった。特使である私の権限で、今すぐメインシステムを調べさせてもらう!」
両親が特使の背後で「へへっ、これでこの村の財産も権利も俺たちのものだ!」と醜く笑っている。
アレンは顔色一つ変えなかった。
彼の構築したインフラコードは、論理の結晶だ。不正などあろうはずがない。
「……いいだろう。好きに調べろ」
アレンがエルナに顎でしゃくると、エルナは震える手で魔力制御盤を起動し、外部からの監査用接続を許可した。
――それが、マリアが仕掛けた『論理爆弾(トロイの木馬)』の起動スイッチ(トリガー)だとも知らずに。
特使の持参した魔導具が、システムのポートに接続された瞬間。
ピィィィィィン……ッ!!
鼓膜を突き破るような高周波の警告音が執務室に鳴り響いた。
空中に展開されていた青い魔法陣のインターフェースが、次々と毒々しい赤色に染まっていく。
「な、何だ!? 魔力流動率が、急激に低下しています!」
エルナが悲鳴を上げた。
「馬鹿な。基幹コードにエラーはないはずだ!」
アレンがコンソールを弾くように操作するが、アクセス権限が弾かれ、全く反応しない。
『致命的なエラー。不正な書き換えを検知。魔力配分バルブを強制シャットダウンします』
無機質なアナウンスと共に、執務室の灯りがふっと消え、窓の外――自治区全体を包んでいた防壁の光や、街の浄水システムの稼働音が次々とブラックアウトしていく。
「ヒィッ! な、なんだこれは! 貴様、監査を妨害するためにインフラを自爆しおったな!?」
特使が喚き散らす中、アレンは愕然と赤く染まった魔法陣を見つめていた。
(外部からの特定の魔力波を受信した瞬間に、基幹コードそのものを自壊させる仕組み……!? こんな現代のハッキングのような真似、この世界でできる奴がいるはずが……!!)
完璧だったはずの論理が、音を立てて崩れ去っていく。
絶対の自信を持っていたインフラが、自分の手で守れなかったという未曾有の絶望。
「お、お兄様……っ、怖いですわ……!」
マリアが怯えたようにアレンの腕にすがりついてくる。アレンは反射的に妹を庇うように、その細い肩を抱き寄せた。
だが、暗闇の中でアレンの胸に顔を埋めたマリアの唇は、極上のワインを味わうかのように深く、美しく歪んでいた。
(――ああ、たまりませんわ。ご自身の完璧なロジックが通用せず、為す術もなく崩壊していくその絶望のお顔。もっと、もっと見せてくださいな、お兄様)
すべてを失いかけた男と、その腕の中で至上の歓喜に酔いしれる最悪の妹。
リリアという最後の防壁を失ったバルツァー特別自治区は、今、完全なる暗闇に飲み込まれたのだった。




