第30話:盤上の身代わり、あるいは見落とされた違和感
「……リリア。これは、どういうことだ」
領主執務室に、氷のように冷たいアレンの声が響いた。
彼のデスクの上に投影されているのは、自治区の機密情報である「次期インフラ拡張の魔力回路図」の流出ログだった。そして、その情報が外部へ送信された痕跡は、完全にリリアの専用端末と一致していた。
「えっ……? あ、ああーっ!? う、嘘、私ったらまた……!」
リリアは投影されたログを見るなり、顔を真っ青にして頭を抱えた。
「そういえば昨日、端末の魔力認証を開けっぱなしにして、書類庫にこもっちゃって……もしかして、その間に誰かが……?」
「お前な……!」
アレンはドンッ、とデスクを強く叩いた。
「商会の人間が、そんな初歩的でずさんな管理をしてどうする! これは自治区の根幹に関わる機密だぞ。もし悪意のある者に渡っていれば、村がどうなるか……!」
「わ、分かってますわよ! でも、わざとじゃないんです! 私だって最近、色々と忙しくて……!」
「仕事の忙しさを言い訳にするな。お前のその『おっちょこちょい』では済まされない事態なんだぞ!」
アレンの容赦ない正論の連続に、リリアの目にも次第に涙が浮かび始める。
普段なら反省してすぐに挽回策を提案する彼女だが、今日はなぜか感情的だった。
「……そうですわね。どうせ私は、アレン様みたいに完璧じゃありませんもの!」
「話の論点をすり替えるな。今はセキュリティの話を――」
「いいえ、分かってますわ! アレン様は最近、ずっと私に冷たかったですし! どうせ私の代わりなら、その『完璧で優しい』マリアさんにでもやってもらえばいいじゃないですか!」
「……っ、マリアは関係ないだろう!」
売り言葉に買い言葉。ヒートアップする二人の間に、たまらずマリアが割って入った。
「お兄様、リリア様! おやめください! 私のせいで二人が喧嘩するなんて……うっ、ごほっ、ごほっ……!」
「マリア!」
咳き込み、床にへたり込んだマリアをアレンが慌てて支える。
その光景を見たリリアは、ピタリと動きを止め、深く息を吐き出した。
「……もう、いいですわ。すべての責任を取って、私、インフラ管理室から外れます。実家(商会)に帰らせていただきますから!」
「あ、おい、リリア! 話はまだ――」
制止するアレンを振り切り、リリアは執務室の扉へと向かった。
(――ふふっ、あっけない。一番の障害だった商会の小娘も、感情を煽ればこの程度。デリート完了ですわ)
アレンの腕の中で、マリアは顔を伏せながら歓喜に震えていた。これでアレンの周囲から有能な味方は消え、孤立化は完了した。
バタンッ、と執務室の扉が閉まる。
しかし、アレンの胸の奥には、怒りとは別の、小さな棘のような「違和感」が引っかかっていた。
(……おかしい。リリアはたしかにドジなところはあるが、機密情報の端末認証を『開けっぱなし』にするほど素人だったか?)
アレンの視線が、主を失ったリリアのデスクへと向く。
そこには、いつも彼女が几帳面に揃えているはずの羽ペンが、なぜか『赤いインク瓶』の隣に無造作に転がっていた。
商会において、赤いインクは「重大な警告」や「緊急の取引停止」を意味する隠語だ。
(いや……ただ感情的になって飛び出していっただけだ。俺が考えすぎているだけだ……)
アレンは首を振り、論理的でない自らの直感を強引に打ち消した。
――扉の向こう側で、リリアが「怒り」ではなく、極めて冷徹な「商人の目」をして歩き出していたことなど、知る由もなかった。




