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第29話:商会の目と見えない亀裂、あるいはヒューリスティックな違和感

「――ええ、ええ。ご安心くださいませ。自治区の基幹システムへの『裏口(バックドア)』は、すでに開けておきましたわ」

深夜。あてがわれたゲストルームの暗闇の中で、マリアは手のひらサイズの通信用魔石に向かって、氷のように冷たい声で囁いた。

魔石の向こうからは、下劣な笑い声が響いてくる。

『くくっ、見事だマリア。まさかあの生意気なアレンが、こうもあっさりと実の妹を中枢へ招き入れるとはな。……数日後、我々が王都の視察団としてそちらへ赴く。そのタイミングで、自治区のインフラを一斉に落とせ。あの小僧が絶望に顔を歪める様が楽しみだ』

「ふふっ……承知いたしました。すべては、王都の皆様の筋書き通りに」

通信が切れ、魔石の光が消える。

暗闇に取り残されたマリアは、ベッドの上に無造作に魔石を放り投げると、忌々しげに舌打ちをした。

(『我々の筋書き』? 愚かで底の浅い豚どもが。あなたたちはただ、私がこの村を内側から崩壊させるための『トリガー(外部刺激)』に過ぎませんわ)

王都の貴族も、あの両親も、すべてはマリアの掌の上で踊る駒でしかない。

彼女の目的はただ一つ。自分を置いて「完璧な幸福」を手に入れたアレンから、そのすべてを奪い去ること。

インフラへの論理爆弾(時限トラップ)の仕込みは終わった。ならば次は――アレンの周囲を固める「人的ファイアウォール」の無力化だ。

* * *

翌朝。領主執務室では、いつものようにアレンたちが業務に追われていた。

「……おかしいですね。昨日の夜から、北区画の魔力流動率が『0.02%』だけ低下しています。誤差の範囲ですけど、ログには何の異常も記録されていなくて……」

魔力制御盤を睨みながら、エルナが首をひねっていた。

アレンも手元の資料を置き、論理的な思考を巡らせる。

「ログに異常がないなら、物理的な魔力回路の経年劣化か? あるいは気候変動によるノイズの可能性もある。室長、念のため午後に物理点検のスケジュールを入れてくれ」

「はいっ、了解しました!」

アレンのその判断は、管理者として極めて「論理的で正しい」ものだった。

だからこそ、彼のロジックはシステム内部に潜んだ「悪意(マリアの仕込んだウイルス)」を検知できない。

「お兄様、エルナ様。お疲れ様です。……あの、私にも何かお手伝いできることはありませんか?」

そこへ、マリアが不安げに目を潤ませながら歩み寄ってきた。

「気にしなくていい。お前はまだ体調が万全じゃないだろう。そこで休んでいろ」

「でも……私、お兄様の足手まといになりたくなくて……うっ、ごほっ、ごほっ……!」

少し無理をして背伸びをした直後、マリアは苦しそうに胸を押さえて咳き込んだ。

その痛々しい姿に、アレンはすぐさま立ち上がり、彼女の背中を支える。

「無理をするなと言っているだろう。エルナ、悪いが少し休憩を挟む。マリアに温かいお茶を」

「わ、分かりました! すぐ淹れますね!」

慌てふためくエルナと、マリアを気遣うアレン。

――しかし、その光景を少し離れたデスクから静かに見つめていた人物がいた。リリアだ。

(……おかしいですわね)

リリアのペンを持つ手が、ピタリと止まっていた。

大商会の娘として、幼い頃から数え切れないほどの「人間の欲望と嘘」を観察してきた彼女の直感が、静かな警鐘を鳴らしていた。

マリアの咳き込むタイミング。エルナの作業を中断させる間の取り方。そして、アレンの同情を引く完璧な角度。

(アレン様は『論理』でしか物事を見ないから気づいていらっしゃらないけれど……この子の振る舞い、あまりにも『完璧すぎる』。まるで、相手がどう動くかをすべて計算し尽くしているような……)

商人の直感(ヒューリスティック)による、微かな違和感。

リリアが静かに視線を鋭くしたその瞬間――、アレンの腕に抱かれていたマリアが、ふと顔を上げ、リリアと真っ向から視線を交ませた。

か弱く、潤んだマリアの瞳。

しかし、その奥底に一瞬だけ浮かんだのは、蛇のように冷たく、すべてを見透かすような『強者の底意地』だった。

(――あら。どうやらこの村には、論理(ロジック)という枠組みに囚われない、厄介な『検知機能(ヒューリスティックスキャン)』が備わっているようですわね)

ほんの一秒にも満たない視線の交錯。

マリアはすぐに元の「怯えた妹」の表情に戻り、アレンの胸に顔をうずめた。

(アレン様を孤立させるための、次のターゲットが決まりましたわ。……ええ、まずはあの目障りな商会の娘から、社会的に『排除(デリート)』してさしあげます)

表向きは穏やかな執務室の中で、アレンの知らない見えない亀裂が、確かな音を立てて走り始めていた。

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