第28話:幸福への嫉妬、あるいは仕込まれた論理爆弾
「……エルナ様、お茶をお持ちしました。根詰めていらっしゃるようですから、少し休んでくださいな」
領主執務室に、甘く上品な香りが漂う。
青白い顔のまま、おぼつかない足取りでティーカップを運んできたマリアに、インフラ管理室長のエルナは慌てて立ち上がった。
「わわっ、マリアちゃん! 無理しなくていいのに! 君はまだ働き始めたばかりで、体調だって万全じゃないんだから!」
「ふふ、ご心配なく。お兄様に拾っていただいた恩を、少しでもお返ししたいのです。……ごほっ」
「ほら、やっぱり咳が出てるじゃないですか! ああっ、私が代わりますから座っててください!」
おろおろと気遣うエルナと、優しく微笑みながらソファに腰を下ろすマリア。
そのやり取りをデスクから見ていたアレンとリリアも、張り詰めていた空気を少しだけ緩ませていた。
「まったく、お前は少しじっとしていろ。……だが、淹れてくれた茶はありがたく貰っておく」
「アレン様ったら、素直じゃありませんわね。マリアさん、とっても美味しいですわ。ありがとう」
「……お口に合って、よかったです」
温かな湯気。労わりの言葉。互いを信頼し合う、家族のような穏やかな空気。
このバルツァー特別自治区の心臓部には、かつての冷たく荒みきった実家には存在しなかった「確かな幸福」が満ちていた。
――反吐が出る。
カップに口をつけるアレンたちを伏し目がちに見つめながら、マリアの胸の奥では、どす黒いタールのような感情が渦を巻いていた。
(お金? 権利? あんな三流の悪党(両親)と同じ次元で満足するわけがありませんわ。私が欲しいのは、そんな安っぽいものではない)
前世の記憶。無機質で、ただ最適解だけを求められ、誰とも真の繋がりを持てなかった冷たい日本の記憶。そしてこの世界に転生してからも、最低の親の下で理不尽に耐えるしかなかった日々。
自分はずっと、この世界のバグのような底辺で息を潜めてきた。それなのに、同じ血を引き、同じ地獄にいたはずの兄だけが、いつの間にかこんな「温かくて完璧な箱庭」を作り上げ、偽りの家族ごっこを満喫している。
(許せませんわね。私を置いて、お兄様だけが『幸福』を手に入れるなんて。……ええ、こんな薄っぺらな平穏、根底から粉々に砕き割ってさしあげますわ)
マリアの目的は、金銭の横領ではない。
彼らが築き上げたこの「幸福な日常」を、最も残酷な形で奪い去ること。絶望に顔を歪めるアレンを見て、初めて自分の心は満たされるのだ。
「あ、いけない! 地下水路の魔力配分バルブ、少し設定を調整しなきゃ……」
エルナが思い出したように、執務室の隅にある巨大な魔力制御盤へと向かった。
マリアはスッと立ち上がり、空になったエルナのティーカップを片付けるふりをして、背後から音もなく近づく。
「エルナ様、私にも手伝わせてください。お兄様が作ったこの村のこと、もっと知りたいのです」
「えっ? でも、これはインフラの基幹コードだから、素人のマリアちゃんには少し難しいかも……」
「見ているだけでも駄目、でしょうか……?」
潤んだ瞳で上目遣いに見つめられ、人の良いエルナは「うっ」と呻いて陥落した。
「し、仕方ないですね……! 触らないように、後ろから見てるだけですよ?」
「はい。ありがとうございます、エルナ様」
エルナが制御盤に魔力を流し、空中に複雑な魔法陣を展開する。それは、村の浄水、街灯、防壁のエネルギーのすべてを司る、自治区の心臓そのものだった。
マリアはその光の列を背後から見つめ、一瞬でその構造を理解した。
(なるほど。魔力波を二進数のロジックに変換してインフラを制御しているのですね。お兄様らしい、堅牢で美しいコード。……でも、美しすぎるが故に、異物の混入に対する免疫が甘い)
「きゃっ!」
突然、マリアがわざとらしく足元をふらつかせ、エルナの肩に軽くぶつかった。
「マリアちゃん!? 大丈夫!?」
「ご、ごめんなさい……少し、立ち眩みが……」
エルナが慌ててマリアを支えようと、数秒だけ制御盤から目を離した。
その刹那。
エルナの死角に隠れたマリアの左手が、目にも留まらぬ速さで空中の魔法陣に触れた。
――書き換え(インジェクション)、実行。
彼女の指先から極小の魔力が放たれ、インフラの基幹コードの隙間に、一滴の猛毒が滑り込む。
それは表向きは何の不具合も起こさないが、外部からの特定の干渉波を受け取った瞬間に、自治区の全機能を一斉に暴走・停止させる恐るべき『トロイの木馬(論理爆弾)』だった。
「ごめんなさい、エルナ様。もう大丈夫ですわ」
「びっくりしましたよー! やっぱり今日はもう休んでください!」
エルナは安堵したように息をつき、再び制御盤に向き直って作業を終えた。システムには何のエラーも表示されておらず、彼女は完全に「異常なし」と判断した。
(……インストール、完了)
心配そうに駆け寄ってくるアレンとリリアに向けて、マリアは申し訳なさそうに、ひどく儚げな笑みを浮かべる。
彼らの足元を支える絶対的な基盤が、すでに自分の手の中に握られているとも知らずに。見えない時限爆弾のタイマーは、静かに、そして確実に時を刻み始めていた。




