第27話:完璧な模倣(ミラーリング)、あるいは甘い罠
「……お前は……マリア、なのか?」
アレンがゆっくりと椅子から立ち上がり、執務室の扉を開けると、そこには見違えるほど儚げな少女が立っていた。
上品な旅装束に身を包んだマリアは、青白い顔で小さく咳き込みながらも、かつてのように泣き喚くことはしなかった。ただ、その震える手で、一枚の羊皮紙をアレンの前に差し出した。
「お兄様……突然のご無礼をお許しください。私を、お兄様の『従業員』として買い取っていただけないでしょうか」
「……買い取る? どういうことだ」
予想外の言葉に、アレンは眉をひそめた。
マリアは痛ましげに胸を押さえながら、必死に言葉を紡ぐ。
「お父様とお母様は、お兄様からお金を奪えなかった腹いせに……私を、王都の悪趣味な貴族の愛妾として売り飛ばす契約を進めているんです。あの方たちにとって、私はただの『換金用の道具』でしかありません」
「なんだと……っ!」
その言葉に、アレンの脳裏にかつての忌まわしい記憶がフラッシュバックする。
借金のカタとして、自分を水理局のブローカーに売り払った両親の強欲な顔。あいつらは懲りずに、また同じことを実の娘に繰り返そうとしているのか。
「だから私、自分でこの『労働契約書』を書きました」
マリアが差し出した羊皮紙には、自治区の法律に則った完璧なフォーマットで、親権の放棄と引き換えに前借り金(身請け金)を支払うという法的な手続きが記されていた。
「血の繋がりなんて、何の価値もないと分かっています。だから、家族としての情で助けてほしいなんて言いません。私に投資してください。この身が擦り切れるまで、お兄様の自治区のために働きますから……っ!」
咳き込み、今にも倒れそうになりながらも、決して同情だけにはすがろうとしない。法と契約という「アレンと同じ武器」を使って、自らの運命を切り開こうとするその姿。
――それはかつて、絶望の中で必死に足掻いていたアレン自身の姿そのものだった。
「……アレン様」
リリアとエルナも、その悲痛な覚悟と完璧な契約書を前に、警戒の言葉を失っていた。泣きついてくるだけなら追い返せただろう。しかし、彼女は「取引」を持ちかけてきたのだ。
「……バカな奴だ。こんな不利な契約書、サインできるか」
アレンはため息をつき、マリアの手から羊皮紙を抜き取ると、それをビリビリと破り捨てた。
「お兄様……?」
「お前はもう、俺の直轄インフラ管理室の『見習い』だ。身請け金は前払いの給与として俺が両親に叩きつけて、親権放棄の念書を突きつけてやる。……よく、一人でここまで逃げてきたな」
アレンがマリアの細い肩を抱き留めると、彼女はついに張り詰めていた糸が切れたように、アレンの胸の中で声を上げて泣き崩れた。
妹を救い出せたという安堵と、両親への激しい怒り。アレンの心は、完全に「兄」としての正義感に染まりきっていた。
だが――。
アレンの胸に顔を埋めたマリアの視界の端で、破り捨てられた羊皮紙の切れ端がヒラヒラと床に落ちる。
その泣き顔の裏側で、彼女の唇は、極上のスイーツを味わうかのような甘く歪んだ弧を描いていた。
(――ターゲットの過去のトラウマを分析し、最適化されたシナリオを提示。共感によるファイアウォールの突破、完了ですわ)
かつての世界(現代日本)において『ソーシャルエンジニアリング』と呼ばれた、人間の心理のバグを突く最悪のハッキング。
彼女にとって、あの両親が自分を売ろうとしているという話も、徹夜で作ったという契約書も、すべてはアレンの「論理的思考」をハッキングするための巧妙なスクリプト(台本)に過ぎなかった。
完全に警戒を解かれた自治区の心臓部。
最悪のバグを孕んだ妹は、兄の温もりの中で静かに毒牙を研ぎ澄ませていた。




