第26話:優しい毒針、あるいは水面下の影
「……ほう。アレンの奴が、相変わらず冷たく突っ返してきたか」
「はい、お父様。でも、お兄様が警戒なさるのも無理はありませんわ。私たちが突然訪ねていったのですから……」
特別自治区の門から少し離れた宿の一室。
ガルンとミランが悔しそうに安酒をあおる傍らで、マリアはか弱く微笑み、丁寧に淹れたお茶を両親に差し出した。
その指先は微かに震えており、いかにも病弱で健気な妹を演じきっている。
「でもね、お父様、お母様。私、諦めませんわ。お兄様だって、本当は一人ぼっちで寂しいはずなのですから。……だから私、明日、どうしてもお兄様に直接お話ししに行ってきますわ。お世話になっている方へのご挨拶も兼ねて、ね」
マリアの優しく微笑む顔に、ガルンたちは「お前は本当に優しい子だ……」とすっかり毒気を抜かれたように頷いた。
――だが、両親が目を逸らし、マリアが窓の外に視線を向けた瞬間、その瞳に浮かんでいたのは慈愛の色ではなく、獲物を品定めするような冷徹な計算だった。
(お兄様が作り上げたこの自治区のインフラ……。法律と論理で構築された、見事な要塞。でも、どんな堅牢なシステムにも必ず『脆弱性』は存在するものですわ)
マリアの脳内に浮かんでいるのは、このファンタジー世界には本来存在しないはずの概念だった。
(強固なファイアウォールを正面から破るのが難しいなら、『ソーシャルエンジニアリング』の基本に従うまで。最も脆い人間関係の『バグ』から突いて、内側から権限を奪うだけ……。ふふっ、崩し甲斐がありそうですわね)
身勝手な両親は、その「バグ」を引き起こすための優秀なデコイ(囮)でしかない。
マリアは夜の闇に沈むバルツァー特別自治区の灯りを見つめながら、美しくも無機質な笑みを深めた。
* * *
その頃、領主執務室では。
エルナ室長が作成した「北側地下水路の拡張計画案」を前に、アレンとリリアが険しい顔で議論を交わしていた。
「アレン様、地下水路の魔力配分ネットワークですが、ここに少し不可解なノイズが混ざっていますわ」
リリアが指し示した魔法陣のモニタには、綺麗に整えられたコードの隙間に、ごく微小な「外部からの干渉波」のような痕跡が記されていた。
「外部からの干渉?」
「はい。まるで、誰かがこの自治区のインフラの構造を内側から覗き見ようとしているような……気のせいかもしれませんけれど、気味が悪い動きですわ」
アレンは眉をひそめ、モニタのデータを自分の端末に引き込んで解析を始めた。
セキュリティは万全のハズだ。王都のバドリックの一党はすでに失脚し、表立った脅威は排除したはずだったが――。
「……室長、この干渉波の発生源の特定はできるか?」
「はいっ! 現在、魔力波の足跡を逆探知するコードを走らせています! ……えっと、あれ?」
エルナは分厚い眼鏡をずり落ちそうにしながら、端末を激しく操作し、やがて悔しそうに声を上げた。
「……駄目です! 魔力波の痕跡が途中でいくつにも分岐していて、どこが本当の発信源なのか特定できません! まるで複数のダミーを経由させているような……すごく巧妙に隠蔽されています!」
「ダミーを経由して偽装しているだと……?」
アレンの表情がさらに険しくなる。
「王都の暗部か、あるいは他国のスパイか……。少なくとも、昨日追い払ったあの愚かな両親にできるような芸当じゃないな。高度な技術を持った『何者か』が、確実に俺たちのインフラを探っている」
得体の知れない凄腕のハッカーが潜んでいる。アレンたちの間に、強い緊張感が走った。
だからこそ、彼らは気づけなかった。その「高度な技術を持った何者か」が、すぐ近くまで迫っていることに。
コン、コン、と。
静かな執務室の扉が、控えめにノックされた。
「……失礼します。お兄様、いらっしゃいますか?」
響いてきたのは、鈴を転がすような、か弱くも透き通った少女の声。
――マリアだった。
予期せぬ訪問者の名前に、リリアとエルナがハッと息を呑む。
「お前は……マリア、なのか?」
アレンは静かに立ち上がり、扉の向こうに立つ「薄幸な妹」を見つめた。
強大な見えない敵への警戒心を強めていたアレンにとって、目の前に現れた病弱でか弱い実の妹は、同情こそすれ「警戒すべき脅威」の対象からは完全に外れていた。
血の繋がったその「優しい毒針」が、バルツァー特別自治区の心臓部へ、静かに、しかし確実に突き立てられようとしていることも知らずに――。




