第25話:微笑む妹、あるいは残された違和感
「――おや、お帰りですか? ガルン様、ミラン様」
「あ、ああ……ちっ、あの冷血なガキめ、相変わらず屁理屈ばかり並べやがって……!」
アレンの執務室から追い払われ、特別自治区の門の近くまですごすごと引き返してきたガルンとミラン。その背後から、チリン、と涼しげな鈴の音が響いた。
上品に仕立てられた旅装束。美しい亜麻色の髪を揺らし、まるで絵画から抜け出してきたかのような少女――アレンの妹である「マリア」が、心配そうな顔で両親に出迎えた。
「お父様、お母様、お怪我はありませんか? お兄様と、また言い争いになってしまったのですね……」
マリアはスッと歩み寄ると、汚れを気にする様子もなく、荒い息をつく両親の服の埃を優しく払い、懐から取り出した上質なハンカチでガルンの額の汗を拭った。その手つきはどこまでも自然で、慈愛に満ちていた。
しかし、その細い体躯はかすかに震えており、時折、痛ましげに小さく息をむせる。
「ほ、ほらマリア、お前は体が弱いんだからそんなに無理をするんじゃないよ……!」
「まったく、あの恩知らずの息子め。お前のようなこんなに手のかからない、健気で病弱な娘を置いていこうとするなんて、目が腐ってやがるんだ……!」
ガルンとミランは慌ててマリアを支え、愛おしそうにその肩を抱き寄せた。
マリアはか弱げに微笑み、首を横に振ってみせる。
「いいのです、お父様。私にはお父様とお母様しかいませんから……。お兄様がどんなに冷たくても、私たちが家族で支え合って生きていければ、それで……うっ、ごほっ……!」
「おい、マリアっ! 薬はどこだ、薬を飲め!」
咳き込むマリアの姿に、すさみきっていた両親の顔には必死の焦りと愛情が浮かび上がる。
借金取りに追われ、身を寄せ合う日々の中で、この「病弱で優しい妹を守らなければならない」という使命感だけが、どうしようもないクズである彼らの心をかろうじて繋ぎ止める鎖になっていた。
「大丈夫よ、お父様。きっとお兄様も、まだ昔のわだかまりが解けていないだけですわ。私が少しずつ、お兄様とお話しして誤解を解いてみせますから……。私、お兄様にお会いしたいですわ。もう一度、家族みんなで――」
潤んだ瞳でそう語るマリアの姿は、身勝手な両親に挟まれながらも家族の絆を信じる、あまりにも健気で薄幸な少女そのものだった。
――だが、両親が薬を探すために背中を向けた瞬間。
先ほどまで痛ましげに潤んでいたマリアの瞳から、スッと一切の感情が消え失せた。咳き込んでいたはずの細い肩の震えもピタリと止まり、その唇には、まるで愚かな道化を眺めるかのような冷ややかな笑みが浮かんでいたことには、誰も気づかなかった。
* * *
その頃、領主執務室では。
両親を追い払った後も、アレンの胸の奥にはどこか奇妙な澱のような違和感が残っていた。
「……アレン様、どうかされました?」
帳簿の計算手を止めたリリアが、アレンの険しい顔つきに気づいて声をかけた。
「いや……あの両親の様子だ。あいつらだけで、あんな堂々と自治区の権利書や財産の半分を要求しに来るだけの知恵が回るとは思えなかった。裏で誰かが知恵をつけている、あるいは――」
思考の波を巡らせていたアレンの脳裏に、かつて家族と一緒に暮らしていた頃の、あるワンシーンがフラッシュバックする。
――家を出ていく日、家族のいざこざを冷めた目で眺めていた、幼い妹・マリアの横顔。あの時彼女は、泣き叫ぶことも、怯えることもなく、ただチェスの盤面を見るような目で周囲を観察していた。
「まさか……いや」
アレンは小さく首を振って、その思考を打ち消した。
自分を捨てて家を出た両親とは違い、妹のマリアだけは、かつて同じ家で理不尽な貧しさに耐えていた「被害者」のひとりだったはずだ。しかも彼女は昔から体が弱く、両親の身勝手な振る舞いに巻き込まれながらも、ずっと耐え忍んできた。
(もし今もあの両親と一緒にいるのだとしたら、あいつもまた、あの身勝手な大人たちに人生を搾取されている「被害者」に違いない。……いや、もしかしたら、俺と同じように、この世界の理不尽さに苦しんでいるのかもしれない)
妹に対するわずかな同情と、血の繋がった家族への拭えない責任感。
健気に微笑む薄幸な妹の姿の裏に隠された、底知れない底意地の悪さと秘密の企みに気づくことのないまま、アレンは静かに息をついたのだった。




