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第3話:呪われた暴れ川と、諦めの村

泥濘の街道を抜けた先、視界が開けた瞬間に目に飛び込んできたのは――「荒涼」という言葉すら生ぬるい光景だった。

見渡す限りの湿地帯。

あちこちに茶色い水たまりが広がり、まともな畑は見当たらない。

まばらに建つ木造の家々は、過去の洪水で浸水した跡が黒ずんだ筋となって壁に残っている。屋根は雨漏りを防ぐためか藁が雑に継ぎ足され、村全体に湿気と腐敗の混ざった重い空気が漂っていた。

「……ひでえもんだろ。ここがバルツァー村だ」

荷馬車を止めたダガンが、苦い顔で唾を吐き捨てた。

「昔は東部との交易で栄えかけたこともあったらしいがな。十数年前から上流の山崩れで川の流れが狂って以来、毎年のように大水だ。金のあるやつはとっくに逃げ出し、残ったのは行くあてのない貧乏人ばかりさ」

馬車の車輪の音を聞きつけて、ボロ布をまとった村人たちが恐る恐る小屋から顔を出した。

その目は一様に落ち窪み、生気がまるで感じられない。

彼らは馬車に乗る俺の身なり――王都の官服――を見るなり、あからさまな警戒と軽蔑の色を浮かべた。

「また王都の役人か……」

「どうせ『復興税』だの『祈祷料』だのを巻き上げに来たんだろ……」

「放っておいてくれよ、どうせ次の雨でみんな流されるんだ……」

ひそひそと交わされる陰口。

そんな中、杖をついた白髪の老人が、足を引きずりながら村人たちの間を割って進み出てきた。この村の村長だろう。

「……王都よりお越しの新しい代官様でございますな。わしは村長を務めております、ゴドウィンと申します」

ゴドウィンは地面に膝をつかんばかりに深く頭を下げたが、その声音には一片の歓迎の色もなかった。

「お迎えの宴も用意できず、申し訳ございません。ご覧の通りの寒村でして、お出しできる食料も、代官様に納める税も一粒の麦すらございません。……もし前任の代官様たちと同じく、水神への生贄や高額な祈祷札をお求めでしたら、どうかお引き取りを。この村にはもう、差し出せる命も金もありはしません」

「挨拶はいらない、村長。頭を上げてくれ」

俺は荷馬車から飛び降りると、ゴドウィンの前に立った。

「俺は祈祷料を取りに来たわけでも、生贄を要求しに来たわけでもない。新任代官のアレンだ。――まず、川を見せてくれ」

「……川、でございますか?」

ゴドウィンが怪訝そうに眉根を寄せる。

歴代の代官は泥で汚れるのを嫌がり、村に入ることすら拒んで手前で引き返したか、高圧的に祈祷の儀式を押し付けて金を巻き上げた者ばかりだったからだ。

「ああ。今年の雨季が来る前に、水害を防ぐ手立てを打つ」

「……ご冗談を」

ゴドウィンは力なく首を振った。その瞳には、幾重にも重なった絶望の澱(おり)があった。

「あの大河は『竜の爪痕』と呼ばれております。一度暴れ出せば、どんな大岩も押し流し、大地を丸ごと飲み込む。人間の力などでどうこうできるものではございません。お気持ちはありがたいですが、無駄な足掻きはおやめなされ。下手に川を刺激すれば、水神の怒りを買い、村は全滅します……」

「神の怒りじゃない。あれはただの流体力学――水の物理的な運動だ」

俺はきっぱりと言い放った。

「川が暴れるのは、水が流れるべき『逃げ道』がないからだ。道を作ってやれば、水は勝手にそこを通る。案内してくれ。自分の目で確かめたい」

俺の迷いのない眼差しに気圧されたのか、ゴドウィンは息を呑み、やがて重い溜息とともに頷いた。

「……分かりました。後悔なさいますなよ」

村の東側、小高い丘の向こうに、その大河は横たわっていた。

――凄まじい川幅だった。

優に三百メートルはある。

上流の山岳地帯から運ばれてきた大量の土砂を含んだ茶褐色の水が、轟音を立てて渦を巻きながら流れている。

川岸は激しく削り取られ、かつて築かれたであろう古い石積みの堤防が、無残に砕け散って水中に沈んでいた。

「あれがバルツァー川です」

ゴドウィンが恐怖に震える声で指差した。

「今はまだ水が引いている時期ですが、ひとたび山に雨が降れば、水かさはあの丘の上まで届きます。王都の偉い魔術師様が何十人も集まって『水神鎮めの結界』を張ったこともありましたが……大水が来れば、紙切れのように破られて一瞬で飲み込まれました」

「そりゃそうだ。正面から水のエネルギーを受け止めようとするからだ」

俺は丘の突端に立ち、川の全景を見渡した。

右手を前に突き出し、瞼を閉じる。

世界の基底ネットワークへと、深く、広くアクセスを展開する。

(接続領域拡大。地形メッシュ生成、解像度――中精度。流速、勾配、断面積の測定開始)

頭の中に、バルツァー川の立体マップが三次元で高速描画されていく。

青く光るグリッド線が川底を走り、水流のベクトル矢印が無数に重なり合う。

(……なるほどな。原因はこれか)

川は村の手前で大きくS字に蛇行していた。

上流からものすごい勢いで直線的に突っ込んできた濁流が、第一のカーブの外側に直撃している。カーブの遠心力と水圧が一点に集中し、そこで堤防が決壊して村へと溢れ出しているのだ。

そして何より致命的なのは――『川底の浅さ』だった。

上流で発生した過去の山崩れによって、大量の土砂がこの蛇行部に堆積し、川の断面積(水を流せる容量)が本来の半分近くまで狭まっている。いわば、細いストローにバケツ一杯の水を一気に流し込もうとしている状態だ。溢れないわけがない。

(王都の魔術師たちの結界が破られたのも当然だ。数百トンの質量を持った濁流の運動エネルギーを、ただの静止した魔法壁で押し留めようとしたんだからな。ゼロか百かの力比べを挑めば、自然が勝つに決まっている)

だが――逆に言えば、原因さえ分かれば処方箋はいくらでも書ける。

俺は頭の中のコンソールで、素早くパラメータを組み替えてシミュレーションを走らせた。

『制約条件:現有の資材・労働力・工期(雨季までの推定残り二十日)』

『目標:集落および主要街道への浸水確率を五パーセント未満に抑制』

『施工方針:完全締め切り(正面衝突)の排除。水流の減勢および分散迂回』

青い光のシミュレーションが、幾通りもの未来の濁流を描き出す。

案A:大規模な直線放水路の開削 ―― 工期不足で失敗確率八十二パーセント。却下。

案B:堤防の全面嵩上げ ―― 土砂量不足で決壊確率六十五パーセント。却下。

そして――最後に残った、極めて現実的で美しい解。

『案C:蛇行部手前への遊水池開削 + 不連続堤防(霞堤)による段階的減勢 + 旧河道を利用した導水スプリット』

『推定成功確率:八十四パーセント』

(出た……! 勝てる)

完璧な正解(百点満点)ではない。

豪雨のピーク時には、一部の遊水地帯や遊休農地が一時的に水に浸かることになる。だが、村の居住区域と命綱である街道は完全に守り切れる。

「……アレン技官? 大丈夫ですか……?」

隣で恐る恐る声をかけてきたのはダガンだった。

俺が無言で川を見つめたまま、時折宙を指でなぞるように動かしていたため、不気味に思ったのだろう。

「ああ、大丈夫だ。いや、最高の気分だよ」

俺は目を開け、村長のゴドウィンとダガンを振り返った。

「村長。雨季が本格化するまで、あとどれくらいある?」

「えっ……? は、はい。例年通りなら、あと二十日ほどかと……」

「二十日だな。十分だ」

俺はニッと笑ってみせた。

「この川を殺す必要はない。暴れる力をいなして、別の場所に逃がしてやればいい。二十日で終わらせる突貫工事だ。村中の動ける人間を全員集めてくれ。一人残らず、日当は王国の正規賃金できっちり払う」

「は、はい……!? に、二十日でこの大河を……!? し、しかし、土木工事など、一体何をすれば……」

「巨大な壁を作るんじゃない。『水をわざと溢れさせる場所』と『水にブレーキをかける堤防』を交互に配置するんだ」

俺は足元の地面に木の枝でざっと図面を描き始めた。前世の日本の先人たちが編み出した、自然の猛威と共生するための治水の極致――『霞堤(かすみてい)』の構造図だ。

「ダガン、あんたの出番だ。近隣から石材と木材をかき集められるだけ集めてくれ。それから、腕の立つ石工と木こりをリストアップしてほしい」

ダガンは地面の図面と俺の顔を交互に見つめ、ゴクリと喉を鳴らした。街道で見た「奇跡の地盤硬化」を思い出したのか、その口元が不敵に吊り上がる。

「……へっ! よく分からねえが、旦那の頭の中じゃ、もうこの暴れ川が大人しくなってる絵が見えてるってわけだな?」

「ああ、見えているよ。確率八十四パーセントの勝利の絵がな」

俺は濁流を見据え、力強く拳を握りしめた。

「神頼みはおしまいだ。ここから先は、人間の知恵と土木の仕事だ」

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