第2話:ぬかるむ街道と、最初のパラメータ
王都を出発して五日目。
東へ進むにつれて道幅は狭まり、整備された石畳は跡形もなく消え失せていた。
車輪が泥濘に足を取られるたび、ガタガタと酷い衝撃が荷台に響く。
「おいおい、兄ちゃん。舌噛まねえように気をつけてな。この先は『バルツァー泥街道』だ。街道なんて呼べる代物じゃねえがな」
手綱を握る御者の男が、苦々しい顔で煙管を吹かした。
名をダガンという。日に焼けた筋骨隆々の巨躯に、頑丈そうな革当て。長年この荒れた東部街道で行商の荷車を引いてきた、ベテランの運び屋であり、元は石工もやっていたという現場叩き上げの男だ。
厄介払いされた俺の護衛兼案内役として、水理局が一番安上がりな日雇いとして雇い入れたのが彼だった。
「ひどい道だな。これじゃ荷車一台通すのにも倍以上の時間がかかる」
「へっ、雨季が近づきゃこんなもんじゃねえよ。バルツァーの川が一度暴れれば、この一帯は全部腰まで浸かる泥沼だ。歴代の代官様たちも、馬車が泥にハマった時点で泣き言を言って王都に引き返したもんさ。兄ちゃん……いや、新任の代官様も、命が惜しけりゃ今のうちに引き返したほうが身のためだぜ?」
ダガンはからかうように笑うが、その瞳の奥には「どうせ貴族の役人なんぞに何ができる」という深い諦めと冷ややかさがあった。
「引き返す気はないよ。道が悪いなら、直せばいいだけの話だ」
「言うねえ。だがな、自然相手にゃ気合も祈りも通用しね――」
その時だった。
ズズズ……と、不穏な重低音が足元から響いた。
直後、二頭立ての輓馬が狂ったように嘶き、前足を大きく跳ね上げる。
「うわっ!? しまっ――止まれ! 止まりやがれ!」
ダガンの怒声も虚しく、馬車の右前輪がズブズブと地面に沈み込んでいく。
ただの水たまりではない。連日の湿気で地下の粘土層が液状化し、底なしの泥壺と化していたのだ。
ミシミシと軋む車軸。馬車には、俺の私物だけでなく、ダガンが私財を投じて仕入れた東部向けの貴重な交易物資――塩や鉄の農具が満載されている。
「くそっ、底が抜けてやがる! おい、馬を外すぞ! 荷は諦めろ、車ごと沈むぞ!!」
ダガンが青ざめ、腰のナタで馬具の革紐を切り離そうとした。
全財産同然の荷を捨てる苦渋の決断。その手が悔しさで小刻みに震えている。
「待て、ダガン。馬を落ち着かせろ。荷を捨てる必要はない」
「あんた馬鹿か!? 見て分からねえのか、この泥は一度呑まれたら大人十人がかりで引っ張っても抜けねえ! 祈祷呪文でも唱えて奇跡でも待つ気か!?」
「祈りなんて無意味なものは使わない」
俺は荷台から飛び降りると、ぬかるみの縁にしゃがみ込み、泥の中に右手を差し入れた。
ひんやりとした泥の感触とともに、大地の奥底を流れる『世界の魔力基底ネットワーク』へと意識を接続する。
(よし、接続確認。パラメータを拾うぞ)
視界の裏に、無数の光の奔流が立ち上がる。
土質、水分含有率、周囲の傾斜勾配、土粒子間の摩擦係数。
この世界の人間には「大地の精霊の声」に聞こえるものが、俺には明確なデータログとして流れ込んでくる。
(深さ一・二メートルに硬質岩盤層。沈下しているのは表層の含水粘土。――なら、打つ手はある)
俺は胸の奥で、高速で「指示文」を組み上げた。
この世界の魔術師なら、ここで「大地よ、固まれ!」と大声で叫ぶだろう。
だが、そんな曖昧極まりない指示を出せば、魔力はどこをどう固めていいか分からず暴走するか、広範囲の土を中途半端に乾燥させてひび割れを起こすのが関の山だ。
魔法に「奇跡の正解」を求めてはいけない。
必要なのは、明確な制約条件と、最も成功確率の高い局所的出力だ。
『対象:車輪直下および半径一メートルの含水粘土層』
『制約条件:水分を急速蒸発させるのではなく、下層の砂礫と結合させて固結』
『目標出力:圧縮強度十メガパスカル以上の支持基盤を三秒以内に形成。余剰水分は右側の低地へ浸透排出』
思考の中で、条件式の重み付けを最適化する。
計算上の成功確率は――九十一パーセント。
十分だ。残りの九パーセントのリスクは、現場の力業でねじ伏せる。
「ダガン! 馬の手綱を取れ! 俺が合図したら一気に前へ引かせるんだ!」
「は、あぁ!? 何言ってんだ――」
「いいから引け!!」
鋭く一喝すると同時に、俺は掌からプロンプトをネットワークへと流し込んだ。
「――『置換・地盤硬化』」
カッと、泥の底が青白い幾何学的な光を放った。
爆発も派手な地鳴りもない。
ただ、ボコボコと泥の中から泡が吹き出し、車輪を呑み込んでいたドロドロの泥土が、まるで急速にセメントが硬化するかのように――目に見える速度で締まり、灰色の強固な岩盤へと質感を変化させていく。
「なっ……!? 泥が……固まった……!?」
「今だ、引かせろッ!」
呆然とするダガンの尻を蹴飛ばす勢いで叫ぶ。
我に返ったダガンが、長年の本能で手綱を力任せに引いた。
「うおおっ! 行けぇぇっ、走れッ!!」
ヒヒィィン! と嘶いた二頭の馬が蹄に力を込める。
沈みかけていた右前輪が、新しく形成された即席の硬質足場をガッチリと捉え――ゴバァッ! と音を立てて泥壺から抜け出した。
ガラガラガラ……!
荷馬車は勢いよく前方の平坦な地面へと躍り出た。
荷の脱落はゼロ。車軸の破損もなし。
静寂が戻った街道に、荒い馬の鼻息と、ダガンの荒い呼吸だけが響く。
「……う、嘘だろ……」
ダガンは手綱を握ったまま、硬直していた。
視線の先にあるのは、さっきまで底なしの泥沼だった場所だ。そこだけが、まるで熟練の石工が何日もかけて敷き詰めたかのような、平らで頑丈な石の道へと変貌していた。
「泥を……一瞬で敷石に変えたのか……? そんな神聖魔術、王都の宮廷導師様だって見たことねえぞ……。兄ちゃん、あんた一体何者なんだ……? 神の御使いとでも言うのか……?」
「違うよ」
俺は泥だらけになった手を布で拭いながら、息を吐いた。
「土の中に含まれる砂と水分を、一番固まりやすい比率で組み替えただけだ。奇跡でも何でもない、ただの確率と条件の計算だよ」
「か、確率……? じょうけん……?」
ダガンはポカンと口を開け、まるで異国の言語を聞いたかのような顔をしている。
無理もない。彼らにとって魔法とは祈りであり、理解不能な神秘なのだから。
だが、ダガンはごくりと喉を鳴らすと、おもむろに荷台から飛び降り、俺の前に大股で歩み寄ってきた。
そして、太い両手で俺の肩をガシッと掴んだ。
「理屈はさっぱり分からねえ。だがよ……あんた、本物だな」
その目から、先刻までの侮りと諦めは完全に消え去っていた。
現場で汗を流す男特有の、腕の立つ職人に対する剥き出しのリスペクトがそこにあった。
「歴代の代官は、泥で汚れるのを嫌がって馬車から降りもしなかった。神に祈るだけで、俺たちの荷が沈んでも鼻で笑ってたようなクソ野郎ばかりだ。……だが、あんたは真っ先に泥に手を突っ込んで、俺の荷を、この馬たちを救ってくれた」
ダガンはニッと白い歯を見せ、胸をドスンと叩いた。
「決めたぜ、アレンの旦那。バルツァーまで荷を運んだら即座におさらばするつもりだったが……気が変わった。俺をあんたの現場で使ってくれ。石運びでも木材の調達でも、馬車の運転なら何でもやってやる!」
願ってもない申し出だった。
どんなに高度な計算ができても、土木は最後には「現場の腕と人手」がものを言う。土地勘があり、馬車を扱え、石工の経験もあるダガンが味方になってくれるのは、千人力の収穫だ。
「助かるよ、ダガン。これから向かうバルツァーは、この泥沼の比じゃない化け物みたいな場所だ。あんたの腕が必要になる」
「へっ、望むところだ! 旦那の言う通りにすりゃ、あの呪われた川だって本当にどうにかなっちまうかもしれねえ!」
ダガンは豪快に笑い、俺の手を力強く握り返した。
空を見上げれば、東の空に鉛色の分厚い雨雲が立ち込め始めている。
季節の変わり目、大雨の足音が近づいていた。
だが、俺の隣にはもう、頼もしい現場の相棒がいる。
俺たちは再び荷馬車に乗り込み、決戦の地――バルツァー氾濫原へと車輪を進めた。




