第1話:祈りで川が止まるなら、土木技師はいらない
「――以上が、今年度の王都東部治水計画に対する私の具申です」
大理石の執務室に、羊皮紙を束ねる乾いた音が響いた。
豪奢なデスクの向こう側で、仕立ての良い官服に身を包んだ中年男――宮廷水理局長バドリック卿が、あからさまに不快そうな顔で鼻を鳴らした。
「……アレン技官。貴様、正気で言っているのか?」
「極めて正気です、長官。過去三十年の降水記録と河川水位の推移を照合しました。今夏、十年に一度の大雨が降る確率は約七十二パーセント。現在の大水門の耐久限界を超える確率に至っては八十五パーセントに達します。祈祷の儀式に国家予算の二割を費やす暇があるなら、直ちに下流の遊水地帯を確保し、土嚢と蛇籠の手配を――」
「黙れ! 不敬であろうが!」
バドリックが机を力任せに叩いた。
飛び散ったインクの匂いが鼻をつく。
「水神の加護を祈る神聖なる大祈祷を『無駄』だと吐き捨てるか! 川が氾濫するのは民の信仰心が足りぬからだ! 偉大なる導師様が紡ぐ神聖魔術の奇跡を、得体の知れぬ数字や確率などという不確かな妄言で冒涜する気か!」
「……不確かなのは、そちらの大祈祷のほうですよ」
俺はため息を噛み殺しながら、淡々と事実を返した。
「昨年、水害祈祷に金貨三千枚を費やした結果はどうでしたか。下流の三つの村が濁流に呑まれ、百人以上の農民が命を落としました。神託の魔術式を解析しましたが、あれは『雨を止めてください』というあまりに曖昧な出力を願っているだけです。制約条件も境界条件も与えられていない。天に向かって耳障りな音を喚き散らしているのと変わりません」
「貴様ぁっ……! 魔術の素養すらない落ちこぼれ技官の分際で、天啓を耳障りな音呼ばわりするか!」
バドリックの顔が怒りで真っ赤に染まる。
この世界の人々は、魔法を「神の奇跡」や「絶対の天啓」だと信じ切っている。
だが、俺には最初から見えていた。
――この世界の『魔術』の正体は、神の奇跡なんかじゃない。
俺には、前世の記憶がある。
現代日本で道路や河川などの社会インフラ整備に携わり、晩年は数理モデルや生成AIを用いた災害予測・物流最適化システムを構築していた技術屋の記憶だ。
過労の末に命を落とし、気がつけばこの中世風の異世界に転生していた。
そしてこの世界の「魔法陣」や「詠唱」の構造を初めて目にしたとき、全身に鳥肌が立ったのを今でも覚えている。
それは、前世で嫌というほど扱った――超巨大言語モデル(LLM)、確率論的な情報処理システムそのものだった。
世界に満ちる魔力とは、膨大な自然現象のパラメータを内包した基底ネットワークだ。
そして詠唱とは「プロンプト(指示文)」に過ぎない。
この世界の魔術師たちは、仕組みも理解せず「神よ、救いたまえ」などという雑極まりないプロンプトを投げ、エラーや暴走を起こしては「祈りが足りなかった」と天を仰いでいる。滑稽を通り越して、現場を預かる技術者としては怒りすら覚える怠慢だった。
「もうよい。貴様のような減らず口を叩く無能、我が水理局には不要だ」
バドリックが醜悪な笑みを浮かべ、一枚の羊皮紙を俺に投げつけてきた。
赤い蝋で封印された、左遷の辞令書。
「東の最果て、バルツァー氾濫原の代官を命じる。荷物をまとめて今すぐ失せろ」
バルツァー。
その名を聞いて、室内に控えていた他の役人たちが嘲笑を浮かべた。
王国で最も厄介視されている、呪われた土地だ。
大雨が降るたびに大河が暴れ、泥濘と化した大地は街道すら分断する。作物は育たず、魔物が湧き、歴代の代官がことごとくサジを投げて逃げ出した絶望の寒村。
「ふん、確率だの土木だのとほざく貴様なら、あの悪夢の泥沼を一人で何とかできるのだろうな? 行って泥水を啜るがいい!」
「……謹んで拝命いたします」
俺は深く一礼し、辞令書を拾い上げた。
バドリックは俺が絶望して許しを請う姿を見たかったのだろうが、残念ながら見当違いだ。
こんな机の上の神頼みしかできない連中と付き合うのは、今日で終わりだ。せいぜい清々した。
(バルツァーか……)
あそこは確かに毎年氾濫を繰り返す危険地帯だが、水理データを見る限り、土壌自体は上流から運ばれる無機質に富んだ超一級の肥沃地だ。
おまけに東部諸国と王都を結ぶ最短ルート上に位置している。
――もし、あの暴れ川を制御し、安全な街道を一本通すことができたなら。
あそこは不毛の泥沼どころか、王国随一の穀倉地帯にして、莫大な物流を牛耳る要衝へと化ける。
「神に祈って川が止まるなら、誰も苦労はしないさ」
背後で吠え続けるバドリックの罵声を背に、俺は迷わず執務室の扉を引いた。
待っていろ、バルツァー。
自然は完璧な正解など教えてくれない。
だが――確率を味方につけた土木がどれほどの奇跡を起こすか、この手で証明してやる。




