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第21話:神頼みの終焉、そして蠢く強欲

「――よし、こんなところか」


バルツァー特別自治区、領主執務室。 窓から差し込む穏やかな秋の陽射しを浴びながら、俺は書き上げたばかりの一通の手紙に蝋で封印を施した。 宛先は、王都の辺境資料室に左遷されているはずのポンコツ教師――エルナ先生だ。


『……というわけで、王都のしがらみはすべて片付きました。我がバルツァー自治区には、先生の解析能力を存分に活かせるインフラ管理室長のポストと、最高の研究設備が用意されています。退職届を叩きつけて、すぐにこちらへ来てください』


そんな内容をしたためた招待状だ。 かつて俺の数式(コード)の価値を誰よりも理解し、身を挺して庇ってくれた唯一の恩人。彼女の頭脳があれば、俺がこれから設計していく広域インフラ網の構築はさらに加速するだろう。


「アレン様! 東部の商業ギルドから、独占取引の嘆願書がまた三件も届きましたわよ!」


執務室の扉が勢いよく開き、両手に書類の束を抱えたリリアが嬉鳴りを上げながら飛び込んできた。 特別補佐官という肩書きを手に入れた彼女は、今や完全に水を得た魚だ。持ち前の貴族としての教養と法務知識をフル回転させ、押し寄せる商人たちを相手に一歩も引かない見事な交渉を見せている。


「ご苦労。ギルドの足元を見る必要はないが、インフラの維持管理費として通行税のパーセンテージはきっちり確保しておけ」 「ええ、お任せくださいな! バドリック様という最大の障害も消え去り、もうこのバルツァーの発展を邪魔できる者など、この世界に存在しませんわね!」


自信満々に胸を張るリリアを見て、俺は小さく笑い、窓の外へと視線を向けた。 黄金色に輝く麦畑と、ひっきりなしに馬車が行き交う白く真っ直ぐな街道。


(ああ、その通りだ。暴れ川は鎮まり、政治的なバグも排除した。もはやこの土地の未来に、予測不可能なエラーなど存在しない)


俺は心の中で、完璧に組み上がった数式を眺めるような心地よさを感じていた。 物理法則と確率演算が導き出す、百パーセントの繁栄と平和。 俺の計算に、狂いは一つもないはずだった。


――だが。 俺は一つだけ、計算外のパラメータを侮っていたのかもしれない。 それは『人と人との縁(キズナ)』だ。


良い縁はお互いに利益をもたらし、世界(システム)を豊かに加速させる。だが、悪い縁はただひたすらに片方の足を引っ張り、全体を泥沼へと引きずり込む。 そしてこの世界には、どれほど法的な契約書(プログラム)で切断したつもりでも決して切るに切れない、最も厄介で不条理な『親子の縁(キズナ)』というものが存在するのだということを。


* * *


同刻。栄華を誇る王都の、最も暗く淀んだ下層の貧民街。 昼間から酸っぱいエールの匂いと紫煙が立ち込める薄汚い酒場(賭博場)の片隅で、一組の中年男女が、取り立て屋の巨漢に胸ぐらを掴み上げられていた。


「おい、ガルン。負けが込んでるな。先月貸した金貨五枚、そろそろ耳を揃えて返してもらおうか。払えねえなら、隣で震えてるお前の細君の臓腑でも売り飛ばすしかねえなぁ?」 「ひぃっ!? ま、待ってくれ! あと数日……いや、あと一日だけ待ってくれれば、必ず大穴を当てて倍にして返すからよぉ!」


無精髭を生やし、血走った目をした男――ガルンが、涙と鼻水を垂らしながら懇願する。 その隣では、派手で安っぽいドレスを着崩した女――ミランが、「私には関係ないわよ! あんたが勝手に借りた金でしょ!」と金切り声を上げていた。 絵に描いたような、堕落しきった人間のクズ。


「言い訳は聞き飽きた。今すぐここで腕の一本でも――」 「おいおい、聞いたかよ昨日の号外!」


取り立て屋がナイフを抜こうとしたその時、隣のテーブルで飲んでいた行商人たちの大きな話し声が、酒場の喧騒を割って耳に飛び込んできた。


「ああ、水理局の局長が汚職で捕まったってやつだろ?」 「いや、そっちじゃねえよ! 東の果ての泥沼だった『バルツァー村』のことさ! なんでも新しく派遣された代官様が、とんでもない魔法の道と水路を作っちまって、今や東部の富を独占する『特別自治区』になったらしいぞ!」 「マジかよ!? その代官って、一体どこの大貴族様なんだ?」 「大貴族どころか、水理局で下働きをしてた若い平技官らしいぜ。名前は確か……そう、『アレン』って言ったかな」


――ピタリ、と。 借金取りに首根っこを掴まれていたガルンと、隣で喚いていたミランの動きが、不自然なほど完全に停止した。


「……おい。あんた、今、なんて言った?」


ガルンが、血走った目を極限まで見開き、ギギギ……と首を回して行商人の方を向いた。


「アレン、だと言ったのか? バルツァーの領主になった若造の名前は、アレンだと言ったのか……っ!?」 「あ、ああ、そうだが……黒髪で、無愛想な顔立ちの若い男だって噂だぜ」


その言葉を聞いた瞬間。 ガルンとミランの顔に、言葉では言い表せないほど醜悪で、粘り気のある強欲な笑みがへばりついた。


「ひ、ひひっ……はははははははっ!! おいミラン、聞いたか!? アレンだ! 俺たちの馬鹿息子が、一発当てて大金持ちの領主様になったらしいぞぉっ!!」 「ええ、ええ聞いたわよガルン! あんな無能な落ちこぼれが領主だなんて! ああ、でもなんて親不孝な子なんでしょう! 自分がそんなに大儲けしているのに、生んで育ててやった私たちには、銅貨一枚送ってこないなんて!」


狂ったように歓喜の声を上げる二人を見て、借金取りの男が怪訝そうに眉をひそめた。


「おい、狂ったか。あの大出世した領主様が、お前らみたいなクズの息子なわけが――」 「本当さ! 水理局に就職させたのも俺たちだ! あいつは間違いなく俺たちの息子だ!」


ガルンは借金取りの腕を振り払い、ヨダレを垂らさんばかりのゲスな笑顔で身を乗り出した。


「おい、借金の返済は少しだけ待ってくれ! なに、ほんの数日だ! 俺たちは今から、東部のバルツァーへ『可愛い息子の顔』を見に行ってやらなきゃならねえからな!」 「あの子が水理局の給料を差し出す契約書にサインして親子の縁を切ったなんて、ただの紙切れの話よ! 領主様が『年老いた可哀想な両親』を冷酷に追い返したなんて噂が立てば、せっかくの出世に傷がつくものねぇ。ふふふ、いくらでも絞り取れるわ……!」


論理も、法律も、彼らには一切通用しない。 あるのはただ、血の繋がりという呪いを利用して他人に寄生しようとする、底なしの強欲だけだ。 法的に縁を切っていようが関係ない。「世間の目」と「切るに切れない親子の縁」という、計算式(プログラム)では最も弾き出しにくい不条理を武器にして、二人のクズはバルツァーへと向かう安馬車に乗り込んだ。


王都から東へ。 暴れ川よりも、武装した査問官よりも、ある意味で最も質(たち)が悪く、最も論理(プロンプト)の通じない『最悪の悪縁(キズナ)』が、晴れ渡ったバルツァーの空へ向けて、ゆっくりと、しかし確実に忍び寄っていた――。


【第一章・完】

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